レイアウト、平倉圭ダンス=思考講座 第二回、とか(日記)

河野聡子さんの詩集をデザインした時から、デザインとテクストがどう絡みうるのかというのを悩んでいたというか、特徴的デザインを随時やるならそれはテクストに対して少なくとも自らが感じる運動を最大限表現するものでなければならないのではないかしかしそれはなんなのかと悩んでいたのところがいくらかあったのだけれども、しばらくして、そもそも問題設定がそれはまちがいで、デザインがテクストの運動と一対一対応するというかテクストをデザインが翻訳・代表しうると考えること自体がばかなことで、あくまでテクストとデザインは切断していて、しかし切断していながらも様々な物理的要請を介して異なる二つの制作者同士として関係している、という状態である、目指すべきはその拮抗状態の沸騰である、と思うようになった、
その意味で?、視覚詩の営みはダイレクトでデザインにつながるわけではなく、より抽象的というか大枠レベルでの「レイアウトの思想」としてデザインと関係する、または活字の処理という極めて細部の具体性の問題として関係する、と思う。そこを間違うと、視覚詩における活字の配置とテクストデザインにおける配置をダイレクトで結びつけすぎることになると思う(しかしそれを考えていったら、タイポグラフィになっていく、それはテクスト制作者をデザイナーがただただ侵食代弁していくだけだ、というか。目指すべきは代弁ではなく共同制作の環境づくりであり……という)
エディトリアルデザインタイポグラフィは実作レベルではだいぶ違うんじゃない?、というか、だからこそ、行き交うところを考えていくとより大きな思想レベルの問題にいっておもしろい、のだけれど

 

2018.2.22
平倉圭ダンス=思考講座
第二回「異鳴の技法」
SCOOL


各々の身体に依拠した魂らを身体の周囲の環境にまで広がるものとして考える、ことで魂同士が異種のままに環境において関係する(それは単一平面に収束する翻訳関係の発生とは異なる)を
意味の過剰(異種同士では物質的接触だけに収束できない、そこに意味が見出されてしまう 逆に言えば私とは異なる魂、意味、が、本来そこにないはずのものでも開いてしまう、そのように私は私を向こう側に投げ出さずにいられない)、身体の大小(ありんこと人間では、物質的接触がそもそもうまくできない、相手があっさり死んでしまう遊びは遊びでない)、物理的環境の共有不可能性(過去の私と遊ぶ、死者と遊ぶ、遠く離れたものと遊ぶ、生息環境が違いすぎて同居できないもの同士で遊ぶ、ことがうまくできない)
を乗り越えるものとして、「環境」という概念そのものを再定義することにつながる、ように、考えていく、先で……
魂を外に見出してしまうことと、私というものの同一性の分散化(かつての私と、先々の私の、あいだの距離がまとわりつくところとしての、この身体)とを、ともに素材としつつ、所与の時空間の近接性も身体の物理的スケールの近接性も欠けたいくつかのものら(私と私、私と死者、虚構と現実、ありんこと人間)を隔てたまま隣り合わせそれ以前にはなかったノイズを生じさせる「新たな環境(新たな近接関係=距離をもたらすもの)」を作る、ということを問う。
というのが、私にとって、「私のレイアウト」であり、「新たな距離」であった。それはかつてテクストとかエクリチュールとかいう言葉で考えられてきたこと、を引き継ぎつつそこに具体的な身体、隔たり、私が私であらざるを得ないことの呪い、を食い込ませつつ共同性へ開いていくことでもあった(一側面で)(急にエクリチュールとか言い始めてるようなのは、いまやってる仕事に関係するのだけれども まあもうたびたびいっているように 紙面の奥でも表面でもなく手前で共に、しかし紙面を用いて思考するには、という考え方がいつからかずっとある 別時空間から画面を通じで手前まで出てきてくれる貞子)
ちょうどいぬのせなか座を立ち上げ、しばらくして1号、2号、を刊行する前後には、平倉さんのblanClassでのセッションを受けていたのも関係し、私において、言語表現を行うこと、私について考えること、自他の死について考えること、を、異種の問題として考える傾向が強められたという側面が確実にあった(これが想像以上に大きかったことをただただ確認する)。
というか、言語表現を行うこと、にどこまで(「文学」などでは決してない)生々しさをもたらせるか、というかもたらすというより生々しいレベルで酷使できるか、が問題であった。そして同時に私は常に、この世界において起こり得た事態を記述するというよりは、制作が次の瞬間どこに向かうべきか、どんな技術を身に積もらせるべきか、にどちらかというと重きをおいて考えずにはいられず、所与と言うよりは事後的に(ダンスが生じるための)環境を作る可能性、あるいはそもそもそのような環境の制作に、(この私が技術を蓄積してしまったところの)言語表現が、デザインが、寄与しうるのかという問題を考えずにはいられず、大江論、2号の座談会テキスト、あるいはその後のパフォーマンスを作っていた。
結局それは、言語表現を、(身体の特異な反応をもたらすような)環境の埋め込みと掛け合わせのための技術として用いるという考え方と、私という現象(あるいは書き直しの要因となるもの)の紙面上での配置関係、が織り込まれたようなところに行き、即興や共同制作の問題へかなりダイレクトにつながっていっていたのだけれども、そこらへんで昨年後半あたりから考えることの時間が取れず結構止まってしまっている。
言語表現がいかに生々しいものとなるか、というとき、例えば2号で扱った、正岡子規をめぐる大江のテキストなどは、言語表現を基点とするものとしては歓喜しそうなものだが――限られた身体、限られた環境、しかしそこでの制作が私の総体、他との関係の総体を記述しうる――その危うさを強烈に感じるところもどこかあり(そんな楽天的でいいのか、可能性を信じていいのか、と……)また同時にそれ以外のやりようもまた自分の中にどこか確実に生まれつつある気がしつつ……なのだった。やはりそこらへんを、ぐっとすすめるテクストを書きたい、荒川ギンズ論がそれになるのかはわからん、土台として必要だが求めているものはもっと雑多になる気がする(あるいは荒川ギンズ論をひたすら雑多なものとして書く、という気も当然捨てられず 書き方の問題)。


