空間〈内距離〉のモデル
ある身体の行為が、それを取り囲む単一の環境に還元されず、同時にその身体の履歴にもまた安易に還元されない、外部から見ればナイーブな〈自由〉の発露であるように感じられるとき、それをしかし外部から切り離された魂の、身体内部への埋め込みの根拠とはせず、あくまで魂は身体外の環境にこそ埋め込まれている(あるいは内部と外部の結合としてあらわれる)としたいなら、身体の発する〈自由〉な行為(外部環境に還元されないように思える行為)が、別の時空間に位置する別の環境から来るものだと考えることは可能だろう。つまり、ある身体内には、それを直接取り囲むものとは別の環境と接する回路が用意されており、〈自由〉な行為は、その回路を介して生じる複数の環境の掛け合わせとして観察されるものと考えられる。ただ、その際、環境と環境の掛け合わせが行われていることは外部から観測可能だが、そのふたつ(あるいはそれ以上)の環境間の距離は、身体内部に閉じた思考としてあるため、外部からは観察できない(それは相手がおなかに痛みを感じているのかどうかがその身振りからは確定できないのと近い)。
言語表現における〈語り手〉の把握は、上記の文脈でいえば、テキスト内に〈自由〉=魂を見出すことと言い換えることができる。文ごとに知覚される言語表現主体を束ねるメディウムたる〈語り手〉は、「私」や「彼」や「たろうくん」といったような、比較的言語表現を担いやすいものを指し示す単語を中心に、テキスト上に磁場を作る(当然、「いす」や「ねこ」や「今日」や「痛い」といった単語もまた、用意された構造次第では、〈語り手〉として機能しうる)。〈語り手〉というコンポジションの法則を読みにおいて学び、駆使することで、人は、ある同一の文がテキスト内の別々の場所にあったとしても、それぞれの担いうる意味がまったく異なるという、ごく当たり前のケースを受け止め切ることができるし、ひとつのテキスト内ではっきりと矛盾した内容が記述されていたとしても、〈語り手〉の切り替えあるいは〈語り手〉それ自体がゆるやかに変容した結果として何気なく読み終えることが可能となる(そこでのゆるやかな変容はもちろん読み手のゆるやかな変容と対応する)。つまり、字義通りには受け止めきれない余剰がテキスト内に思考として生じてしまう。ゆえに〈語り手〉の把握は、ある身体が、その周囲にあるように見える環境に還元されないような行為をおこなっているとき、その内部に別の環境が掛けあわされている(ここに〈自由〉=魂がある)と感じるのに似ている。言語とはそもそもそれ自体、無数の記憶や環境の掛け合わせをそこにおいて生じさせる、ひとつの統合機関……編み物……身体としてある。
その上で、その身体が位置付けられるところの空間が、活字の並びでしかない言語表現において立ち現れうるのはなぜなのか。言語表現における空間知覚は、風景を描写する中でその風景の内部に位置づけられる身体の履歴と位置と特性が〈語り手〉のそれとして、読みの傾向を作り出すなかで把握されるものであると同時に、なによりある〈語り手〉が、別の場所で立ち上げられた〈語り手〉と、たがいに交わらないまま衝突させられたときにこそ極端に露呈する。つまり魂と魂の衝突。二種類の〈環境の掛け合わせ方〉の掛け合わせ……そこで空間は、単にある視点から遠近法的にひとつの環境を観測することで把握される静的なものとしてではなく、環境を統制する視点において、別の視点がこちらの内部を行き交う、その行き交い可能な行為の幅として、私というものが、立体視のようなかたちで、事後的に思い出されるものだと感じられる。複数の〈語り手〉のかけあわせとして立ち上がる空間が重要なのは、それが、複数の環境のかけあわせによって生じる〈語り手〉それ自体の内的距離を、外的距離へと反転させたものとして――あるいは逆に、〈自由〉=魂を、外的距離が内的距離へと反転したものとして考える要因として――思考可能であるためだ。そのとき私は複数の距離の折りたたまれた空間として感じられる。きのうの私の次に今日の私が来て、その次に明日の私が来る、その執拗な連鎖の法則を……あるいは遠くにある窪地を見ながら私は平坦なここにいる、そのときの窪地に感じられる生々しいへこみを……別の魂をもった私との共同思考の素材とすること。これは、ホラー映画において、現実とは別の、幽霊個々人の所属する因果律が、幽霊ごとにばらばらに立ち上がり空間内にうろつきさまようが、同時にそれはそれらを知覚しているカメラあるいは登場人物の内部で生じている事態でもある(空間の性質がゆらいでいるのと同様に私が私であることがゆらいでいる)ことと、いくらか重ねて捉えられる。私が私であることへの思考と、国家が国家であることへの思考が、編み込まれるプロセスにこそ、幽霊(根本的に矛盾した空間同士の近接配置)は蔓延る。
