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「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」に関する指示書拡張

いま山本現代で開催されている展覧会「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(2017年1月21日(土)〜2月25日(土) http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibitions)内、三野新ワークショップ「わたしであって、わたしでない観客の上演を実験する」で課題として作成した指示書です。赤字は、展覧会場で配布されているもともとの指示書。それを拡張するものとして以下があります。

指示書に従う者として飴屋法水さんが、指示書を読み上げる者として三野新さんが、それぞれ位置づけられた演劇的空間が考えられていました。「出演者は、飴屋法水さん一人とします」「出演者は、戯曲は話さない」「観客の注意や意識など、本来見えない(共有できない)ものと、動作の間が見せられるような演出にします」といったルールもありました。これらの下で、もともとあった指示書を最大限考慮に入れつつ、各自、1500字前後の上演台本を書く。そして、ワークショップ参加者のそれぞれの台本をひとつにまとめ、全体としての台本を作るというものでした。展覧会の終了にともない使用可能性も激減するだろうので、公開しておきます。

 

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メインルームに入ると、左手にあるテキストを読む。

 

⑤と⑥の作品と「制作者」として関係する。それぞれの作品のテキストを読む。

 

読み終わったら、階段を登り、⑤をもう一度見る。のぼりつつ、姿勢を低くして、画面のなかの、傾いた窓を、真下の道路からまっすぐ見上げているような視線を作ろうとしてみる。

 

しばらくすると画面のなかのカーテンから、手が、出てくる、あるいはもうすでに出てきている。その手の、カーテンから出てきては去り、という一連の動きを見るまで、じっと画面を見つめ続ける。手の動きをなるべく覚えてみようとする。ひととおり見たら、振り返り、⑥のなかの手を見つめる。

 

⑤と⑥の間で視線を往復させる。⑥のなかの手と、⑤の映像の中の手を、それぞれ同じものとして考えられるか試す。そのとき、自分の手を、道具として使うようにする。ゆっくりと手を挙げ、⑤と⑥のそれぞれの手の真似をし、すべてが同じひとつの手であるように考えてみる。

 

虚構について考える。指示書の声が聞こえてくる場所を探して、空間全体を一望する。

 

そして、再度⑥を眺めながら階段を下り、各々にとって⑥との適切な距離を探る。でも、距離ってなんだろう。⑥のなかに、いろんな視点が埋め込まれているのを見つける。さっき、いま。あちらにあるもの、こちらにあるもの。たくさん、少ない。あっちから見える、こっちから見える。

 

見つけた視点をひとりの私が担えるように、すばやく反復横跳びをしてみる。しゃがんだり、飛び跳ねたりしてみる。そうしながら、距離についてまた考える。

 

疲れたら、飛び跳ねるのをやめて、落ち着きながら、ここに来るときに乗ってきた、エレベーターの中での時間を思い出す。今も自分が、箱に乗って、どこかへ向かっていると考えてみる。慣れてきたら、エレベーターのなかで、さっき、なにを考えていたのかを、思い出してみる。

 

振り返り、⑤の、階段の上の映像をもう一度見る。画面の中の窓、カーテンを、⑥の作品の1つとして見てみる。⑤のなかに手を見つけたら、その手の動きを意識しながら、自分の手も視界に入れ、手と手の間の距離を、覚える。

 

また、階段を上ったり下りたりしはじめる。そうしながら、さっきそうしていた自分を思い出す。思い出すための道具として、⑤の画面から聞こえる音を、使ってみる。

 

目を閉じる。もういちど声の主を探すけれど、今度は目は使わず、耳と、感覚だけで、探す。いま、こうして指示を読み上げている人も、むかし、この階段を上り、⑤や⑥の前で、自分の手を見たと、考えてみる。そのときあったかもしれない、目と手の間の距離を、自分が今日、これまで感じてきたいろいろな距離で、測ってみる。

 

いくつかの距離は、ぴたりとは一致しないけれど、ぼんやり重なるくらいまでは、自分の手と、記憶を動かしながら、思考錯誤してみる。

 

