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2012-08-07

「なんでも持って行っていいですよ」

「じゃあ、ハンガーとフランスパンを」

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TSUTAYAの郵便返却の袋の中にあった前の人のレシートが、近親相姦のアダルトビデオと、60年前の戦争映画だった。旧作値引きされているからシニアの人だった。

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夏の昼間って、ゆっくり歩いてると人肌に包まれてるみたいですごく気持ちいい。

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「手から熱出せる人がいて!」

「キャハハハハ」

「いやマジで!」

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iPhone落とした。

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ちょっと外に出るだけだからiPhoneおいていこうかな、と思って机の上におき、いやまぁ持っていこうと思ってまたポケットに入れた。「ん、夢?」ってしばらく思ってたけどこうやって文字打ってるとすごい速度でガラスがぽろぽろ取れてくくらい割れた。でもデータが消えたとか人が死んだとか指が潰れたとかそういう取り返しのつかないことじゃなくてお金払えばなおるわけだからハッピーだし、むしろこのことによってiPhoneを割ることが決まったぼくの小説の登場人物がかわいそう。これでぼくが「左下に貼っていたカエルのシールを剥がすと、フロントガラスの奥の液晶部分にくっきりと影のようになってカエルの姿が張り付いたままだった。」って書くと「非現実だなー」って思う人がいるかもしれないけれど、実際にそうだから書くしかない。なんでこれ、ひび割れの奥にカエルがいるままなんだろう。

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ぼくが全部の文章を書いてるiPhoneの内側に人の手が加えられることを思うと、これは本当に手術だと思った。

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ひいじいちゃんの葬式がひどかったって話聞いてた。焼いた骨を砕いたり、のどぼとけを落として割ったりしたって。じいちゃんの喉仏は修理できないということが、ぼくは葬式に出てないことを示してる。ぼくのiPhoneは修理できてしまう……つまりじいちゃんが割ってくれた。

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『この空の花』は途中すこし退屈になったけれど、結局は、数年ぶりに泣いちゃったくらいすごかった。現在と過去、フィクションとノンフィクション、演じるものと演じられるもの、そして生きるものと死んだものが、同一画面だけでなく、同一時間の同一地点に並存し、炸裂するのをあそこまで露骨にやり、成功させるのは本当に凄まじいと思う。なにかしら歴史めいたものを自分のフィクションに組み込みたいと思うのなら見るのがいい気がする、究極の意味での三人称が広がる。個々の歴史が個々の声の錯綜で一本になっていき、それに応じて映画の画面が深度を増していく。登場人物とそれのモデルの人が対峙する。1歳で死んだ人が18歳になる。徹底して主観的である声を「演じ」「演じられる」ことで入り乱れさせ、反転した、強固な三人称にいたり、その結果として現在が過去を現在から見える場所に配置し、過去は未来と同様の距離感で見られる。「まだ戦争に間に合いますか?」「さよなら」という言葉を、死んだはずの子どもをモデルにした女性が口にするとき、今と過去が未来への前段階にとどまり続ける運動となることで、すべては一方向に進む時間ではなくなる。それが物質でない、生命として生きる意味のような気がする。あと、あきらかに合成であることがわかるような映像処理(炎など)もまた、俳優とモデル(実在の人物)の混在と同様の階層のあり方だし、多発するテロップもフィクションとノンフィクションが入り乱れ、共に反転していることとつながる。「わたし」が「あなた」の歴史と共に集合的な三人称へ転換する。たたみかけるような速度でのセリフ、映像処理、時間軸の移行、歴史の叙述、そして同居しえない人物同士の同居は、最初のシーンから認知限界の一歩手前まで展開され、さらにそれを積み重ねることで認知限界の閾値自体を押し広げられる形で、今まで見えるはずのなかったものが見えるようになる。山下清役は、たまの石川さんだったけれど、ふつうに最後の大団円で、過去と現在、俳優とモデルが入り混じるなかで、石川さんの演じる山下清が太鼓とか叩いてて「石川さんじゃん!」って思ったあのときのあの人は、山下清なのか石川さんなのか、どっちだろうって、というところからくる、一人の体にいくつもの存在と歴史と時間が同居してしまうその現象を許せるくらい、あの映画に映るあらゆる存在(人、場所、名前、行事……)が大きく分厚く頑丈になってて、そういう巨大な体が、つまりは神話的強度だと思う。

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新しくなったiPhoneの画面は、たぶん透明度が正規品よりもないから、青く光って見えてとてもきれい。

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教室の窓から飛び降りようとして先生に止められた時に「なんで?」って言われて、「だっていくら算数ができたって、体育ができなかったら怪我するじゃないですか」って泣きながら言ったのすごい覚えてる。

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「(カフカについて)事実を描きだして提示して見せる必要はないのだったーー真実であるためには、作者が書いた、というだけで十分なのであり、作者の才能の力と声の権威以外に何の証拠もいらないのだった。」『生きて、語り伝える』G・ガルシア=マルケス

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うれしいことぜんぶ信じられないからすごい信じようとしても途中で潰えそうになる。自分が死なないことを信じられるのに。

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西川アサキ的中枢概念イコールその場の文章所持者(さらにはそこにある全体)として考え、さらに構造的カップリング(ニアリーイコールでコミュニケーション)の二重性もまた同様に。肉体における精神はどこかという問いがそのまま書き手のありかたにつながり、登場人物につながり……って考えてる延長で、ぼくの多層化されたガラス地図的な小説像があるのは間違いない気がするし、その二重性の元にはペギオさんのもあるだろうし……中枢の移り変わっていく(しかしひとつである)運動における情報の圧縮具合が、一語一語の視点に直結し、小説全体となる。そこではもはや、書き手のぼくはぼくでないぼくにとって変わられながら、しかしぼくであり続け、また、ぼくは他のエージェントに憑依しつつ憑依される繰り返しを生きていく。文章所持者の変更、それはたとえ三人称的記述であってもあらわれる世界像=地図を硬直化しないために行われる初期化であり、その初期化の反復運動がログとして残ることでシステムが複数の地点にわたって記述される。システムとは過去や未来に広がる書き手であり、記述視点の角度の複数が、時間である。つまり硬直化すると時間が停止するからいけない。地図の硬直と、文章所持者の硬直と、自己にむかう視点の角度の硬直がそれぞれ相互依存しながら時間の硬直を生み、そうなればもはや読む行為が不可能となる。つまり言葉としては読めても、それは読めていない。逆にいえばそれさえうまくいけば。「経験していないことを思い出して書く」(柴崎友香)。地図のデータの供給源 データの保存先 読み取りコード それぞれが内部と外部の対応関係に結びつくと同時に、同様のコミュニケーションが内部内でも行われていることから、コミュニケーションの質が(二重化を原動力に)変異していく。つまり同じコミュニケーション回路を用いていることから、外部のためのものが内部までにも適用される。一人の人間が書いているという(実際はそうでなかったとしても、まるで臓器移植を受けた人間がしかし単一個体であるかのように想定されるぐあいで得られる)性質は、たえず二重性をはらむことで世界を書ける。逆に見れば、なぜわたしはわたしのことを書けるのか?という問題とも照応する。あなたが見ている青はわたしの見ている青と同じか?→わたしが見ているこの青はわたしが思う青と同じか?→わたしが見ている青はわたしが見ている青と同じか?わたしはわたしの知らないことを書けないという疑問が出て来るのなら、その逆も考えなければならない。そこまで至ることで、回路はついに逆流をはじめ、世界との拡大縮小(全体と要素、全と一の並存)が開放される。

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空き缶が扇風機で動くわけないって思ってた。