外部の距離を、内部の距離として扱い、さらにそれが外部の距離の複数性を準備する……この事態を実際の素材をもとに考えるために、言語的な空間性を、ある環境内に視覚情報として露出させてみる。3台のスマートフォンを用意し、そのうち2台が、互いにビデオ通話を行うことで、自らの撮影する空間を相手の画面に向けて伝達、上映する。あるスマートフォンに備え付けられているカメラレンズと画面は、いつもならその端末内部で自己完結している(画面はそれの属する端末の自己表出としてある)が、そのような事前の習慣が、奇妙にねじられるけれども消去されきることはなく絶えずつきまとうため、あるカメラが向けられている先の空間と、そのカメラの画面があらわす映像内の空間が、まったく時空間を別としているようであっても、ひとつの端末内部の事態として常識通りに処理されてしまったとき、端末間の関係が、単一端末独自の抵抗(魂?)として、錯覚される。外的距離が、内的距離へと反転する。
さらにそうした様を、残り1台で撮影してみる。このとき撮影している様子もまた、その端末の画面にリアルタイムで表示されているため、それをまた2台のカメラのいずれかが撮影することで、結果として手元に残る映像のなかには、それを撮影しつつ自己表出している画面の運動が、指示されることになる。自己表出と指示表出が相互に入れ替わり横転する(これは語る私が語られる私としてテキスト内にリテラルに表示されがちな言語表現においてはありふれた状況である)。加えてここへ持ち込まれる鏡面は、ある空間把握の論理のなかの前後関係を反転させることで把握可能なもうひとつの空間をつくるとともに、2台のスマートフォンが行う映像交換が、前後とは別の何かを反転させる鏡面として機能していることを強調する。また、そもそもスマートフォンの画面それ自体も、撮影しているカメラのレンズと作り出す角度がある一定値を超えたとき、上映画面としての自己表出をやめ、単なる鏡面として像を映すことや(そのときあらわれる空間は、撮影されている端末の自己表出としてではなく、撮影している端末の自己表出としてあらわれる)、反転されたふたつの空間が、鏡面へのカメラの接近によってその区分を見失い、ひとつの空間としてあらわれながら、しかしその物質的性質は失われず、鏡面の上にスマートフォンを置くことができる(その鏡面自体が視点の立つ座標として把握可能である)、といったことなども、ある。
とはいえここまでは、とても常識的な混乱のあり方とも言える。問題は、そうして立ち上がる空間(言い換えれば、この映像はある座標に立つものが捉えた自己表出として把握可能である、という論理が、内側で増幅させられて奇形化した結果得られる、因果律の掛け合わせ)の内部で、身体たち(彼らは、自分の持つ端末の画面に表示されている、別の端末の映像を大きな拠り所としながら、同時に別の身体がどのような位置で何をしているかをも把握しつつ、自分の端末を動かしていくことを求められるわけだが、そもそもこれら身体こそが外部環境を知覚し自己表出として行為を行っている端末であり、逆に言えばスマートフォンはそれぞれ自己表出を行う身体として錯覚させられるものだった)が、どのように動き、行き交えるのか、あるいは行き交うことでなにが生じ、どのような転用可能性が開けるのか、だ。そしてなにより、こうして即物的に露呈した空間が、再度個々の身体の内部に反転していくさまを、言語の空間性のモデルとして使用可能だろうか。それらを議論の焦点のひとつとする座談会4(それ自体、複数の空間を立ち上げながら別の空間に自らを介入させていく、ということが可能であるような空間=幽霊の蔓延る場の制作でもある)に向けた、ひとつの素材を得るための、練習として……。
2016_05_28
子どものころのぼくにとって原爆というのは世界というもの、本というもの、死ぬというもの、すべきことというものだった。毎日山のなかを走り回っていても怒られない、園長先生がクリスマスの前にサンタクロースの格好をしてプレゼントを配ってくれる幼稚園から、4歳の時にひっこし、変わった幼稚園ではこっそり教室をいつも抜けだして、体育館でひとり(もしくはそのときだけ仲のよかった友だちとふたり)で遊びまわっていたぼくは、6歳のときに小学校に入り、しばらくすると運動神経がどうしようもなくて2年生になるとひとりで昼休みに昼寝をしたり、なにより図書館でずっと本を読むようになった。パンについての本を読んだり、クリスマスの日にまちがえて子どもを撃ってしまった親についての絵本を読んだり、怪談についての辞書みたいな本や、お伽話集を読んだりしたことを、十何年たっても覚えていることになった。