ふと、トランプ大統領の声が、さっきから聞こえていたことを意識する。どこの国の大統領だったかを、思い出してみる。それが、自分のいる場所と同じなのか、違うのか、さっき⑥のまえで飛び跳ねていたときの動きを使うようにして、考えてみる。

 

目を開く。の階段を、一番上までのぼり、あたりを見回して、⑦を探す。見つけたら、⑦と「制作者」として関係する。テキストを読む。眼を傷めないよう薄目で眺めるなど対策をとりながら、この作品が成立している条件、あるいはこの作品をインストールする際の状況について考える。

 

⑦の画面を見つめる。そのなかに映っている人たちを、みんな、ずっと昔の人だと考える。階段を揺らしてみる。下にいてこっちを見ている人たちがいたら、彼らを、自分とは別の国の人たちだと考えてみる。そこに、さっき下を歩いていた自分もいると、考えてみる。

 

自分の手を見る。指示書の声にしたがったことを、すごく後悔する。

 

空中に、ザーザーとしたうるさい音や、話す声、温度などが浮かんでいる。それを、そっと手でつまんでみる。つまんだまま、階段をゆっくり降りて、⑧を探す。

 

⑧と「制作者」として関係する。手でつまんでいたものを、そっとあたりの空間、時間のなかへ手放し、辺りぜんたいへとそれが馴染んだと思ったら、⑧を、様々な角度、距離からじっくりと眺める。壺の中を覗き込み、そのなかに、自分の手を差し込む想像をしてみる。

 

⑧を見つめながら、そのまわりを三周する。たくさんの国の人、お肉、そして顔がある。肉は、自分の体のなかにあるものを顕微鏡で覗いているような気分で、見つめる。

 

立ち止まり、テキストを読む。読み終わったら、またじっくりと作品を眺める。「見ること」の時間を味わい、イメージを愉しむ。でも、イメージってなんだろう、と考えてみる。⑧を見つめ、⑦の音を聞きながら、たくさんの国のことを思い出す。音が聞こえる方角を意識する。

 

⑧に埋め込まれた顔のなかから1つを選び、⑧全体に感じた印象を、ぐっとその1つの顔に埋め込むような気持ちで、その顔を見る。

 

⑧の顔へ向かって手を伸ばし、触れない程度に、その顔を手ですくい上げるような身振りをしてみる。

 

手を、自分の顔にあてる。そのまま、次にどういう指示がくるのかを、思い出そうとしてみる。思い出せたら⑨を探す。思い出せなかったら、何度かジャンプした上で、耳をすます。

 

