2017_09_15

世間?があんまりにもわかってないし友人の優れた書き手が評価されず他の表現形式とも繋がらず消えていく感があったし新人賞とか既得権益との運任せ勝負みたいでわけわからんくて批評書き始めた感もいろんな理由のうちの微かな1つとしてあった気もするけどまあもうその役目は6割終わったという気持ち。

いったん批評を書くことで、小説では突破できなかった圧の域を超えでることを目指したところはあったけど それはもう文体レベルで解消されたと感じる 小説の文体、と一般に言われているものは、語りにおける虚構の力が強すぎるところがある 当然場合によるし、一度突破すると小説は圧倒的に強いが。

なんでも書けるはずがないのに小説は中途半端になんでも書けるようになりすぎで、それは書き直しを強いてくる文章相互間の圧に関係してくる し、さらにいえば〈私が私であること〉と〈思考における論理〉や〈論理そのものへの信じ〉とのあいだの関係にも関わる、という感は少なからずある。

テキストを共同制作するときや強力に圧のかかった身近な文章へと草稿を書き直しているときの、わけのわからん地獄のような書き直し過程は、16.17.18のころは、自らの感覚と言葉の音(リズム)によって行われていた。けど、19.20.21になって語りと世界の地と文法(身体)の組み換え可能性を強く意識するようになった時に、書き直しの地獄さを強いる何かがいったん自分の中で相対的に薄れてしまった感がある それは、感覚や音・リズムに由来した書き直しが、人にほとんど伝わらないような(物語性のない?)テキストを自らが作ることへの意識に由来してもいた。

あるいみ「人に伝わるものを書こう」という意識は強迫観念めいて19.20.21の自分にあった それはベタに読み手の確保などにも関係していたが、人間が読み書くことそのものへの介入がいかに可能か、小説という一定量のテキストを持続的に読み書くとはどういうことか、現実とは何か、という問いこそが根幹であった ゆえに異様なテキストであるにもかかわらず比喩ではなく一種の現実の記述として読めるSFのテキストに惹かれたことがあった。

そしてぐるっとまわって、批評を一度書くことが、音や言葉のリズムに代わる書き直しの地獄さのトリガーを獲得することとして立ち上がり、さらにそれは共同でテキストを書くことや人間にとっての論理の問題や、さらにはくるりとまわってあらためて音やリズムの問題を引き連れてきた。

そうして今あらためて詩や小説を書くとはどういうことかを考えたい。が、ゆっくりだろう。

(※ポップさや読みやすさ、を、簡単に語り、それに対抗するものとして難解さや(ひどい意味での)詩的さ、を置くことは、軸のレベルで弱いし、読み書く私の問題がそこに絡まずテキストのレベルだけでどうこうなると考えることも、また弱い。し、自分がそれであることに気づかない人もいる感がある 知らん)