どんどん読んでいくうちに、図書館の一角にずらずらと同じように暗い背表紙の並んだ写真集に手が伸びた。すごく重たい本だったから、棚の手前の床で読んだ。それは戦争に関する写真集だった。たくさんの死体や頭を見た。親に言うと、ああ、私らもむかしたくさんの中国のひとの死体を見た、と言っていた。
図書館には、戦争に関する漫画もたくさんあって、それをひたすら読んでもいた。中国で、戦争が終わって疲れきった顔で、地元の子どもを助け、遊んであげていた日本の軍人の男の人が、急に銃で子どもに撃たれるという終わり方の漫画や、被爆したおじさんが子どもたちに野球を教える漫画があったりした。ずっと出入りしていた、特別学級の教室にも、はだしのゲンがあって、毎日折り紙を折り続けていた日々の中で、読んでいた。ある日、図書館で、戦争の写真集があつまっている棚とは別のところにある、黄色く薄い本を見つけた。原爆についての写真集だった。そこで、溶けた女の子を見た。そのときぼくは5年生で、その、ほとんど同年代の女の子の写真を、ひどいぼくは、なかばむりやり友だちに見せたりとかしてこわがらせながら、原爆ってなんなの、と思っていた。
すると修学旅行で広島にいくことになった。資料館に行った。時間がなくて30分くらいで走りながら見た。パソコンをはじめて親からもらい、広島の原爆についてネットでずっと調べていた。子供向けのサイトがあっていろんなおはなしがあった。こわれたお弁当、ズタズタの布切れ、がれきの下の女の子。中学校にあがるとすごく立派な図書館で、本当にたくさんの全集や美術の本や理科の本、宇宙の本、恐竜の図鑑からSFからなにからたくさんがあるなかで、やっぱり戦争の本もあって、みんなが戦争の本を見ながらげらげら笑っていた。みんなもうこわがったりしなかった。中学3年生になると長崎に修学旅行に行くことになって長崎資料館に行った。友達とその修学旅行で絶交したせいか、まわりの人たちが原爆なんてどうでもいいと思ってるように思えて、むしろまじめに見てるのがいやなかんじにも思えて、ばかだった。広島よりもはっきりした展示が多い気がした。広島の資料館にはそのまえにもう一度行っていた。
歳をとるにつれて、世界にはひどいことがたくさんあるんだと思った。悲しいこともたくさんあって、哲学の本とかを読みながら死刑についてや少年犯罪についてをひたすら調べていてもけっきょくそのひどさ、悲しさ、誰がわるいとかではなくてなんでこんなことが起こってしまうのか、生きものと生きものがなにかしら接するということでそんなどうしようもなくつらいことが生じるということが信じられなくて、その信じられなさが、戦争についての写真たちと重なった。そしてもっと根本には、クリスマスの日にお父さんお母さんに銃で撃たれちゃった男の子の気持ちや、自分として生きることがどうしようもなくつらくて学校のなかをひたすら逃げまわって先生に探しまわられてた自分があったような気もする。
階段の裏側、掃除用具のためのブリキのロッカーがひとつあるだけの小さな空間は、ガラスの扉ごしに学校の中庭に面しているからなにも閉ざされた感じはなくて、緑色のゴムっぽい床に光が差し込んでその形が台形で、学校はどこも授業中だった。どこからも音がなくて、中庭の木々が風で揺れたのにあわせて光も揺れるはずないのに揺れてる気がして、ぼくはその光の温度に上靴の先が触れるくらいの位置に体操座りで座っていて、光と床の境目を見ていた。先生がそのあとぼくをどう見つけたのか覚えていないほど、そこだけがくっきりとした空間のまま、何年もが経っていた。
そういう空間がいくつか死ぬまでに見つかるというのはもちろんあると思う。でも、それがいつどこでどう残るかはわからないし、ぼくがいなくなったってその空間だけが残るかどうかなんてわからない。原爆でふきとんだ場所にもそれはあったのかもしれない。それがなくなったことは写真が教えてくれたけれどそれがどんなものだったかはわからない。ただ、それがなくなったということばかりが今ではつきまとう。
世界がここにある、それをぬぐうことが(そこにいる私も含めて)絶対にできないらしい、ということを、毎朝目覚めるたびにそれが同じ世界と私であることから知り、その裏側にこの世界がどれだけひどいことを起こし続けてきたのかが張り付いているのかを知り、なにもかもがまったく分かちがたい。いつでも主は世界そのものであり、受も世界そのものであり、その意味でただひたすらにこの世界とそこで生きている私はひどいことばっかりだった。
