2017_6_23-25

一昨日、ステム・メタフィジック研究会 ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』を一冊ぜんぶ、やる時間 大変ありがたいというしかない時間で終始頭が沸いていた ひとりでは不可能な方々のつながり方、さらに自分の手元の問題意識や微かな技術と密着する手立てが見つかる慄きがあった 打ち上げでの上妻さんの、使えるか使えないか、という考え方に共感した などなど……

朝、家に帰って、昨日夜、いぬのせなか座の次号のための座談会の1つ(政治、場所、ホラー、詩)について話し合い 幽霊のオブジェクト性や貞久秀紀についてなど(も) その流れで『ほんとにあった! 呪いのビデオ』51を見る。かなりよいもの多かった。
以下、粗いままメモとして並べておく。(こういうときTwitterでは長くなりすぎるから、自分はこうしてほとんど更新しないがいつまでもブログを持ち続けているのかと思う)

 

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 『ほんとにあった! 呪いのビデオ』51

「空中楼閣」は、山奥のありえない高さに、明るい窓があらわれる。貸別荘のノートに子どもの筆跡で書かれた地図→窓のなかで手を振る子どもと親の影→そこで殺され遺棄されたという子ども、という連鎖には個人の目的がほとんどない。ありえない場所同士の隣接関係。それをゆるく繋ぎ記述する霊と観察者。

「溶怪」は、アップにされた顔の不気味さとそれがただ溶けていく時間がよい、そのよさは撮影者の不在(携帯電話に勝手に入っていた)に大きく依る。「中古ビデオ」や「井戸」など、映像そのものが呪いを具現化するという正当な「呪いのビデオ」的あり方。徹底すると『POV〜呪われたフィルム』になる。

徹底すると、というか、モンタージュや撮影主体が人間の身体に依存しなくなる過程を、『POV〜呪われたフィルム』は、疑似ドキュメンタリーの、撮影者が物語内に人物として位置づけられる状態から、丁寧にカメラと場所関係を増やしていき、結果としてカメラだけが自律する過程を描いている。

カメラだけが自律してあるというと、監視カメラ系は根本的にそういうものだ、が、ちょっと違うのは、カメラが幽霊を外から眺めているか、それともカメラそのものを幽霊が所有するか、だ。ただそこに写ってしまう、というのは、「呪いのビデオ」ではない。カメラは幽霊から切り離されている。
例えば「ベッドの下 開かずの部屋」では、ベッドの下にカメラを置いておくと写ったもの、とされるが、幽霊が最後、カメラに迫ってきてカメラが倒れる。ここではカメラは幽霊と切り離されているがゆえに攻撃される。ふたつは所有関係にない。

一方、「シリーズ監視カメラ 古本屋」は、ブックオフ的な場所に急に後ろ歩きで和服の女の人があらわれる、それをふたつの監視カメラが別角度から捉えるが、どちらにおいても後ろ姿が見えてしまう。これは噂には聞いてたけどかなりよい。こうすることで監視カメラも「呪いのビデオ」化する感覚があった。