メインルームに入ると、左手にあるテキストを読む。

鈴木一平『灰と家』

いぬのせなか座叢書の第一弾として刊行する鈴木一平『灰と家』の入稿作業が昨日からずっと続き、いまようやく入稿し終えたけれど、その過程でゲラを一通りまた読み、そのレベルの高さに(身内というより自分自身へのものと同じくらいの厳しさで見るからよいものなのはふつうだろうけれど)ほとんど嫉妬する質だった。
もともといぬのせなか座は亡くなった友人をきっかけにはじまったものだけれど、その大きな成果としてある。鈴木一平はその友人に向けての、制作を通しての思考を徹底し、確かな技術とその伝達形式を作った。それに対してぼくは言語表現の担い手として本当に嫉妬してしまう。
この詩集の基礎にあるのは場所とものと私だ。無数の生きものが私として、ものを用いて、なにかを知覚するとき、そこには役割としての場所が生じる。私が用いたものを、私ではない私も使える。そのときものは別の場所によって占められる。もののかたちが変化する。
変化したものへ向かって、別の生きものが、私のいなくなったあとに、やってくる。私はその生きものをどう知覚するのだろう? 言葉、はここで、単に意味として読むものではなくなる。かつて誰かによって占められ、制作に用いられたものとして、私に迫る。
ANT理論の徹底した発展的理論書のようにさえ読める。私は私においてほつれ、別の私を内にはらむが、それはささやかな震えとして鳥やあめんぼにつたわり、それぞれの場所を崩す。しかし場所が占めるものにおいても、鳥やあめんぼにおいても、速やかに統合は取り戻される。
これは言葉に関する知覚や制作を、徹底して言語外の世界の知覚や制作へと接続する手立てだ。あらゆる言葉が場所とものと私らの交替、変形、移動の繰り返しを抱え込む。そうした言葉がテクスト面上でつくる言語表現主体の磁場(語り、と呼ばれることが多い)が、新たな私と私の距離を、テクストと接する私の中に作り続けている。それは私の身体内部で、言葉を意味として、さらには言語表現を行うものの思考を挿入されたものとして知覚するのに必要な統合性が生じるのを、ことごとく阻害し新たな統合の組織化を迫るという点で、これは直接的に身体の問題でもある。
それを私らは、(後半において展開されるところの、鈴木一平が最近試行錯誤している)ルビ詩に接するときの自らの身体の戸惑い、徹底した読めなさにおいて感じずにはいられないだろう。
詩集は三章で構成される。一章は散文と詩がいくつも見開きごとに隣り合わせに並ぶなかで同一の言葉が何度も多用される、貧しい言葉による抽象的な論理操作が何重にも行われる。その抽象度はそうとうなもので、ひとつひとつの言葉の使用方法が見開きごとに蓄積されていき、詩ひとつを独立しては決して読めない。過剰な重みが常に内に抱えられ、その重みを引きずりながら読むことになる。さらにそれは、右ページと左ページのあいだの書き直し過程が把握されたとき、その把握はそれまで私が引きずっていた読みにおける過剰な重みと同一の思考運動であったと知らされずにはいられない。そして二章においてそれは抽象から一気に具体的な言語使用へとねじこまれる。日記とそれをもとにした(その日記の日々を体験した私によって作られたであろう)俳句が上下で接続される。
その組みが6つずつ見開きに並ぶ。そこで私は韻文と散文の変換方法を学びながら、友人の死や夢の日々を言語化し並べる技術を得ようとする。一章での抽象化された言語使用方法を用いて。そして三章、俳句日記からはじまりつつ、詩へ、そして仲間内では「ルビ詩」と呼ばれていたものが並びはじめる。音と文字、改行と接続、言葉を読み理解するということが、ほとんど知覚のレベルで妨げられる。異様な読めなさが私に迫る。それは、「私の知覚以外で世界を知覚できるか」という問題に対して、複数の両立不可能な論理を持った私同士の対話という、小説の手立てとは別の、詩にしかありえない、「私が私として知覚すること自体の内部で生じるほつれとそこから立ち上がる新たな知覚可能性」を私に感覚的に示す。ほとんど動揺するこわさがある。
これが、私において死者を思考すること、私が私でありながら別の私と思考すること、その限りない繊細さに関する技術へとつながる。ここにはさらに、改行の技術や、行またぎの読みの論理の操作、タイトルによるテクストの収束と開放がある、そこまではぼくはまだ理解しきれてない。
長く言ったけれど……基本は嫉妬というか、ぼくはどう小説を書こうかという気持ちですが……11月10日まで予約を受け付けております。送料無料、新作詩、著者署名、先行送付など特典あります、もちろん11月23日の発売後も、どうぞお読みいただければ、そして議論していただければ。
http://inunosenakaza.com/hai_to_ie.html

「神さまのところに血のついた矢がもどってきたの、なんじゃこりゃあと思ってよく見たら、自分たちのつかわしたキジの血がついてたのね」

手塚夏子さんのトレースに関するワークショップに参加した際に作成した、10秒ほどの動きと発話の描写です。

http://www.bonus.dance/creation/35/

細かく記述するなかで体の節々のつながりがばらばらになる感じがして居心地が悪くなって呼吸がうまくできなくなっておしっこにいきたくなったこと、とても何気ない発話(言語)と身振りがおそらく本人も知らないだろう細部で連動してしまっているように感じられはじめたこと、その連動を軸にもういちど描写を組み立てることでなにかものまねの「本当らしさ」に近づける気がしたこと、こうした描写は小説においてはどちらかというと風景描写よりも語りの作成に近いだろうこと、とかを、考えました。特に、発話と身振り、身振りと(別の部位の)身振り、の間の連動のありようが、記述すればするほど見えてきてしまうことに、ありふれた話ではあるのだろうけれど、ショックを受けた。

