柴崎友香『ビリジアン』について(質問応答7/25)

 

 
20歳のころ、それこそまさにクロード・シモンが表現していたような、テクストにおける複雑な操作を、比喩的なものとしてではなく、生々しい肉体における圧としていかに読み、書くか、ということに悩んでいた自分にとって、『ビリジアン』は、非常にシンプルな手つきでもってそれを達成しているように感じて、熱中していた、というところがあると思います。実際、「Puffer Train」という小説を書いていたときには、一番影響を受けたのは『ビリジアン』だったと思います。
 
『ビリジアン』ではないけれども柴崎友香について当時の関心を書いていたものがあったので、以下、再掲します。

hirokiyamamoto.hatenablog.com

 

また、当時、『ビリジアン』についてざっくりとですが書いたものが、Dropboxのなかに保存されていました。

けっこう恥ずかしい感じですが、以下に、そのまま載せます。今ならたぶんもうちょっとうまく言えると思いますが……(柴崎さんについては、あらためて『ビリジアン』を読み返しつつ、最近の作品も含めて論じる機会があったらいいな、と感じています)

 

※あと、ぼくがむかし編集を担当させていただいた、古谷利裕「わたし・小説・フィクション 『ビリジアン』と、いくつかの「わたし」たち」も、『ビリジアン』を扱ったものとして面白いと思います。http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/wasebun2017es.html

 

 

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柴崎友香は、短篇集『ビリジアン』のなかで、文末が「~た」となる短い文章を連続して使いながら、過去のいっときを描写する。それは、「~た」が過去の時制を持つことを上手く使い、「~た」で終わる文を多用することによって、過去を何重にもつなげること、さらには今の多重性を含んだ文章群を書き連ねていく表現方法である。

 

小説では、一般的に過去形を用いることが多いが、それが日常的な意味での過去をそのままに表現することは少ない。なぜなら、小説というものは、あくまで「語られた」ものであり、今その場で「体験されている」ものではないからである。もちろん、現在形や未来形で語られる小説もある。だが、それは「小説とは過去形である」事実の内側からその転覆を謀ったもの、もしくは「書かれる世界においての一般的事実を書き示す」ために用いられたものである。たとえばSF小説で設定を提示する際、その文体は現在形で書かれることになる。

 

柴崎友香の短編「赤の赤」では、センター試験を受けた日を、そのときの「わたし」の視点で描く。しかし、これには絶えず、「その日を思い出す未来(現在)のわたし」という視点も背景にあり続ける。

 

 教室の前では、ストーブが燃えていた。水色のホースを通ってきたガスが燃え、円柱状の網を赤く焦がしていた。わたしたちの学校よりもひと回り広い教室では、一組の机と椅子に一人ずつが座り、一人が一本の鉛筆を握って、マークシートを塗りつぶしていた。

 あとに続く設問自体は簡単だった。哲学者の名前や時代や用語を選び、その数字に対応したところを塗り潰すだけだった。覚えていることばかりだった。

 クリスマスから大晦日の前の日まで、わたしは学校に行って、「倫理・政経」というめったに選択する人がいない科目のために梨田先生の補習を受けた。生徒はわたし一人だった。一日目は、眠たかった。一人しかいないので、寝てはいけないと思った。梨田先生が、

「今眠たいやろ、しんどいやろ、帰りたいやろ」

 と言ったので、自分が眠っていたことを知った。昨夜家族を救急車で病院に連れて行ったので寝るのが遅くなったんです、と言ったけれど、梨田先生は、

「理由はわかったけど、それは今やらなあかんこととは関係ない」

 と言った。そういうことを言う人はおもしろいと思って、わたしは補習を受けたに違いなかった。

 あの教室にあったストーブと、この教室にあるストーブは同じだった。同じ色で燃えていて、離れると全然熱くなかった。

 マークシートを塗るのは好きだった。くじ引きみたいだと思っていた。問題文をもう一度読んだ。もう涙で滲んだりはしなかった。だけど、善く生きるためにはどうすればいいか、考えなければならなかった。

 

この短い箇所だけでも、大まかに分けて三つのわたしが存在している。

  • 教室でセンター試験を受けているわたし
  • 数ヶ月前、学校で補習を受けていたわたし
  • それらを思い出している未来(現在)のわたし

 