このあいだ、いぬのせなか座2号で、ぼくは、政治的であることは教育的であることと同義でしかありえない、と書いたのは、ほとんどそのどうしようもない「ひどいことばっかり」を拭い去るにはぼくがぼくであることからほとんど実在的にはじき出されなければできないことだと思ったからだった、死んだあとについてしかもう考えられないということだった。
オバマ大統領が広島訪問をした、というニュースを見ていて、自分でもすこしびっくりしたのだけれど、言葉、について考えた。演説を見て、世界と言葉が、世界とは言葉である、とかいうのとはまったく別に、なにか、世界と言葉が、どうしようもなさのなかでぐしゃぐしゃと入り混じってしまったような感じがして、すこし、戸惑った。語るものが、ある場所に行き、その「語るもの」として語ること、が、どうして、単なる文章の提示とはほとんど質的に違う、気持ちの動きを、原爆の関係の人たちに起こすのか、という本当にありふれた話が……きっとこの人が死ぬ前になにを祈っても、今ほどの言葉には(この世界に人間として生きるうえでは)至らないだろう、と……「ひどいことばっかり」とつながって、またあのころの、小学生のころの、どうしようもなさを感じていた。
つよいありんこ
いぬのせなか座 1号
昨年11月に『いぬのせなか座 1号』という本を出しました。
『いぬのせなか座 1号』には、メンバーとの座談会や小説、詩などと並んで、ぼくの大江健三郎論が載っています。これは、ここ数年、ひとまずのぼくの小説観をまとめ上や左右へと押し広げるために、書き直し続けていたテキストです。
これを書き終え、いまはそれを身体芸術や俳句やレイアウトの問題として考えようとさまざま悩んでいる日々ですが、ひとまず、ここで書くのが遅れましたが、以下に大江論の概要をのせておきます。この概要は、紙面にも掲載されているものです。
また、『いぬのせなか座 1号』については、のこり10数部と少なくなっていますが、上記ページにて通販を行っています。
その他、中井秀明さんのブログで言及していただいたりなどしております(本当にありがとうございます)。
現在、いぬのせなか座としては3つ目の座談会を準備中です。2号についても、あまり時間をおかずに出せたらと思っております。(1号は、ぼくにとっては、もうずいぶんと社会的価値を失い、芸術の一分野としてもなかなか活用されなくなっている小説・詩という表現方法を、いかによりよく「いま」使用可能か、という問に対してのいぬのせなか座なりの考え方の提示、を介しての、ほとんど自己紹介のようなものだったため、理論的(というほどに整理されていませんが)な傾向が強かったのですが、次号はもっと作品としての傾向が強まる気がしています。そのぶん、座談会はより理論的になれれば。その並行。またご報告します。)
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本テキストは、大江健三郎(一九三五−)の小説作品、とりわけ『水死』(二〇〇九)を、小説制作に伴う思考の問題をパフォーマティブに扱ったテキストとして分析する(ないしは相応の分析言語を制作する)。その際、大江が駆使していることで知られる「擬似私小説的手法」……書き手と語り手が混同され、過去作で組み立てられたフィクションが現実のものとして想起され、「私」の書き直しが土地や社会の巨大な神話へとゆれひろがっていくという、彼の達成したその技法を、小説という表現方法の内的性質を極端に発達させたものとして、考えていく。これは、本テキストで用いられる私が、小説という表現方法を、書くたびに生まれる言語表現主体に関する情報の、ひたすらな書き直しによって書き手自身の思考を発達させていく過程、ないしはそのような発達の技術の伝達過程として捉える立場を、かたちづくろうとしていくものであることを意味している。一方で、こうした小説への立場のかたちづくりは、小説を印刷された文字列の内に留めることなく、テキスト外の人間や、彼らを取りまく環境にまで広げて再定義していこうとする過程と、表裏一体でしかありえない。結果、この私は、従来のテキスト分析が陥りがちな、書き記された言語への過度な依存ののりこえや、非言語中心的思考へある種の反発として推し進められる傾向のある昨今の哲学・芸術理論の領域へと、小説の近辺に蓄積されてきた技術や理論を渡し開いていく営みの、双方をもまた、自らの意図として組み上げていくものでもあることになる。
