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地獄の制作が貼りついた私の持続――白石晃士『ある優しき殺人者の記録』


 この映画を体験し終えた私たちの前には、ふたつの線の直交が見える。すなわち、①全編ノーカット映像で組み立てられたフェイクドキュメンタリー作品が、フェイクドキュメンタリーである根拠としての「これが私の現実と地続きであるはずがない」という判断を、しかしこの映像は別の宇宙を撮影したものであるから現実の位相が異なる、という言明によって、ある種の非フェイクドキュメンタリー映像=ノンフィクションへと転換してしまう、線。②そのような「私の現実とは別の現実を写したドキュメンタリー映像」が、私の現実とは別であることを理由に無根拠に陥るのではなく、あくまで私の現実と因果関係で繋がって見えることによって、この映像はあなたの現実の成立条件として裏地に貼りついた「別の宇宙」のドキュメンタリーである、という言明が可能になるという、線。
 以上ふたつの線が直交することによって、私たちはこの映画全体を、「複数宇宙をひとつにまとめ持続させた存在=生命」の様相を呈するものとして、私たちの認識能力の内で活用せざるを得ない。活用した先になにがあるのか? それは、私が私でなかった世界への愕然と感激である。

 男は過去に遭遇した事故を忘れられない。男は子どものころいっしょに遊んでいた女の子が目の前で車にひかれる瞬間を忘れられない。それを映したカメラがある。ビデオテープを地面に埋めたその日から男には神の声が聞こえる。27歳になった年、27人を殺せば彼女は生き返る、お前が殺した人々も生き返る。すべては幸福になる。
 神の声は何千も聞こえる。男は精神病院に入れられ、27歳までを過ごすことになる。男の前にはあらゆる偶然が神の言葉として聞こえる。ありの群れが27という数字を形作ったり、鳩が27羽死んでいたりする。ひとつひとつを見れば偶然であっても、すべてを見つめる持続した私の観測点からすれば、もはや必然である。なぜそのような指令を神がもたらすのか? その内実はわからないが、内実がわからないまま信じる他ないものはこの世界にいくつもある。宇宙、世界、私の存在。運命はあまりに私に過剰すぎるから、運命、と名づけて保存する。
 映画は、男がかつての友人だった女性と、それの引き連れてきた日本人カメラマンに、自らの奇跡を撮影させるていを装っている、フェイクドキュメンタリーとしてある。全編ワンカット撮影、とうたわれつつも、もちろんそんなことはありえない。装っているだけだ。しかし、ではなぜ装う?

 この映画のなかでいくつも生じる偶然も、それが仕組まれた映画作品=何者かによって編集されたフィクションである限り、なんら驚きのない必然でしかない。その意味では、いくらもある暴力シーンは退屈ですらあるだろう(あのようなセックスは冗談にしてはあまり笑えない)。
 そんな基調がまったく裏返されてしまうのが、最後の数分間だ。カメラは、神の指示を果たしつつある男の手に渡り、撮影される空には神、としてしか解釈しえないようないびつな触手たちがうごめき、男を、そしてカメラを、突き刺す。次の瞬間、男は十数年前のあの日、事故の直前にタイムスリップしている。男は走り、事故現場にたどりつき、事故で死ぬはずの少女を遠くへ追いやり、かわりに自分を暴走車両のルート上に配置する。私は死ぬだろう。神の最後の指示は、私が死ぬことだった。このようにして、自己犠牲的に死ぬことが最も正しいように思える。だが、「この映像はいったい誰が見るんだ?」と口にしたところで、暴走車両はみごとに男を――カメラを、ひきたおす。
 数秒、宇宙にゆらめく神の姿が映る。カメラが落下する。そこには幸せそうな男女三人の姿。彼らのうちの二人は、さきほどまで人を殺し、叫び、死んでいった男女に似ている。そう、神の述べたとおり、すべては生き返ったのだ。三人はカメラを拾い、自分たちをすこし移したあと、カメラをそのまま路上に放置して、去る。映画も終わる。

 こうして私たちは、現実に地獄を誘い込んだのだ。白石監督の『オカルト』では、『ある優しき殺人者の記録』と同じく、神の導きによって大量殺人を行う男が登場するが、彼は渋谷で自爆テロを起こす際に、カメラを持っていく。数十年後、そのカメラが降ってくる。そこには地獄に落ちた男の映像が収められている。
 地獄。すなわちこの現実とは別の位相にある現実だが、しかし同時に共存してもいる、時空間の羅列。地獄の映像を撮影し、それを映画として上映するためには、ふたつの矛盾した世界を行き来する媒体が必要である。それが、カメラだ。
『ある優しき殺人者の記録』では、前半約八十数分が地獄の映像であり、残り数分がこの世の映像である。そのとき、私たちはやたらに繰り返される暴力シーンや、仕組まれているとしか思えない偶然の列挙を、もはや「これは私の存在する現実ではないためにフィクションだ」と断定することができない。私たちが見ていたのは、私たちの世界とは矛盾した、しかし同時に私たちの世界の成立根拠にもなっているような、前世だったのだ。
 と、このように思考していったとき、私たちはさらに、このような地獄・前世の存在が、私たちの生命的な持続にこそ由来していたことを知る。というのも、タイムスリップしたかのような映像や、一瞬映る宇宙、幸福そうな男女らの映像が、ひとつのカメラによって撮影され続けていることを保証しているのは、映画を見ている私たちの持続にしかありえない。地獄と現世の因果関係を結んでいるのは私たちである。カメラに私たちが食い込んでいる。

 矛盾した世界。ひとりの人間が、別々の人生を歩んでいるような認識。大量殺人を犯していた男と、最後に映るあまりに幸福な男は、同じ俳優が演じているために、同じ人物に見える――だけではない。ふたりの人間が、別々の場所に同時に存在しているひとりの人間のように感じられるのは、ドッペルゲンガーを発見する私たちの問題である。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出してみればいい。タイムスリップしたマーティが過去の自分を見つめるとき、ふたりは同じ人間であるかのように認識されるが、しかしその後、世界は別のものへと変化していたことがわかる、つまりふたりのマーティは実はまったく別々の人生を歩んできた別々の人間であったことがわかる、しかし一度出現したドッペルゲンガーは消えず、マーティは映画で行われたタイムスリップを無限に繰り返すように感覚されてしまう。『ある優しき殺人者の記録』における、いまこの瞬間の私の裏地に地獄がはりつく感覚も同型である。
 もはやここでは、複数の矛盾した私が同時にひとつの持続を計算している。地獄がなければ現世がない。現世がなければ、いったいどうなる? ホラー映画が、死者と生者を単一の画面に同居させる、そんな幸福に満ちた表現方法なのであれば――『リング』においてテレビ画面から上半身をだらりとはみ出させている女性を見よ、数十年前に死んだはずのその人は、自らの力によって、それまで存在しなかったカメラとビデオを一から制作し、それの再生する映像を通じてタイムスリップする、幸福に――はたしてこの映画の持つ幸福感は、ホラー映画のもたらす質に由来するだろう。内実のすべてはわからないが、かろうじて私には実在が信じられる宇宙、その観測不可能性が、神として、私の持続を培っている。私は次の瞬間にも生きていると、私は別の私に信じさせずにはいられない、そんな余剰、そんなまとまり。すなわちこの映画が制作されたこと/この映画が見られうること