総じて聴きやすく、わかりやすく、しかし平倉さんの話をたびたび聞いてきたからかと思ったけれどもhさんも今回はとてもわかりやすかったそうで(前回は難しかった、と)、なおのこと先が知りたいと思い、自らも悩み悩む。

あと、ここ最近捕食関係という言葉をよく耳にするがそれについて、その恐怖は(一部を除き)あくまで一形式にすぎないと私は考えがちで、というのも恐怖といえばやはりジャパニーズホラーという感じなのだが(私は)、あのあたりのホラーのよさは、相手が私を食うことで終わるとは決して思えない、つまり死を受け入れたらそれで終わるものではない苦痛が相手によって与えられうるという事態への恐れであるからで、とはいえ平倉さんの話では最後にくねくねが出てきた、そう、そのような異様な、私とは違うものと、環境を共有した結果、死よりも恐ろしいかもしれないなにかが、予感として開かれるということこそが、異種の極致だろうと感じる。そしてそれを予感として感じることとはどういうことか、が、レイアウトを何らかの形で確定させるものではないか、とも。


あと、やっぱり先日の座談会の続きというか、パフォーマンスとしての座談会をよりいろいろなかたちでやってみたいな、と思った 先日は演劇的要素が強かったけれども、よりレクチャーよりで、やってみたい。が、単一の魅力ある人間による語り、思考の開示、ではない、複数人の集まりの、ゆるやかかつノイズまみれの対話を、だれが見たいだろう?という気も、たいへん、する。それはそこに身を投じてみようと思わせられるかどうかであり、共同制作という苦痛を払ってでも、という姿勢の設計であり、それこそ予感の作成であり、また理解の形式であり……

(しかし場はいくらか恵まれているしプランもいくらかあるが、時間がただただないのだった、