ふつう幽霊は、それを見るものの内部が外部環境に投影されるかたちであらわれる。幽霊はそれを見ている人に取り憑くことで、見られ、現れる。「一緒に見ていた」(『鬼談百景』)でも、教師がグラウンドを見るその場所に幽霊が立つ。あちらを見ればあちらにいるし、こちらを見ればこちらにいる。飛蚊症みたいなもので、幽霊の位置は見るものによって変わる。
ここから「一緒に見ていた」では、「私が教室の窓からグラウンドを見おろす→霊がいる→見るたび場所が変わる→後ろを振り向く→霊がいる→いなくなる→グラウンドにまたいる→遊んでる学生が霊にぶつかってなんだこいつって感じになる→私の背中に霊が張り付く→肩に手をかけられしばらく霊とふたりでグラウンドを見る」という流れをたどることで、霊が環境への私の内部の投影というものから、複数のエージェントに接触可能なオブジェクト性を帯びて存在するものとなり、その上で、私は霊と視線を共有し、環境を見つめることになる。私が所有していた霊は、私を所有する。そのために、私とは違うパースペクティヴが、霊と学生との物理的接触というかたちで導入される必要があった。
もうすこし細かく。最初、私のパースペクティヴに依存していた霊は、見るたびに異なる場所に存在するものだった、けど、それは自律できていなくて、あちらに立つ霊とこちらに立つ霊、は、それを見る私の持続のあり方をなぞるばかりだった。霊が偏在しているとしたら、それは、私の持続が偏在しているからである。
しかしここで、学生が霊にぶつかる。霊が、私とは異なるパースペクティヴから知覚され、複数のパースペクティヴを束ねるオブジェクトと化す。それまで霊を束ねていた「私」という同一性から、霊が別の同一性を確保し、自律した。結果、次のシーンで、私の身体が霊の身体にぶつかることになる。私は肩に手をかけられ、霊とふたりで、先ほどから霊があらわれていた(私が見つめ、霊をそこへ投影していた)空間=グラウンドを見つめる。
私と霊は、対等に視線を奪い合う関係となり、さらには私の同一性(複数のパースペクティヴを束ねる私のありよう)が、私の背後にいる霊に包摂されるまでに至る。グラウンドを見下ろす私のパースペクティヴが、幽霊に奪われる。私が見る場所に幽霊がいる(どこを見るかは私の自由であり、さらに方方にあらわれる幽霊の偏在のじくざくを統合するのも私である)という状態から、見るということ自体が幽霊に所有され、私がその媒体となるような状態への、移行。
このとき、グラウンドには、幽霊が存在する必要はもうない。ただ見るだけでいい。風景、世界、地が、それ自体、幽霊化する。幽霊によって、複数の私のパースペクティヴが編集される。新たなモンタージュ。これが、「呪いのビデオ」化、私と世界の再編成である。

こうしてようやく「シリーズ監視カメラ 古本屋」にもどると、そこでは複数のカメラが、同じ幽霊の背中を捉えていた。通常の時空間だとそれはありえない。異なるパースペクティヴから見れば、見えはそれぞれの位置からのものになるだろうから。逆に言えば、このとき、どこから見ても同じ背中を見せる幽霊は、ふたつの異なるパースペクティヴを、束ねるための論理として働いている。
そして重要なのは、幽霊のいる古本屋の空間が、カメラの位置に応じて見えを変えているという当たり前のことが、上記の事態の背景に貼り付いているということだ。もし古本屋の空間が、幽霊の見え(背中)に引きづられていたなら、映像は、ただ単に、同じひとつのパースペクティヴからの眺めとしか知覚できなくなる。幽霊は、古本屋の空間から自律している。むしろ、2台のカメラの側が、古本屋の空間に依存し、お互いを分離している。パースペクティヴは環境に埋め込まれることで互いを分離し、霊はそれらを、同時性のもとで統合することで、環境から自律する。
そしてそれは、霊が、2台のカメラの映像を交互に見る視聴者の鏡像でもあることを示している。ここにいながら、こことは別の環境からの刺激に反応し、思考・行動しうること。異なる時空間・環境を配列・レイアウトする、新たな同時性・隣接性の論理としての魂。

背中を見せ続ける霊を経て、霊がいなくなった古本屋の映像がふたたびしばらく映るとき、映像のなかに霊が写っていなくても、2台のカメラの映像を交互に見るこの私の内部に、霊の論理は埋め込まれている。環境から自律しつつ、しかし環境の配列・レイアウトに依存して自らの「束ね」性を表出してもいる。霊自身が所有する時空間の自己表出=「呪いのビデオ」は、人間とは別の魂を「私」に宿らせ、新たな時空間・環境の配列・レイアウトの論理を制作する過程(修行?)としてある。

(追記、よく考えるとこの古本屋の霊は、クザーヌス『神を観ることについて』で語られている、どこから見てもこちらを見ているようにみえる神の像、と同じ構造かもしれない。つまりその先にあるのは、神は私という個別なものだけを見つめながら、同時に世界すべてを見ており、私は神の類似であり、しかし神から自律して自由を持っている、というような、ひたすらに矛盾が矛盾なまま同居した状態だ。私は私という個別のパースペクティブにいながら、同時に神という、全体のパースペクティブともつながっている、その関係。となると重要なのはやはり、「汝は汝のものとなるべし、そうすれば私さえも汝のものとなる」という神の言葉か。

