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公園

 電車に乗っていたことだけが共通するとはいえ、時間も場所もまったく違うはずのぼくの前に、同じ出来事が生じるのだった。それは、一方が2012年、もう一方が2009年に、東京と愛媛の電車の座席にすわっていた両方のぼくの前にあらわれた。
 夕方の4時半ごろ、まだそこまで電車は混んでいない時間帯、高校からの帰りと、渋谷の映画館からの帰りのそれぞれのぼくが、別々の本を読んでいると、目の前に黄色いニット帽をかぶった大きなおじさんが立っていた。赤いリュックサックを背負い、ポケットに入れたままの右手をもぞもぞと動かすおじさんは、本のページしか見ていないぼくの視界へまっすぐに手のひらを差し出すと、
「あげるよ」
 と言った。
「公園だよ」
 ぼくは聞き覚えのあるその声と手のひらの色にせかされて、顔を上げた。電車の走行音が切れ目なく大きくなっていき、いつのまにか重力に変わっていた。耳から入り、血液までひっぱろうとするそれにさえも、懐かしさのようなものがある。ぼくは座席に沈み込み、そのまま車内のどこにも見えなくなっていた。
 ぼくは駅で電車を待っていた。

 それからしばらくすると、2014年のぼくは、ある事情から、むかしに書いた文章を整理していた。
 オンラインストレージ上に保存してある、別々の年に自分が書いた2つの小説を読み返してみて、ぼくは「赤いリュックサックを背負った黄色いニット帽のおじさんから、公園をもらう」場面が、それぞれに書き込まれていることに気がついた。几帳面にも、まったく同じ文章で。
 もちろん小説を公園と重ねて考える人は、どこにでもたくさんいるのだろう。たとえばぼくのTwitterのタイムラインに定期的に載せられるこのツイートを、誰が書いたのかはわからないけれど、初めて読んだときにぼくは、正直、めんくらってしまった。

 

 人間には公園と小説を並べてしまう性質が、少しだけれど確実にある。そして問題なのは、それが「書く行為のもとで」並べられることだ。高校生のころと大学生のころのぼくは、そんなふうな物事の例のいくつかになろうとしていたらしい。
 ――じゃあ、またきみはやってきた電車に乗るわけだ、と小さな手帳から目を離さずに都築は言っている。いまはまだ、高校の制服をきている。コクヨの手のひらより小さいノートに、細かなシャーペンの文字を書き込んでいる。都築は映画を撮ろうとしている。いまはどうなってるのか知らない。

「そうだよ、公園には足がある。カブトムシの足だ。それを、みんなでうまく囲んで、じっと見てやれば、その頭もきっと公園にやってくるから。……」