 

 

基本の姿勢

椅子に座る。背もたれに軽くもたれかかるような感じで、終始全身の力が抜け、リラックスしている。ひざとひざのあいだは少しあけ、両足はつまさきで地面と接する。両足が地面と接する位置を、体の軸から見てすこし左にずらす。さらに、ひざを曲げて、椅子の座面をはさむようなかたちにして、両足と地面の接する位置を、あまりつらくない程度に座面の下にまでずらす。その状態で、左足のかかとを右足のつちふまずにくっつける。そのとき左足だけ、つま先だけでなく足指のつけねの部分でも地面で接するようにして、やはり体勢としてつらくないように、体の重心を背中にかける(つま先で体を支えようとしない)。
両手は、ともに、左手は左太ももの、右手は右太ももの、それぞれ付け根を手のひらで包むように、置く。右手は、薬指と小指が離れるかたちで伸び、それぞれ太ももを、指の側面で触っている。小指の方がまっすぐのび、薬指はすこしまがっている。中指と人差し指は、かるく握られている。その握られた人差し指の第二関節の上に、左手の親指がのせられる。右手の中指と人差し指が曲がったスペースに、親指以外の四本が並んでいる。
視線は、正面やや下、曲がった膝よりも15センチほど奥を見ている。
右手前方に、自分の言葉と身振りで説明する相手が、座っているのではなく立っている。今はまだそちらを見ないが、このあとは、たまにそちらを見上げながら、話す。

 