以下、大江論(いぬのせなか座1号)の註より。

クザーヌスは、神が《あらゆる願望において願望されるあの真理》となる根拠として、人間に対する神の把握不可能性をあげる。《もしも眼差しが視覚によって満たされることなく、耳が聴覚によって満たされることがないのであれば、知性は知性認識によってはもっと少なくしか満たされないのだからです。それゆえに、知性を満足させて、それの〈目的〉となるものは、知性が知性認識するものではありません。しかし、また、知性が全く知性認識することのないものも知性を満足させることはできません。ただ、知性が知性認識としてではなく〔何らかの精神的な引き上げにおいて〕洞察するものだけが、知性を満足させることができるのです。つまり、知性が認識する知性的なものが知性を満足させることはなく、知性が全く認識することのない知性的なものもそれを満足させることはなく、むしろ、十分に知性認識されることはとうてい不可能であるほどに知性的であると知性自身が知るもの、これのみが知性を満足させることができるのです。それは、ちょうど、次のことと同様です。すなわち、飽くことなき飢えをもっている者を満足させるものは、彼が一口で呑み込むことができるようなわずかな糧ではなく、また、彼の手が届かないような糧でもなく、彼の手が届くものであって、かつ、たえず呑み込んでも決して呑み込み尽くされることがない糧だけです。このような糧は、呑み込まれても減るということがなく、つまり無限であるのだからです。》行為にともなう時間経過をはらんだ無限の把握不可能性。神はそこで、《無量で無尽蔵な宝庫》となる。それは、先に触れた「汝は汝のものとなるべし」という言葉の直後に、クザーヌスが《あたかも自分自身の贈りものであり、あらゆる希求に価するものが納められている無限の宝庫であるかのようにして》神を享受するのだと語っていたことからも明らかなように、私による神の所有と矛盾しない。《あなたの偉大さについてのこの最も聖なる無知は、私の知性が最も強く求めている糧なのであり、もし私が自分の耕地にこのような宝庫を見出したならば、直ちにこの宝庫を自分のものにしてしまいたいほどのものなのです。

 おお、豊かさの源よ、あなたは、私の所有によって把握されることを望みつつ、同時に把握されえない無限なものとしてとどまることを望んでいます。》そして、この所有が、私による類似の創造を通して浮き彫りとなる自己愛を拠り所としているのである。《われわれは、自己の存在を分有しそれに附随しているものを愛するのであり、われわれの類似を大事にするのです。なぜならば、われわれは或る像において自己が表現されるならば、われわれはそれにおいて自己自身を愛するのだからです。〔…〕私によって創造されたように思われる類似が、実は私を創造する真理であり、その結果、少なくとも、どれほど堅固に私があなたに結び付けられるべきかを私は理解することになるのです。なぜならば、あなたにおいては愛されることが愛することに一致するからです。つまり、もし私の類似としてのあなたにおいて、私が私自身を愛さねばならないのであれば、あなたが私をあなたの創造物であり似像として愛して下さるのを観て、私は愛することに大いに結び付けられるのだからです。》こうして、知性によっていつかは把握されることが示されつつもその行為の無限性において把握され切ることのないなにかに対する知性の営みが、私による私に類似した私の制作となり、それがさらに自己愛において逆流し、私という構造そのものの制作へと、まるで円環を築くようにつながることが明らかになる。

 

また、これは大江論でもとりあげたしいぬのせなか座1号の扉ページに一部改変して引用したりもしたが、荒川+ギンズ『意味のメカニズム』でも次のような点をめぐる話があった。

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ギンズの荒川論には、複数の矛盾した知覚をレイアウトする絵画を軸とした共同制作の議論があるけれど、それは今すぐには出てこないし、話が錯綜しすぎる。)

 

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ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』は、フィリップ・デスコラによる四分類をベースにしているが、そのなかでも特にアニミズムとアナロジズムの関係が気になった。

アニミズムは、《あらゆる存在のうちに同一の魂が見出されるが、それらはめいめい独自の身体を纏っている》という考え方で、アナロジズムは《実在するものはすべて異なっており》、《無秩序で離散的なもののうちに可能な関係を発見することに、精根を傾け》る考え方とされる。分類としては、アニミズムは、自然が一つで魂が複数というナチュラリズムの考え方と、アナロジズムは人間同士の相違や関係を動植物の相違から理解するトーテミズムの考え方と、それぞれ対応するかたちで定義されるけれど、議論が進むなかで4つは混淆するように用いられていく。

トーテミスト的な構成要素は分類のための諸方法に霊感(インスピレーション)を与えるし、アニミスト的な構成要素は、進化や「大いなる物語」へと駆り立てるし、ナチュラリスト的な構成要素は、主体による対象の認識に必要なものを整えるし、アナロジスト的な構成要素は、とてつもない相違を微細な類似性によって絶えず架橋することになる。

