福留麻里×村社祐太朗「隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで」

福留麻里×村社祐太朗「隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで」

伊藤亜紗さんとのアフタートーク含め、全体的にやはりとてもおもしろかった(読まれるテキストと微細な体の動き、照明のあり方、切断され並べられる時間、記述される細やかな物たち、は、全体として、どこか金井美恵子を思い出すような「雰囲気」を作っていて……)また言語表現に軸足を置きつつ身体表現も考えざるを得ない自分というところからも、とても共感するところが多いのだけれど、外枠の部分で、以前見た新聞家「白む」と同様に、若干の違和感があった。

この作品(制作)で目指されているところのものは、テキストといくつかの身体が関係していく中で生じる、テキスト把握の質の強化や、そこに食い込む身体と思考の間のノイズ、フィクショナルな環境や私の掛け合わせの生成、テキストからもいくつかの身体からも匂い立つところの共同性の検分・拡張がたとえばあると思うのだけど、それを徹底する上で、意見交換の場を設けるとかだけでなく、(日本語)テキストの配布、理論構築とその提示、が鑑賞の手前においてかなり必要なんじゃないかと思う。それは、よりわかりやすくしろとかって話というよりは、テキスト・理論配布がなされ共有されたあとに何人もが見る「テキストを読む身体とそれが立つところの舞台」こそが、この作品≒実験の核を明確にあらわし、作品の制作もまた十全に加速させられると思うから。

テキスト制作者とそのテキストを発話しつつ舞台に立つ者が、対話しながら一つのテキストに精緻に向き合いつつ、身体がテキストにおける文章配置=レイアウトを必然化しているところの論理(ありふれた言葉が、そこにおいては多重的なノイズを発してしまうような論理)を、経験の質として確保し、それが身体に(やはり行為のレイアウトとして)生じさせる微細な運動(それはなかなか客観的には計算できず、通常の人間には「私」や「内面」や「魂」として縮減理解され、その身体以外では再現もなかなか難しい)をそのようなテキストにおけるレイアウトの論理の翻訳されたものとして組み立てていく、というところが、ひとつ大きな「見所」としてあるだろうし、そこに対話や「(観客への)聞かせ」を通じた共同制作的側面が生じているところも重要だろう(演劇という表現方法に馴染み深い利点でもあるし、意見交換の場を設けることを重視するところもその延長といえる)。
舞台に立つものがテキスト制作者に言葉による意味の理解(その確定)を強いられるのは、この作品≒実験(と私は呼ぶ)が核とするところのものか、個々の言葉(書き記された文字)が持つ多様性を作るというよりは(それはもう事前に社会において一定程度作られている)、意味の多様性が生じる場自体の多様性を目指すからだろう。つまりそれは環境と、身体、その狭間で観測される(それ自体観測位置としての)私を、制作するということでもある。ゆえに、私の発見という意味でも、私らが共存する環境(ら)の(多重的)構築という意味でも、共同性は欠かせない。
ただそうであるなら、テキストを書く人間が(主に)ひとりであること、それを「わかる」状態をもたらすのが(なかば教師的な立ち位置が)「単一の」テキスト制作者(村社さん)とされる構造をとることは大きな不安材料としてあるだろうし――それはもちろん「実際はそうではない、より複数的である」と言いうるところではあるし、単一制作者が常に障害となるわけではないのて微妙ではある(特にテキストは複数人の制作者をおくことが途端に死人が出そうになるほど厳しい制作環境をもたらすことはやってみればわかる)――それより重要なのは、舞台に立つ者とテキスト制作者の外に、そこで生じる身体のノイズやそれに伴う言語表現の背景としての私や環境の多重性をめぐる実践が、理論とケースともに開かれ、その開かれた思考の参照項として上演が成立するようにすべきではないか、ということだろう。つまり、テキストをもとに試行錯誤している稽古場での実践、そこにおける質こそが、作品として提示されるべきではないか、と……意見交換の場を設けるよりも、テキストを配布し、背景にある理論をしっかり論考としてまとめ提示することが、この演劇形式においては、より前進を加速する手だと思う――でないと、舞台に上がる身体はとても充実した発見を得られる過程として制作が把握されるだろうけれども、観客を巻き込むという観点からいえば、どこまでいっても現状は、なんとなくわかった気になる人を増やすか、つまらんと罵倒する人を増やすか、漠然と話を聞いてなにも感じずおわるだけの者を増やすか、にしかならないのではないか――この上演がそれだけでないのは当然だが、共同体の成立としても実践のあり方としても、テキスト配布+理論形成提示を伴った方が、ずっと徹底されたものとしてありうるのではないか……というかぼくだったらさらにそこでテキストへの書き込みや、身体における上演を通してなされたテキストの書き直しの過程を、きちんと残し、それすらも提示する気がする。それが、目の前に立つ身体を見る目の解像度を上げることに繋がるだろうし、作品制作を通してなされた成果(ある種、身体とテキストに生じた変異や技術)を、実際に制作に立ち会った数人だけでなく、もっと広いところへ開けたかたちで「使う」ことにつながるんじゃないか、と……)。

