空間〈内距離〉のモデル

333|いぬのせなか座

 ある身体の行為が、それを取り囲む単一の環境に還元されず、同時にその身体の履歴にもまた安易に還元されない、外部から見ればナイーブな〈自由〉の発露であるように感じられるとき、それをしかし外部から切り離された魂の、身体内部への埋め込みの根拠とはせず、あくまで魂は身体外の環境にこそ埋め込まれている(あるいは内部と外部の結合としてあらわれる)としたいなら、身体の発する〈自由〉な行為(外部環境に還元されないように思える行為)が、別の時空間に位置する別の環境から来るものだと考えることは可能だろう。つまり、ある身体内には、それを直接取り囲むものとは別の環境と接する回路が用意されており、〈自由〉な行為は、その回路を介して生じる複数の環境の掛け合わせとして観察されるものと考えられる。ただ、その際、環境と環境の掛け合わせが行われていることは外部から観測可能だが、そのふたつ(あるいはそれ以上)の環境間の距離は、身体内部に閉じた思考としてあるため、外部からは観察できない(それは相手がおなかに痛みを感じているのかどうかがその身振りからは確定できないのと近い)。
 言語表現における〈語り手〉の把握は、上記の文脈でいえば、テキスト内に〈自由〉=魂を見出すことと言い換えることができる。文ごとに知覚される言語表現主体を束ねるメディウムたる〈語り手〉は、「私」や「彼」や「たろうくん」といったような、比較的言語表現を担いやすいものを指し示す単語を中心に、テキスト上に磁場を作る(当然、「いす」や「ねこ」や「今日」や「痛い」といった単語もまた、用意された構造次第では、〈語り手〉として機能しうる)。〈語り手〉というコンポジションの法則を読みにおいて学び、駆使することで、人は、ある同一の文がテキスト内の別々の場所にあったとしても、それぞれの担いうる意味がまったく異なるという、ごく当たり前のケースを受け止め切ることができるし、ひとつのテキスト内ではっきりと矛盾した内容が記述されていたとしても、〈語り手〉の切り替えあるいは〈語り手〉それ自体がゆるやかに変容した結果として何気なく読み終えることが可能となる(そこでのゆるやかな変容はもちろん読み手のゆるやかな変容と対応する)。つまり、字義通りには受け止めきれない余剰がテキスト内に思考として生じてしまう。ゆえに〈語り手〉の把握は、ある身体が、その周囲にあるように見える環境に還元されないような行為をおこなっているとき、その内部に別の環境が掛けあわされている(ここに〈自由〉=魂がある)と感じるのに似ている。言語とはそもそもそれ自体、無数の記憶や環境の掛け合わせをそこにおいて生じさせる、ひとつの統合機関……編み物……身体としてある。
 その上で、その身体が位置付けられるところの空間が、活字の並びでしかない言語表現において立ち現れうるのはなぜなのか。言語表現における空間知覚は、風景を描写する中でその風景の内部に位置づけられる身体の履歴と位置と特性が〈語り手〉のそれとして、読みの傾向を作り出すなかで把握されるものであると同時に、なによりある〈語り手〉が、別の場所で立ち上げられた〈語り手〉と、たがいに交わらないまま衝突させられたときにこそ極端に露呈する。つまり魂と魂の衝突。二種類の〈環境の掛け合わせ方〉の掛け合わせ……そこで空間は、単にある視点から遠近法的にひとつの環境を観測することで把握される静的なものとしてではなく、環境を統制する視点において、別の視点がこちらの内部を行き交う、その行き交い可能な行為の幅として、私というものが、立体視のようなかたちで、事後的に思い出されるものだと感じられる。複数の〈語り手〉のかけあわせとして立ち上がる空間が重要なのは、それが、複数の環境のかけあわせによって生じる〈語り手〉それ自体の内的距離を、外的距離へと反転させたものとして――あるいは逆に、〈自由〉=魂を、外的距離が内的距離へと反転したものとして考える要因として――思考可能であるためだ。そのとき私は複数の距離の折りたたまれた空間として感じられる。きのうの私の次に今日の私が来て、その次に明日の私が来る、その執拗な連鎖の法則を……あるいは遠くにある窪地を見ながら私は平坦なここにいる、そのときの窪地に感じられる生々しいへこみを……別の魂をもった私との共同思考の素材とすること。これは、ホラー映画において、現実とは別の、幽霊個々人の所属する因果律が、幽霊ごとにばらばらに立ち上がり空間内にうろつきさまようが、同時にそれはそれらを知覚しているカメラあるいは登場人物の内部で生じている事態でもある(空間の性質がゆらいでいるのと同様に私が私であることがゆらいでいる)ことと、いくらか重ねて捉えられる。私が私であることへの思考と、国家が国家であることへの思考が、編み込まれるプロセスにこそ、幽霊(根本的に矛盾した空間同士の近接配置)は蔓延る。