この4つの分類が混淆することではじめて記述可能(思考可能?)になる領域が出て来る感じが、読んでいてとてつもないのだけれど、そのなかでも特にアニミズムとアナロジズムに関してメモしておきたい。

まずアニミズムについて、

私たち異類、アニミスト人間は、われわれを観察する民俗学者たちがいうには、生物たち、植物や動物たち、さらには生命がないと言われる事物までもが、私たちと同じ魂を持っており、同じ内面性、同じ習慣や文化、意図や感情を持っているところで生きている。私たちを唯一区別しているもの――それはもろもろの身体(Corps)であり、その分厚い球体が私たちを隔てているので、他者についての私たちの知覚は、それによって影響を受けるのだ。私の身体が私に垣間見させるのが、人間の魂を授かった狼や犬や魚なのだとすると、それら三つの動物は、私をどのように見るのだろうか?――人として見るのか、魚として見るのか? それはアニミストたちの文化による、と学者たちは語る。それらの文化が、それによって身体を具体化し、物質化し、重みを持たせ、詳述する文脈(Intensité)によるのだと。

動物と人間は、異なる身体を持っているが、同一の魂を持ち、お互いを自分のパースペクティヴから見ている。これは言い方を変えれば、身体さえ変われば、人間は狼や犬や魚と区別がつかなくなるということでもある。ゆえにアニミズムは、《変身(メタモルフォーズ)なくしてはあり得ない》ものとされる。《おのおのの身体が結局のところ衣装であるなら、衣服を取り替えるついでに裸体性、魂を垣間見ることもできるし、他のものたちが自分や私たちを、正確にはどう見ているかも垣間見ることができる》。
ここまででもすごくおもしろいのだけれど、セールはさらにここから、プルーストについて語る。人びとは、プルーストによる記述(有名なマドレーヌや紅茶のくだり)について、《それを素朴にも、鐘の音で餌を思いだして犬がよだれを垂らす、パブロフの実験のような粗雑な経験だと思ってしまう。そこで本当に失われているのは何だったのだろうか?》そうしてセールは以下のプルーストによるテクストを引用する。

私は、失われてしまった者たちの魂が、何か下位のもの、動物や、植物や、動かざるもののなかに囚われていると考える、ケルト人の信仰をしごくもっともだと思う。それらは、私たちがその樹のそばを通りかかったり、彼らが囚われているものを手に入れたりする、滅多にはない日がくるまで、実際に失われている。その時、それらは身ぶるいし、私たちに呼びかける。するとたちまち私たちはそれらに気がつき、魔法がとける。私たちによって解放され、それらは死に打ち克ち、戻ってきて私たちとともに暮らすのだ。

これに対してセールは言う、

水薬から雲がただよってくる。これが、古代ケルト人たちが崇拝していた種類の、動かざる物の魂なのである。作家が探し求める失われた時は、おそらく幼少期のものだ。――しかし、彼はそこにもっと隠れた時代のものを見出しており、それが失われ、囚われている場所すら明言しているのである。記憶の内部の暗い最深部に降りてゆき、語り手は奇妙で、奥深くに忘れられた、アニミスト的な諸文化に特有の行動やカテゴリーを再発見するのだ……

プルーストによる上記のテクストは、極めて言語表現的、特に小説的なスタンスだ。小説は常に自らを構成する多量の文章を束ねるものとして、語り手を立ち上げてしまう。「私」というものが、あまりに露骨に居座りつづける。だからこそ、記憶やポリフォニーが問題になるし、私小説的というものをどう扱うか(組み替えるか)が異様に重要になる。……という話は繰り返ししてきた、何を書いても並べても死なずに残り続ける強力な持続・統合機関としてのこの私をどうするか――それが、小説を制作する上でなにより根本的な問題としてある。その上であらためて考えると、プルーストのテクストは、私が私以外のものものに私を貸し与えるあり方としてまっとうすぎるくらいだ、私が私であるという強力な持続・統合の座を、事物に貸し与える営みとしての、小説。
プルーストの上記のテクストを、セールはアニミズムとして語っている。プルーストは身近なものばかりをひたすら書きながら、それが結果的に私と事物のあいだの変換可能性としての《アニミスト的な諸文化に特有の行動やカテゴリー》を探っているという。そのとき、この私がどうすればほかの私(犬、狼、魚、石)に使用可能な私になるか、の具体的操作法を考える上で、(全体がすべてひとつの魂にのまれていくような感覚から逃れつつというのであればなおさら)問題はやはり身体ではないかという気持ちが芽生える。魂を縛る身体をどう考えるか。私は、この身体から容易には逃れられない。セールもベルクソンの名を挙げながら言っていた、《あらゆる地域において、人々は身体(物体)が、連続的でより大きな魂を局限するものであると語っており、そのようなものとして生き、考えているからである。身体(物体)だけが、生命の持続に不連続性を刻むことができる。――ベルクソン自身が、そう語っているのだ。》