あと、やっぱり、変な話だけれど、アフタートークで言われていたことの多くが言語表現の話そのものすぎて……たとえば一秒前の私と一秒後の私を同じ私とおかない、という考え方は、言語表現をやっている人間なら、一文ごとに生じる語り手と書き手の激しい運動ならびにそれらのレイアウトを通して、必然的に思考させられるところのものとして馴染み深いだろうし、同時に、ダンスはもちろん、多くの表現方法に生なまま適応可能なところでもあり、それは言語表現が他ジャンルに開けていく上で大きなポイントとなるところだろう(と、少なくともいぬのせなか座ではずっと言っている。「私が私であること」、その素材化、「私のレイアウト」)。
それを、いったん演劇における台本ではなく、あくまで言語表現における質としてどこかで受け止めるべきじゃないか。具体的には、「ここを「が」にすると大きく意味合いが変わる」とか同じ文章でも違った意味あいになる、というのは、テキストを精緻に読み解き書き記すなかで当然身に起こる、詩・小説に限らず言語表現の基礎であるし、日本語の小説は翻訳とちがって厳密ではないから読まないというのは「日本語の小説」だけでなく言語表現という営み全体をあまりに低く見積もりすぎているというか、まずまず不快だった(発言はぼくの解釈もあるだろうので違うかもしれません。違ってたらごめんなさい……)。
インスタグラムとか見ながらテキスト書いてるというのはすごく面白い、と同時にやはりこれも、書く私に還元されないテキスト操作という意味ではそれ自体は新規性はもちろんなく……山田亮太とかのテキストをベースにやったりとかするほうが、自ら書くよりもより徹底されるだろうし……ただ、村社さんのテキストはそれ自体で特異な傾向を持つので、簡単に代替可能と言っているわけではない。そこでなされているところの、言語表現を通した空間の立ち上がり方(と、それを実現するところのテキストの(語り手の/書き手の思考の)レイアウト)と、具体的な身体のあいだの関係性を問うことは、書き手の私に還元されるかどうかという問題とはちょっと違うところで、極めて重要と思う。
なので、総じて個人的には、(これは新聞家さんの「白む」でも思ってTweetしたところだった気が少しするけれど)やっていることはとてもわかるし共感するしおもしろいのだけれど、作品(提示)の形式に関しても、言語表現というものへの接し方に関しても、もっと徹底できるのではないかという気持ちがあった――って、もうほとんど新聞家の表現方法をめぐる話になってる気がするし、今晩上演されたという新聞家の作品『建舞』を見れていないし(※そこではレクチャーもあったらしいから意識的に問題は解決されているのかもしれない……)、そもそもそんな、ぼくなんかが言語表現を代表するかのように言えることではまったくないわけですが……つまりは取り急ぎ「隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで」に関しては個人的にすごく共感すると同時に外枠とアフタートークに関して違和感もあったということです、した

 

※新聞家「白む」を見たときのTweetを以下に引用しておきます。(2016年7月23日)

新聞家ようやく見れた、『白む』、終わってから台本買いよるおわさんと喫茶店で散々話してる、今も話してる 死後の私を私が語りうるか、というかそのような語りを抱える身体として目の前の身体を見、知覚することができるか、ということに散文が活用される、という感じと受け取った、が、どうか、