Ⅰ.小説的思考。大江は、小説とはなにか、という問いへの答えを、書き記された文字列ではなく、その表現過程にこそ見ていた。《この自分は私でありながら、私じゃない。私はかれだ、父親だ。》(『水死』)という文章は、それ単体では異様だが、全体を読み進めるなかでは、複数の言語使用方法が重ねられたかたちとして知覚されるという点で、その思想を具現化している。小説は、複文がひとつの場で立ち上がるかたちでの思考からこそ成り立つものであり、そのような思考は、単文を複文たらしめる私の同一性が、印字の外に、ひとつの素材として設けられることで、そこにおいて、展開される。この際、私の同一性を折り重ねたり破砕したりする性質をもったものとして、映像機器や録音装置、絵コンテ、演劇における身体などといった、多くの非言語的性質を持ったイメージが用いられ、それ自体、語りの多層の媒質として機能する。
Ⅱ.分散と統合。印字の外に小説の表現過程があるとして、その外は、テキストを蝶番に、ふたつ、想定される。言葉の刻まれる余白(=奥)と、言葉を見つめ触れる人間(=手前)である。『水死』で語り手の前に飛来する二行の詩は、語り手と読み手を類似させながら、それの刻まれている石碑=隕石を経由して、大江の小説に頻出する概念「森のフシギ」へと到り、複数の言表行為を受け止める余白への思索を露わにするが、同時にそこで、余白に刻まれた言葉が複数の「私」をひとつに圧縮する手続きを、大江が転生と呼んでいたこともまた明らかとなる。書き記された言語に、それぞれを表現する主体の認知が保存されているという事態を、大江が「文体」と定義するとき、印刷された文字列は、書き直しや忘却に伴う認知限界などによって無数の時空間に分散させられた言語表現主体たちと、それらを囲む環境群が折りたたまれた奥行きとして、捉えられるようになる。そこでの思考は、ディープラーニングのような並列分散処理的性質を持った自発的な概念形成システムとしてありうる。
Ⅲ.分身。複数化した言語表現主体による思考は、単一の主体には収束しえないが、しかし収束しえないことをもってして最大限の思考としてしまえば、表現過程を通じての言語使用方法の変容は生じず、「私が私であること」の余白は全体主義と似通うことになる。これを大江は、表現のなかへ事後的に見出される不可視な「分身」の問題として検討する。重要なのは、「分身」概念の裏地に、「本当のこと」と呼ばれる環境内不変項(地形学的構造)の探索が縫いつけられていることである。小説を作ることで生まれた無数の私らによる環境への反復的働きかけは、多宇宙のイメージを伴いながら、現実・虚構という区分を調停するような運動を、自らの原動力として用いる。それら運動の総体をひとつに取りまとめようとする小説家は、息子と自身のふたりの年齢を掛けあわせたものに前後数十年を加えた「二百年の子供」として、私をほんのわずかだけ隣へ拡張させる。
Ⅳ.教育。転生を成功させる言葉の運用に関して、大江が「教育」という概念を記すとき、『水死』において、夏目漱石『こころ』を題材にした演劇の上演場面が、「教育」の小説的実践として浮かびあがる。それは、抽象的な言葉の配列を具体的に知覚する主体を、言語使用方法として包装し、読み手のもとへ転生させる「教育」であり、大江が小説論で盛んに取りあげる「異化」の、発展したかたちだ。そうした「異化」を十全に果たすものとして詩が定義されるが、ひるがえって小説は、詩の生じる環境、歴史の組み立てられる時間そのものを、彫刻しようとする。
Ⅴ.技術。言葉の配列を読む際、人間に類する存在を指示する言葉は、演劇的教育を介して、周囲の言葉らを自らのもとに収束させる傾向がある。この、語り手生成の回路を素材にして、遠く離れた場所にあるふたつの語り手を交通させるのが、「おかしな二人組」という技術である。これは、土地や動物らと人間とのあいだのカップリング、ないしはそれによる言語使用方法のクレオール化の可能性を、開設する。擬似私小説的手法がその拠り所としていた「私が私であること」の分散と統合は、無数の非言語表現主体ら(とりわけ言葉で自らをうまく表現できない息子)へ貸し与えられることで、私の死後に生きる「新しい人」が、環境内不変項の探索とともに制作される。こうして小説は、フィクションにも、また書き言葉にも限定されることのない、ひたすらに身振りでもって私を死後へと転生させ救出しようとする試行錯誤の思考として、あらゆる瞬間、あらゆる場所に散らばり断線した私らの内側にあってそのつどの私をゆるがす「新たな距離」と、呼び改められる。歴史のうちで、完全に消え去ったものらに向けた技術の実在を、あちらこちらに「かたち=模様」として証明しながら小説は、自らを用い、技術を探す生活、それへの参与を私らに(いつも)強いる。