 

ここで、ようやく、アナロジズムについて。セールは、アニミズムとアナロジズムのあいだの関係を、メタモルフォーゼと所有−憑依の関係として記している。

メタモルフォーゼがアニミズムを特徴づけるのと同じように、それゆえ所有はアナロジズムを表す。私を構成する諸部分は、実際には私から離れ、広大な世界のうちをあちらこちらさまよっている。世界のもろもろの事物は、それ自体また、動き、旅をする諸部分によって構成されており、その諸部分はあちらこちらで、私も含めた他の人物や事物のうちに身を落ち着けることができるのだ。いわゆる悪魔的な憑依(Possesion,所有)の話をする前に、私たちはこうした構成と解体にもうしばらく注意を向けることにしよう。

私はこれらのばらばらな諸要素から作られており、私の人格はいわばその綜合だが、私に特に結びついた要素は何もない。それら諸要素のおのおのは、出たり入ったりできるし、おもむろに別の人間に入り込んで、そののち自分(モワ)というものを作り上げるのに役立ったりするのだ。メタモルフォーゼによってプロテウスは獅子に、豹に、猪や蛇に、菩提樹にすら変わり、水や風に変化する。所有(Possesion)は、一人の人間を解体し、他の諸要素によってふたたび作り上げる。そうした諸要素は、他者から、他者たちからやってくるのかも知れず、他者や他者たちに属したままなのかも知れないのである。

私は考える、ゆえに私は他者である。それが身体のうちに入り込むまで、この他者の周り、この他者の方に集中し、焦点を合わせること。まさしく狂気(Aliéné)である。なんということだ! 人は自分から外に出たものだけを創造する。もしそれが外に出たのなら、それはそこに入り込んでいたのでなければならない。私の魂が、あらゆる思考するものたちのなかで、幾つもの声で語ることができるのは、こんな風にしてなのだ!

私は考える、ゆえに私は彼らの思考である。私は彼らを愛する。彼らは私の招待客(オート)(Hôte)なのだ。――私にとり憑き、私を貪り、私の肌でふたたび温まる招待客なのである。それを望んでいたのは、私なのだろうか、彼らなのだろうか? そんなことはどうでもよく、彼らは私にとり憑いていたのだ。望まぬ者たちが、望まぬ者を受け入れた(Inviti invitum immiserunt)。

船乗りたちのメタモルフォーゼは、一対一である。――一人の人間が多数によってとり憑かれること。

外部の、事物たちの無限の多様性、その万華鏡とその諸関係の交錯するネットワークは、その叫びたてるカオス、無秩序−秩序を、主体の内面に投影する。この主体は、世界とまったく同じように、幻聴とバックグラウンド・ノイズの耳を聾するような混沌のとりこになっているのだ。
 わたしのうちには、無数の思考が蠢いている。

私のもろもろの断片からは、駆ける群れが外に出てくるのだ。

所有−憑依とメタモルフォーゼ。「私は考える、ゆえに私は他者である」という観点からだと、先のプルーストのテクストも、所有−憑依の問題として言えるような気がしてくる。ただ、問題はより複雑でなければならないのだろう。他者と私のあいだの関係ではなく、爆発的な蠢きのなかで沸々と私ないしはオブジェクト双方での「束ね」、持続、統合、が同時多発的に生じる。その収縮拡散の運動単位そのものを並べることによって見出されるレイアウトこそが、扱われなければならない。だからこそ、難しい。というのも制作は常にこの私を伴ってしまうから。いや、それを抜きにして、制作そのものを自律させることも考えられる。