動き
以下、「神さまのところに血のついた矢がもどってきたの、なんじゃこりゃあと思ってよく見たら、自分たちのつかわしたキジの血がついてたのね」
まず、「かみさまのところに」と言いながら、両手ともに、親指の先を、中指の先と人差し指の先のあいだにくっつけ、輪をつくる。そうしてできたふたつの輪を、両手同士の指先でさらにくっつけ、八の字にする。3回ほど、それぞれのゆびさきがこちょこちょと動かされる。
次に「ちのついた」と言いながら、右肘の高さをほとんど動かさずに、ひじを、無理せずまげられるところまでまっすぐ、地面と垂直に手が挙がるようにまげる。「た」のところで、曲げはとまる。このとき、上昇してくる右手は、さっきまでの輪を維持しつつ、親指の先だけが、人差し指の側面、第一関節のあたりにまでずれ、単なる輪っかから、なにか棒のようなものを握っているようなかたちになる。手首はすこしだらんとしている。右手が上昇するとき、視界のなかへ右手が入り込んでくるかたちになる。腹のあたりまで右手があがったとき、右手に視線が紐付けられ、視線はそのまま右手を見つめながら上昇する。右手があがりきったときに、視線もあがりきり、右手の向こう側にいる話し相手の顔に、視線が向かう。左手は、右手に離れられたことで、右手と人差し指と中指の輪も解かれ、親指の先が、人差し指の第二関節、その曲がる内側にそえられる。ここまでが、「ちのついた」。
次に、「やが」と言いながら、右手で、十五センチ下あたりの空中を上からノックするように、手の甲をだらんと落とす。落としながら、頭は左にすこし傾ける。
さらに続けて「もどって」と言いながら、落とした右手をふたたびもとの高さにまであげる。
次に、「きたの」と言いながら、右手は「き」と「た」のタイミングで合計2回、今度はすぐ下あたりの空間を叩く。「き」よりも「た」の方がほんのすこし低い、左側のところを叩く。そして「の」のところで、すこし体の手前へ引きつけながら、軽く握られた手のひらの内側が自分に見えるような角度、つまり親指と人差指のつくる輪を、話している相手にすこし見せるような角度で、止まる。また、左手は、「き」と発音されるタイミングで、左手の人差し指が、すこし伸びて、ゆるくなにかを指差しているようになる。ここまでが、「やがもどってきたの」。
その時点で、1秒黙る。そのあいだ、右手の人差指の、第二関節が、すこし手の甲のほうへ動く。
次に、「なんじゃ」と言いながら、右手は15センチほど上、話している相手の顔と自分の顔のあいだにくるような高さまで持ち上げられるのだが、そのとき手首は、親指と人差指のつくる輪が天井をむくように、少し左回転させられる。右手が上昇するにつれて、頭が、左に傾いていたのをまっすぐにもどされる。右手が上昇しきるのと、頭がまっすぐにもどりきるのが同時。
「こりゃあ」と言いながら、右手にできている輪を、自分の顔の方に向けるよう手首をさらに回転させる。
そして、「と思って」と言いながら、右手は、ストンと右太ももの上に落ちていって、跳ね、ふとももの付け根にそえられたままの左手のそば、左手よりもお腹から離れた膝側に着地する。その瞬間、すこし伸びていた左手の人差し指が、ほんのすこし曲がり、中指など他の指の位置に近づく。でも、親指と人差指が輪を作るところまでは曲がらず、お互いの指先はひらいたまま。かわりに中指の先が、親指の先とくっつき、輪をつくる。中指の先は、親指の腹を、指先から第一関節までさするように、しばらく往復している。このとき、中指だけが曲がり、人差し指は曲がらない。ここまでが、「なんじゃこりゃあと思って」。
次に、「よく見たら」といい始めながら、右手がふたたび持ち上がろうとする。すぐに視線が、立っている相手の顔から離れ、自分の右手に移る。右手は胸のあたりまで上がる。上がりきると同時に、親指の先が人差し指の第二関節側面にまでスライドし、右手にできた輪は消える。視線は親指の爪を見つめ、親指の爪と見つめ合うようになる。
次に右手は、「自分」と言いながら、手の甲が上に来るようにすこしまたひねりながら、みぞおちのあたりの高さ、十五センチほど胴体から離れた空中をたたく。その振り下ろしの反動を受けるように頭はすこし後ろに反り、左手は、中指が親指からはなれて大きく手の甲の側へ引っ張られ、それにつられて親指以外の指もすこしだけひっぱられ、結果として左手の手のひらが軽く開く。
そして「たちの」と言いながら、右手は、ふたたび親指を天に向けるように右回りにひねられつつ、もといたふとももの付け根の位置に着地する。視線も右手を見つめたままなので落ちるが、頭はすこし後ろに反ったまま。右手の着地したその瞬間、左手の手首が内側にまがり、中指を含め親指以外の四本もまた、内側にむけて曲がる。その曲がりにあわせるようにして、あるいは視線に遅れてついていくようにして、頭が手前にかたむき、顔がすこしうつむく。
次に、すぐに左手の手首は曲がった状態をやめ(曲げた反動で跳ね返るように)、「つかわした」といいながら、なにかを飛ばすようなスナップをきかせつつ、手首は伸びる。
さらに、「キジの」と言いながら、左手はすこし親指の爪を天へ向かせるように手首が左回りにひねられつつ、ふとももとふとももの間にできた空間へと左手は投げだされ、手首と太ももがぶつかることでとまる。その衝撃で、親指が人差し指の方へ落ち、人差し指の先と親指の先が、くっつく。このあいだ、右手は人差し指がすこし手の甲の側へ引っ張られるが、親指の先と人差し指の先はまだくっついたままでいる。
左手が、すこし親指と人差指を離しながら、手の甲の側へと手首が曲がり、右手と左手が同じ高さになる。この手首の曲がりにおくれてついていくように、左足のかかとが右足の裏から離れ、つま先も地面から離れる。この瞬間、「ちが」と言いはじめる。
左手の親指の先と人差指の先がふたたびくっつき、右手の親指人差し指の先とさらにくっつき、また8の字ができる。その8の字ができた瞬間にあわせて、左足裏の、親指の付け根にある大きな関節が、右足の親指の上にのる。その瞬間、「ついてたのね」と言いはじめる。左足のかかとが背後の方へ引きつつ、左足の親指が、右足親指を包むように降りる。「ついてたのね」の「ね」を発した瞬間、視線が、話している相手の顔の方を向く。ここまでが、「自分たちのつかわしたキジのちがついてたのね」。
右足親指を包むように降りた左足親指につられて、そのまま左足は右足をはうように右足からずり落ち、かかとだけがあがったまま床に着地する。左足のずり落ちにあわせて、右足は、足の指の腹で地面と接していたのが、左足によってすこし押され、小指と薬指が地面との間で内側に曲がり、右足は指の爪の側で地面と接するようになる。