テキストにおいて複数の私がリテラルな距離を保って記述される、つまりテキストとは複数の私同士の空間的距離の網目の提示である、としたとき、それをひとつの役者が強引に抱えると、その役者の役柄そのものにテキスト的距離が移植され、役者を見る私はひとつの身体に複数の魂の距離を見ることになる

この私が特権的に立ち過去を思い出すのではないかたちでの私の生成であり、それに向けて、テキストには記されていない「朗読の仕方、身振り」が役者において為される というかおそらく稽古でそのような身振りや朗読法が発明される ひとつの身体がテキスト的距離を抱えるとはどういうことか、が……

試行錯誤されるというか それは、目の前の身体が今悩んでいるように見える、思い出そうとしている、過去の私や未来の私との間の関係性を抱える思考を作り出そうとしている身体が提示されている、と観客が感じることで、この場に立ち上がる(?) それが、今回の場合、3つある(3人の役者がいる)

そこで、3つの身体同士の関係性が生じる余地が生まれる、それは、語られている内容における場の共有を担保として(登場人物や時間の共有を担保として)、ある人の語りの中に別の人が出てくる、ということなどで示される また、さらに、あなた、という言葉が関係性を多層化する

これはおもしろいし、美しさ?を感じるところある、語りの構造自体が感動的だ、
ただ、同時に、それは小説の持つ可能性からどこまで飛躍しているか、という気持ちにもなるところはある、よりよい小説における思考を体感させる方法としてよいという話におさまると惜しい気がする

実際の役者(の身体)を用いること、空間を用いること、でなされる一番の効用は、小説における「語り手の死に得なさ」の乗り越えだろう、テキスト(そのなかで起こる私の内的距離)を抱える身体が明確にそこにあり、場所をしめることで、私の外的距離がさらにリテラルに活用可能であるのは大きい

ここからさらに、その外的距離を活用するという道がある気がする、意図してそこのあたり貧しくさせられてた気がするが、結果、細かな身振りやテキストの複雑さが、ぼんやりとした雰囲気としてしか把握不可能なままに留まらされてる感じは少しある、その結果、美しい、と思えてしまいそうになる感じ

小説における激しい思考法をより激しくする方法として身体や空間をぼくは考えてしまうがそのためには知覚における単位や拠り所を、語りや振る舞いや朗読法だけではなく、空間全体なりなんなりに知覚の宿を設けていかなければ、通常の人間には(小説そのもの以上に)知覚不可能になる感がある、

その知覚不可能さこそがある意味では、一人の人間に複数の私を知覚すること、一人の私が複数の私を抱えること、の難しさでもある、のが難しいところだけれど、そこらへんを分解解体し技術化し共有して思考するモデルを自分は作りたいのだなという省みる感じになってきたな

 

※福留麻里「抽象的に目を閉じる」に関するTweetも以下にまとめます。「抽象的に目を閉じる」ではテキストもたくさん使われていたのでした。(2017年09月25日)

福留麻里「抽象的に目を閉じる」、魂と法則、私の範囲と行為の従属先の問題を感じた。物理的な動きを見せる(円を描く手など)とも、または身体から読み取れる感情や役柄を見せるか、とも違う、〈私において生じる(異様な物質的外部性をもった)知覚を見せること、がある、しかしそれは表現可能なのか

じっと目を閉じている人、が考えていることは、それを見ている人からすればわからない、が、しかし目を閉じているこの私においては思考は確かに存在しているし、その思考自体もまた運動している。同様に、手をぐっと動かす、その動きの細部に神経を行き渡らせる、自分にとってそれは極度の体験だ、だが

 その動きを見ている人にとってその体験は伝達可能だろうか。もう少し先へ。地図を空中に描きながら言葉で説明するその際の身振りは腕をぐっぐっと動かす点で、何も言わず踊っていたときと動きとしてとても近い、が、それは場所を説明するときの身振りだ。私らはなんの動きを見ているのか。

円を描くように動く照明……に向かっていく、照明が近づくと避ける、を繰り返しているのを見るだけでは単に近づいてきたものを避けているだけに見える、が、実際にやると視界を極度に覆い空間を満たす光の強さと近さが、自分の向かう動きを上回り、空間全体が近づいてくるように感じられる。私的感覚