話は逸れるがいぬのせなか座の鈴木一平とぼくとのあいだで常に議論になるのはそこだ。鈴木は、私をより分散していく方向へいくことを考える(ように、粗い話だが、ぼくは感じている)。作品に対して結果的に私の比重は低くなるように考えられる。このあいだ「抽象の力」展を見に行ったが岡崎乾二郎さんの言ってる職人についての話もそうだ、職人は自らの技術をうまく言語化できないが素材と接するなかで自然と高度な制作が可能になってしまっている、そこでは私というものはさほど重要ではなく、身体と素材のあいだの制作行為こそが重要で、それがほぼ自律している。一方ぼくは、私というものを抜きにして制作を語ることは常に不可能と思ってしまう。この私をどうするか、いかにこの私を使用するか、が、結局はどんなときも最大の問題になってしまう。
ただ、それらに違いはない、というところまで考えを進められる気が最近はずっとしている。小説よりかは、詩や演劇をベースにしてその考えが出てきている気がする。詩を私のレイアウトとして使用する方法をもっとしっかり理論化できないか。荒川+ギンズは、「私が私であること」のような、相容れないものをひとつに束ねてしまう作用をブランクと呼んだが(本当はもっと複雑な話)、それをさらに彼らはブランクスと複数形で度々呼んでいる。この複数を、どのように、この私が制作において実践するかが、大きな問いだ。アニミズムとアナロジズムがどう違うのか、その微妙なわかりづらさ(プルーストのテクストを、アナロジズムと呼んではいけないのか?)は、この私をどこまで引き摺るか、に関わるような気がする。いや、引き摺ってもいいのだが、よりメディウムの側で生じる魂のようなものを、過剰に用いて、この私を組み替えていき、組み替えた私同士をさらに並べる、その並べ方こそが前面化するようなものとして考える必要がある。
小説はその点では、あまりに長すぎる、かもしれない。よりシンプルに、レイアウトの論理をスパッといくつも提示していく必要がある気がしている。これは、それこそ、より複数人で同時にばらばらに使用可能な「「私」のレイアウトの論理」の提示、だ。プロトタイプ? 俳句の切れの問題や、改行詩の問題、藤井貞和の『自由詩学』の議論などを思うと、ぼくはまだ詩についてきちんと理論を提示しきれていないと感じる。

(ここまで考えて、クザーヌス『神を観ることについて』における、この私だけを見つめながらすべてを見つめている神と私のあいだの関係、を思い出した あれを、今考えるとどうなのだろう?)

 

以下の、「共に−揺れ動く(Co-agitation)」あり方は、限りなく魅力的だ。

思考(Cogitatio)とは、実際のところ共に−揺れ動く(Co-agitation)ことでないとしたら、一体何であろうか? 何千もの数の羊の群れの目も眩むような無秩序を、一人の羊飼いが、彼だけで支配したり導いたりできないし、動かす(agere)こともできないというのだろうか? このラテン語は、実際に動物たちを導くことを指しており、それらが他の多くの動物たちと集められるので、動揺(Agitation)が生じ……そのため管理(gerer)するのは難儀なのだ。そう、思考は私の生涯を通じて、絶え間なく私に、そのカオス的で、満ちあふれる、輝かしい、不調和なバックグラウンド・ノイズを……眩暈を与える。よろめき、つまずき、震えて、私はそれによって大地に倒れ、茫然とし、昏睡する。大河と乱流、歓喜よ。

(ここでやはり、大江『水死』における、語り手が別の身体へと移行するきっかけとしての大眩暈=詩の飛来、を思い出してしまう)

 

セールはアナロジズムをめぐって、構成、とたびたび言う。

これらの部族にとっては、物質的もしくは非物質的な、ばらばらで未規定なものの集まりがある。このような混乱のなかで生き残り、行動し、思考するために残されているのは、絶え間なく構成に努め、したがってそれらの差異を架橋するのに適した無数の関係を探し求めるという、骨の折れる義務である。

精神と感覚が、無数のばらばらな感覚を統一する、関係の組み合わせ模様のうちに運び込まれている。少なくとも詩人は、言葉と象徴を通じて、そこで私たちに構成物(Composition)としての、ある秩序を理解させようとしている。

アナロジストは、隔たった夜と光のただなかに諸関係を描きだす。彼は、まさに《混淆した(Confuses)言葉》のうちに《暗鬱な、深い統一》を探索する。『悪の華』のためにこの花束を作った者を、構成者(Compositeur)と呼ぼうではないか。