空間〈内距離〉のモデル

333|いぬのせなか座

 ある身体の行為が、それを取り囲む単一の環境に還元されず、同時にその身体の履歴にもまた安易に還元されない、外部から見ればナイーブな〈自由〉の発露であるように感じられるとき、それをしかし外部から切り離された魂の、身体内部への埋め込みの根拠とはせず、あくまで魂は身体外の環境にこそ埋め込まれている(あるいは内部と外部の結合としてあらわれる)としたいなら、身体の発する〈自由〉な行為(外部環境に還元されないように思える行為)が、別の時空間に位置する別の環境から来るものだと考えることは可能だろう。つまり、ある身体内には、それを直接取り囲むものとは別の環境と接する回路が用意されており、〈自由〉な行為は、その回路を介して生じる複数の環境の掛け合わせとして観察されるものと考えられる。ただ、その際、環境と環境の掛け合わせが行われていることは外部から観測可能だが、そのふたつ(あるいはそれ以上)の環境間の距離は、身体内部に閉じた思考としてあるため、外部からは観察できない(それは相手がおなかに痛みを感じているのかどうかがその身振りからは確定できないのと近い)。
 言語表現における〈語り手〉の把握は、上記の文脈でいえば、テキスト内に〈自由〉=魂を見出すことと言い換えることができる。文ごとに知覚される言語表現主体を束ねるメディウムたる〈語り手〉は、「私」や「彼」や「たろうくん」といったような、比較的言語表現を担いやすいものを指し示す単語を中心に、テキスト上に磁場を作る(当然、「いす」や「ねこ」や「今日」や「痛い」といった単語もまた、用意された構造次第では、〈語り手〉として機能しうる)。〈語り手〉というコンポジションの法則を読みにおいて学び、駆使することで、人は、ある同一の文がテキスト内の別々の場所にあったとしても、それぞれの担いうる意味がまったく異なるという、ごく当たり前のケースを受け止め切ることができるし、ひとつのテキスト内ではっきりと矛盾した内容が記述されていたとしても、〈語り手〉の切り替えあるいは〈語り手〉それ自体がゆるやかに変容した結果として何気なく読み終えることが可能となる(そこでのゆるやかな変容はもちろん読み手のゆるやかな変容と対応する)。つまり、字義通りには受け止めきれない余剰がテキスト内に思考として生じてしまう。ゆえに〈語り手〉の把握は、ある身体が、その周囲にあるように見える環境に還元されないような行為をおこなっているとき、その内部に別の環境が掛けあわされている(ここに〈自由〉=魂がある)と感じるのに似ている。言語とはそもそもそれ自体、無数の記憶や環境の掛け合わせをそこにおいて生じさせる、ひとつの統合機関……編み物……身体としてある。
 その上で、その身体が位置付けられるところの空間が、活字の並びでしかない言語表現において立ち現れうるのはなぜなのか。言語表現における空間知覚は、風景を描写する中でその風景の内部に位置づけられる身体の履歴と位置と特性が〈語り手〉のそれとして、読みの傾向を作り出すなかで把握されるものであると同時に、なによりある〈語り手〉が、別の場所で立ち上げられた〈語り手〉と、たがいに交わらないまま衝突させられたときにこそ極端に露呈する。つまり魂と魂の衝突。二種類の〈環境の掛け合わせ方〉の掛け合わせ……そこで空間は、単にある視点から遠近法的にひとつの環境を観測することで把握される静的なものとしてではなく、環境を統制する視点において、別の視点がこちらの内部を行き交う、その行き交い可能な行為の幅として、私というものが、立体視のようなかたちで、事後的に思い出されるものだと感じられる。複数の〈語り手〉のかけあわせとして立ち上がる空間が重要なのは、それが、複数の環境のかけあわせによって生じる〈語り手〉それ自体の内的距離を、外的距離へと反転させたものとして――あるいは逆に、〈自由〉=魂を、外的距離が内的距離へと反転したものとして考える要因として――思考可能であるためだ。