 外部の距離を、内部の距離として扱い、さらにそれが外部の距離の複数性を準備する……この事態を実際の素材をもとに考えるために、言語的な空間性を、ある環境内に視覚情報として露出させてみる。3台のスマートフォンを用意し、そのうち2台が、互いにビデオ通話を行うことで、自らの撮影する空間を相手の画面に向けて伝達、上映する。あるスマートフォンに備え付けられているカメラレンズと画面は、いつもならその端末内部で自己完結している(画面はそれの属する端末の自己表出としてある)が、そのような事前の習慣が、奇妙にねじられるけれども消去されきることはなく絶えずつきまとうため、あるカメラが向けられている先の空間と、そのカメラの画面があらわす映像内の空間が、まったく時空間を別としているようであっても、ひとつの端末内部の事態として常識通りに処理されてしまったとき、端末間の関係が、単一端末独自の抵抗(魂?)として、錯覚される。外的距離が、内的距離へと反転する。
 さらにそうした様を、残り1台で撮影してみる。このとき撮影している様子もまた、その端末の画面にリアルタイムで表示されているため、それをまた2台のカメラのいずれかが撮影することで、結果として手元に残る映像のなかには、それを撮影しつつ自己表出している画面の運動が、指示されることになる。自己表出と指示表出が相互に入れ替わり横転する(これは語る私が語られる私としてテキスト内にリテラルに表示されがちな言語表現においてはありふれた状況である)。加えてここへ持ち込まれる鏡面は、ある空間把握の論理のなかの前後関係を反転させることで把握可能なもうひとつの空間をつくるとともに、2台のスマートフォンが行う映像交換が、前後とは別の何かを反転させる鏡面として機能していることを強調する。また、そもそもスマートフォンの画面それ自体も、撮影しているカメラのレンズと作り出す角度がある一定値を超えたとき、上映画面としての自己表出をやめ、単なる鏡面として像を映すことや(そのときあらわれる空間は、撮影されている端末の自己表出としてではなく、撮影している端末の自己表出としてあらわれる)、反転されたふたつの空間が、鏡面へのカメラの接近によってその区分を見失い、ひとつの空間としてあらわれながら、しかしその物質的性質は失われず、鏡面の上にスマートフォンを置くことができる(その鏡面自体が視点の立つ座標として把握可能である)、といったことなども、ある。
 とはいえここまでは、とても常識的な混乱のあり方とも言える。問題は、そうして立ち上がる空間(言い換えれば、この映像はある座標に立つものが捉えた自己表出として把握可能である、という論理が、内側で増幅させられて奇形化した結果得られる、因果律の掛け合わせ)の内部で、身体たち(彼らは、自分の持つ端末の画面に表示されている、別の端末の映像を大きな拠り所としながら、同時に別の身体がどのような位置で何をしているかをも把握しつつ、自分の端末を動かしていくことを求められるわけだが、そもそもこれら身体こそが外部環境を知覚し自己表出として行為を行っている端末であり、逆に言えばスマートフォンはそれぞれ自己表出を行う身体として錯覚させられるものだった)が、どのように動き、行き交えるのか、あるいは行き交うことでなにが生じ、どのような転用可能性が開けるのか、だ。そしてなにより、こうして即物的に露呈した空間が、再度個々の身体の内部に反転していくさまを、言語の空間性のモデルとして使用可能だろうか。それらを議論の焦点のひとつとする座談会4(それ自体、複数の空間を立ち上げながら別の空間に自らを介入させていく、ということが可能であるような空間=幽霊の蔓延る場の制作でもある)に向けた、ひとつの素材を得るための、練習として……。

 


練習1


練習2


練習3