しかしその私的感覚は伝達可能か 物理的に腕を動かすのを他の私が見るように、この私の感覚を共有すること。その感覚を感じる私=観測者とはどこにあり、どの範囲まで広がっているのか。目をつぶっている私の内部に広がる思考と、動きを満たす(動きが従属している)法則が、近づいてくる。

私が腕をぐわんと動かす、それはぐわんと動かすときの感覚に従属し、それを確かめようとしているからだ、ということ。それが、他に共有されること。具体的形態をもたない感覚が、共有される。それはコンテキストというよりは、理解の形式としての身体、言葉、現実、なにより〈私〉だ。

私の行為はどこまで私か。私がスイッチを押すとビルが爆発する。私はスイッチを押しただけであとは導火線やらなんやらが爆破を招いた。だが私が爆破したと言える。そのようなレベルで行為は私に所有されたり、あるいは出来事や現象や事物によって多重的に所有される。理解の形式を介すると。

水が蛇口から出てシンクまで行きつく間の距離・空間に満ちた感情=意思=法則=根拠を探ることが、私がなぜこの行為を行ったかということ、私がなにも身体を動かしていないのに何かを感じ思考していること、私がそれを感じられるが別の場所の私はそれを感じられないこと、へと連なる。

語り、PC、音響、光、本、はそのような感情=意思=法則=根拠の距離・空間を、シンプルに、実験のように、様々な形で展開する。首くくり栲象さんの話をする、そのなかで語られる人物が目の前の身体における私であること、その身体がぴょんぴょん飛ぶことは首くくり栲象さんの話に由来していること、

そのように感じられるという、行為に対する理解の形式について思考する手立てが与えられること。おそらくは(?)目の前の身体の私が過去に語ったらしい声、その背後から聞こえるキーボードをタイプする音、実際に今ここで打つキーボードの音、は、言葉の所有者を過去の特定の瞬間の私に位置づける。

 空間の中に、過去の私、今の私、が折り重なった状態で、いまこの身体が腕を動かしている、その腕の動かしはどこに従属し、なんの法則=感情=意思=根拠で動いているのか。それはどこに位置していて、それを感じている観測者である私はどこにあるのか。同様にそれはもちろん、

腕の先、足の先、身体の輪郭、等などを基点とする動きの生成においてもそう、腕の長さが軸になって動くこと、においてその動きはどこに法則=感情=意思=根拠を持ち、それはどのようなかたちでここに広がっているのか。行為における私、が網の目を何重にも作る。そしてそのなかで、

その理解の形式のなかで、じっと目をとじる身体がある、そしてそれを見ている私がいる。私は目を閉じ思考していない。が、ここまでの動きと音と語りと光らが各々で法則となり、行為の由来となり、〈私〉を分有された状態で、そこに目を閉じた身体があるとき、その思考が時空に広がって感じられる。

そしてそれは、そのような「私」という、理解の形式を作ることでもある(かもしれない)。そしてまた翻って(余計に?)言えば、目をとじる身体を見る形式を作ると同時に、何かを見ている身体を見る形式を作ることでもあると言えば、一周回って冒頭の、音に満ちた空間を見るばかりの身体にかえっていく

踊りと言語表現は、いずれも異様に〈私〉が、表現の素材や形式としても、立ちはだかってくる気がする モノに委ねきれない ある意味興味深いのかもしれないのは、これが即興ではなく少なくともある程度の構成(記譜?)を持っていること その構成もまた、ひとつの法則=感情=意思=根拠を持つだろう

作品そのものを見るのかコンテキスト優先か、というのはほぼ区別なく、特に私というものは表現・理解の一形式であり、特定の表現形式においては特に、石ころの硬さや絵の具の質や画面の枠のように、強い抵抗と主体性とをもって制作者・知覚者ともへ迫る

オブジェが複数の知覚の束として機能すること、言葉が精神を織り込んだオブジェとしてあること、しかしそのような言葉で作られた詩が決して強い作者性を持っているわけでもないこと、〈私〉がひとつの素材として編集・配置され、世界/事物/私/経験の持続・結合・分断が検分されること (瀧口修造

正確には(より恣意的には)、デュシャン瀧口修造荒川修作