結局は、この、構成のありかたを模索することになる。重要なのは、中心のないネットワークみたいなものではなく、複数の私がそれぞれ固有な全体像を奪い合い、所有しあい、憑依しあうような、そういう状態を成立させる、共同性の論理を作ること。並置と、統合が、交互に折りたたまれたような作品を、論理として提示すること、か。
以下の箇所は、アナロジズムへの飛躍可能性のように、も、読めるかもしれない。

人が隣人を彼自身のように愛さねばならなくなっていらい、そしておのおのが自分自身の魂を救済しなければならなくなっていらい、みずからを見つめる真率な個人を描いた、聖パウロの自伝や聖アウグスティヌスの『告白』いらい……少しずつ、彼らの還元不可能な独自性が、全世界に満ちあふれるようになった。――それはアナロジスト的な文化のもう一つの名前である。そこではおのおのが決定し、みずからに配慮し、サバイバルし、みずからを救済し、自律的で、個性的で、異なっており、自由で……もろもろの特異性は、超越的な諸関係によって架橋されているのだ。聖人たちのコミュニオン……結局のところ、この宗教について、それが厳密な一神教であるのか、それとも本当の多神教なのか、誰が判断できるだろう? というのもそれは、同時に一であり三である三位一体を教えているのだから。

ここでの、三位一体の登場の仕方、に、なぜか異様な生々しさと自分にとっての迫りを感じてしまう。いぬのせなか座「座談会4」で、共同性について次のように書いた、《この私における技術の蓄積や歴史性や内省による思考の突破などを所有とは別のかたちで考えられないか。複数の身体の交感状態と、私が私であることにおける過剰さの、はざまを考えるときに、たとえば幼い頃の私を今の私と対等に見つめるように、風や波を私と対等に見つめ、それに反応して自らの現在の行為を形成していく。そうしたところで初めて、従属の問題は、なぜこの人に従属するのかというような、自由意志の問題から離れる。と同時にそれは魂や、私が私であることを否定するわけではない。
 外部の環境からは導かれない行為が、ある身体において生じたとき、それをブラックボックス的な心の問題に回収させず、あくまで行為は環境と身体の交わりにおいて生じると考えるのなら、その行為は、身体が目の前に物理的に属している環境とは別の環境に従属したと考えるべきである、といったアイデアを、「いぬのせなか座」2号の序文で飛躍とともに記しましたが、このレベルでの魂、自由を肯定するものとして、微細な主体たちの教育関係はある。私が過去の私の記憶に従って振る舞うように、相手の身振りにあわせて振る舞う。それは外部環境への即物的な反応であると同時に、身体における環境の掛け合わせの能力に従った自由な行為でもある。そこでようやく、誰かの指示に従う、振り付けられることを、奴隷的なものとしてではなく肯定する、ということが生じる。》還元不可能な独自性が満ちた世界において、ばらばらなまま、共同で制作するための、セールの言うところの超越的諸関係(ここで、諸、がついていることが希望だ)、それにこの私はどう寄与するだろう? この私は不要だ、厄介だ、とは言ってはいいが消去まではいきたくないしいくべきでない。
それで言うと、「この私」における「この」について、以下の箇所は根幹であるように思えてしまう。

事物は私たちのなかを循環し、私たちの家に住みついているだけではなく、私の身体を作るために私に潜り込んでいる。私の思考が、困難ではあっても、この時間の幅を理解するだけでなく、私の身体を作るために私に潜り込んでいる。私の思考が、困難ではあっても、この時間の幅を理解するだけでなく、私の身体は宇宙とともに生まれたこれらの構成要素によって形作られ、ゆっくりと偶然的に、われわれの惑星とともに構成され、生物たちの進化にも寄り添い、そこに根を張り、そこに生きているのだ。ここにあるのは細部が同時的(シンクロニック)な三つの記憶の場所である。私の環境は、私の身体を構成している事物たちによって構成される。――それらは、同じ年代に由来しているのだ。私はここにこそ、あたらしい環世界(Umwelt)を発見する。あるいは、もっと言えばここでは、世界−内−存在のハイフンが物質化されているのである。私はそこで存在が何なのか知らないし、私はそこで世界が何なのか知らないが、私の細部は、その諸関係を辿っている。途方もなく古いがしかしあたらしい、あらたな文化の身体はみずからのうちに、古くて途方もない(Formidablement,巨大な)世界を見出すのである。
 ブレーズ・パスカルを訂正しよう。――空間も時間も、肉体を飲み込んでしまうのではない。それらは肉体を探査し、形成するのであり、肉体はそれらを測り、それらを音節で区切る。このような持続を直観することが難しいので、しばしば途方に暮れてしまう私の思考にほとんど勝るくらい、そうしたことをやってのけるのだ。宇宙は私を粉々にする(écraser)のではなく、その細部のあるものたちが私を横断する(traverser)のである。逆に、私の何十年来の春は、これらの同じ客体的な細部に絡みあっており、そうしてそれらを特異化しつつ、主体化している。いわゆる非人間(ノン・ヒューマン)である古い自然の無数の細部を人間化することによって、この第五の文化はあたらしい人類再生(Hominescent)を生じさせるのだ。それは、自然契約を調印するのだろうか? それどころか、自然契約がおのずと受肉したのが人類再生なのだ。