基本的には、①の時間の推移が、小説内の現在として、時間は進行する。だが、それによって、本来思い出されているはずの(過去形で表現されているはずの)①のわたしが、さらに過去を思い出してしまう。「あの教室にあったストーブと、この教室にあるストーブは同じだった。」というとき、「この」という言葉遣いからしても、センター試験を受けているわたしは現在の時間を担っており、センター試験を受けている日の時間の経過を体験しているが、しかし次の瞬間、「マークシートを塗るのは好きだった。くじ引きみたいだと思っていた。」という、「センター試験を受けていた日のわたしを思い出すわたし」が出現する。特に「マークシートを塗るのは好きだった。」という文章では、センター試験を受けていた時の過去だけでなく、その周辺の、つまり高校生のころの自分という、非常に広い範囲の過去を扱っている。このとき、センター試験を受けているわたしは、未来のわたしを通過することによって、なかば習慣化された幅の広いわたしのなかの一点として、現在でありながら回想の渦に巻き込まれてしまっているのである。

 

この激しい記憶の運動は、小説という形態を用いて過去を思い出そうとする際に露出するものだ。小説における現在とは、過去形ではなく、読み手に親しみの持てる時間の、その常駐性にあらわれる。それをよく示しているのが、次の箇所である。

 

 門の前からバスに乗った。どんどん建物が低くなり建物の間隔が広くなって、行き先の違うバスに乗ったことに気づいた、途中で降りた。もう真っ暗だった。空に赤はなくて、住宅地の端の崖の下に街の明かりが見えた。青白い光だった。

 駅に着くと、伝言板にわたしの名前が書いてあった。そのあとにもなにか書いてあった。緑色の板に白いチョークで。だけどなんて書いてあったか、どうしても思い出せない。覚えているのは、改札を通るときに一人で笑っていたことだけだ。

 

「駅に着くと、伝言板にわたしの名前が書いてあった。そのあとにもなにか書いてあった。緑色の板に白いチョークで。」という文章は、過去形でありながら現在である。先ほどの区分で言うと、①のわたしである。しかし、次の文章「だけどなんて書いてあったか、どうしても思い出せない。覚えているのは、改札を通るときに一人で笑っていたことだけだ。」は、この小説には珍しく、現在形で書かれている。この文章のわたしは、③だろう。①のわたしを、③のわたしが思い出そうとして、うまく思い出せない。①は、現在に進行するわたしのようでいて、実際は過ぎ去った(失われた)過去のわたしであることを、小説が思い出す。③のわたしが現在形によって書かれなければならないというわけではなく、①のわたしを現在とする視点から距離を置こうとした語り手のわたしの認知が、文体の時制の変化を生んだ結果、現在形があらわれただけなのである。

 

こういった、巧みな時制の変化によって、柴崎友香はこの短編の末尾に、以下の様な描写を行う。

 

 電車が止まると、ホームには中学の制服を着たわたしが立っていた。荷物はなにも持っていなくて、ドアが開くと真っ先に電車に乗り込んだ。

 電車を降りたわたしが振り返ると、中学の制服を着たわたしがジャニスの横でドアの前に立っているのが見えた。中学の制服を着たわたしは、ジャニスのほうをちらっと見たけれど、ジャニスはまた目を閉じて今度はほんとうに眠ってしまったみたいだった。

 わたしは長い階段を降りて改札を抜け、青信号が点滅している横断歩道を走った。

 

センター試験を受けた日のわたしは、中学生のわたしを見てしまう。これは、先ほどまでのわたしとは種類が大きく異なっている。

現在のわたし(③)が思い出している過去のわたし(①)は失われたわたしであるにもかかわらず推測などではなく、まるで現在のようなはっきりとしたわたしの像を含んでいる。その①のわたしが、中学生のわたしを見る。現在のわたしがもしも、中学生のわたしを思い出したとすれば、そのとき用いられる過去形での表現では、あくまで「思い出しうるわたし」もしくは「思い出しているかいないか曖昧なわたし」となってしまうだろう。小説における過去形は、現在の性質をおびてしまう。

過去のわたしがさらにその過去のわたしを「思い出す」のではなく「見る」という事態は、センター試験を受けた日を書くことによって体験しなおす中で、そのときのわたしを書き換えてしまうことにもなっている。当然のことだが、過去のわたしを「見る」ということは、現実としては考えられないだろう。

しかし、過去のなかのわたしの記憶を再現しているなかではどうか。見間違いなどで強い断定をもって過去を書き換えることはありうる。(さっき見たのはなんだったんだろう、もしかしたら幽霊だったのかもしれない……など)。

この箇所での中学生のわたしは、「~た」を多用することによって、小説における過去形の特徴を過剰に増幅し、その結果、現在ではありえない(もし出現してしまうとしたら、それは回想の形をとってしまう、つまり現在としてのわたしに取りこまれてしまう)わたしを、喪失した過去のままで再現するという、小説を通してでしか不可能な回想方法に行きついたものとして考えられるのである。