ここにある、「同時的(シンクロニック)な三つの記憶の場所」、「世界−内−存在のハイフンの物質化」は、忘れられない。なによりここには、この私とこの身体を使用する根拠が記されているように感じる。この私とこの身体の、諸関係を、主体化し、それを用いて「非人間(ノン・ヒューマン)である古い自然の無数の細部を人間化する」。これが、「自然契約がおのずと受肉した人類再生」に繋がる。こうした、この私の心身への圧のかかり方、肯定、のためにアナロジズムやアニミズムがあったようにさえ思えてしまう。ほぼ誤読だろうが。

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ここから、貞久秀紀の最新詩集『具現』について考えたい。が、体力も時間も尽きたので、ひとまず引用だけをしておく。

「推移」
知らなければ瑠璃鶲だとわからなかった鳥が
細かなうごきで現われてきえた
この岸べにみずいろにうち寄せる
漣のゆるやかな音できこえてくる水のいろをみるまでは
想い起こすことのなかった藪なかの枝づたいにわたしが行き
ふだんとかわりなく前方をもつきょうの道に

 

「例示」
きょう、やぶ道をきてひとつの所に立ち
それがこの岩であるときはみえずにいる雲が
おなじ岩の台座から
きのうの曇りぞらにとりわけ陰がちにかたまり
光につよくふちどられて
山の真上のかぎりあるちぎれ雲のすがたにまで
高められ親しくながめられたことは
その日そこに湧きいでたただひとつのことがらとして
指折り数えることができる

 

「この岩を記念して」

この細道はいずれひとつの岩に当たり
岩がゆくてを塞ぎ
かたわらに迫る崖からゆるみでて
道に来ていた
それは近づくにつれはじめて目にうつり
すぐさまそれが前方に横たわる岩であることを
知らせるとともに
今しがた来たことの証しに土をつけているかのように
埋もれていたところに湿った土や
樹木の細く白い根が絡みついていた

 

ある日ひとりの口のきけない友が食卓について
食事をしていたとき
わたしがこの友といて食事をしていたように

このときもわたしはひとつの岩に近づき
そこからのぞむことのできる
岩のおおまかな姿をながめていたが
そのころ
わたしはこのうごかずに目の前にある岩にうでをのばし
土や根や
岩の外であるところから自然とそれに触れた


昨日も鈴木一平と話したが、貞久秀紀さんを分析する上で頻繁に口にされる(阿部嘉昭さんが提案したところの)「減喩」は、ある場所そのものを立ち上げる技術だ。「知らなければ瑠璃鶲だとわからなかった鳥」という言い方をすることで、あるいはひとつの詩まるごとを使ってその鳥がいた場所を、そこに至るまでの私と場の継起を記述した上で記すやりかたをとることで、「道に鳥がいた」という記述において生じる統合のあり方から、道と、鳥と、私を、それぞれ切り離し、その上でそれらを並べることに成功している。
「この岩を記念して」の岩もそうだが、こうした技術によって、物も生物も時間も、それぞれが固有の場所を持ち、それらが相互に入れ子になりながらレイアウトされている。そしてなによりこれは、散歩する私の身体的持続が素材となって制作されている。決して、単なるばらばらではないのだ。この私が、この環境を歩き、この岩に触れる。その貧しさが、決定的な世界の構成の論理を記している。ここからひとつの「私」をめぐる理論を、考えたい。当然それは、ホラー映画や政治について考えることでもある、と思える。
というような話を、7月17日には自分はするのではないか。

http://bigakko.jp/event/2017/inunosenakaza