そのとき私は複数の距離の折りたたまれた空間として感じられる。きのうの私の次に今日の私が来て、その次に明日の私が来る、その執拗な連鎖の法則を……あるいは遠くにある窪地を見ながら私は平坦なここにいる、そのときの窪地に感じられる生々しいへこみを……別の魂をもった私との共同思考の素材とすること。これは、ホラー映画において、現実とは別の、幽霊個々人の所属する因果律が、幽霊ごとにばらばらに立ち上がり空間内にうろつきさまようが、同時にそれはそれらを知覚しているカメラあるいは登場人物の内部で生じている事態でもある(空間の性質がゆらいでいるのと同様に私が私であることがゆらいでいる)ことと、いくらか重ねて捉えられる。私が私であることへの思考と、国家が国家であることへの思考が、編み込まれるプロセスにこそ、幽霊(根本的に矛盾した空間同士の近接配置)は蔓延る。
 外部の距離を、内部の距離として扱い、さらにそれが外部の距離の複数性を準備する……この事態を実際の素材をもとに考えるために、言語的な空間性を、ある環境内に視覚情報として露出させてみる。3台のスマートフォンを用意し、そのうち2台が、互いにビデオ通話を行うことで、自らの撮影する空間を相手の画面に向けて伝達、上映する。あるスマートフォンに備え付けられているカメラレンズと画面は、いつもならその端末内部で自己完結している(画面はそれの属する端末の自己表出としてある)が、そのような事前の習慣が、奇妙にねじられるけれども消去されきることはなく絶えずつきまとうため、あるカメラが向けられている先の空間と、そのカメラの画面があらわす映像内の空間が、まったく時空間を別としているようであっても、ひとつの端末内部の事態として常識通りに処理されてしまったとき、端末間の関係が、単一端末独自の抵抗(魂?)として、錯覚される。外的距離が、内的距離へと反転する。
 さらにそうした様を、残り1台で撮影してみる。このとき撮影している様子もまた、その端末の画面にリアルタイムで表示されているため、それをまた2台のカメラのいずれかが撮影することで、結果として手元に残る映像のなかには、それを撮影しつつ自己表出している画面の運動が、指示されることになる。自己表出と指示表出が相互に入れ替わり横転する(これは語る私が語られる私としてテキスト内にリテラルに表示されがちな言語表現においてはありふれた状況である)。加えてここへ持ち込まれる鏡面は、ある空間把握の論理のなかの前後関係を反転させることで把握可能なもうひとつの空間をつくるとともに、2台のスマートフォンが行う映像交換が、前後とは別の何かを反転させる鏡面として機能していることを強調する。また、そもそもスマートフォンの画面それ自体も、撮影しているカメラのレンズと作り出す角度がある一定値を超えたとき、上映画面としての自己表出をやめ、単なる鏡面として像を映すことや(そのときあらわれる空間は、撮影されている端末の自己表出としてではなく、撮影している端末の自己表出としてあらわれる)、反転されたふたつの空間が、鏡面へのカメラの接近によってその区分を見失い、ひとつの空間としてあらわれながら、しかしその物質的性質は失われず、鏡面の上にスマートフォンを置くことができる(その鏡面自体が視点の立つ座標として把握可能である)、といったことなども、ある。
 とはいえここまでは、とても常識的な混乱のあり方とも言える。問題は、そうして立ち上がる空間(言い換えれば、この映像はある座標に立つものが捉えた自己表出として把握可能である、という論理が、内側で増幅させられて奇形化した結果得られる、因果律の掛け合わせ)の内部で、身体たち(彼らは、自分の持つ端末の画面に表示されている、別の端末の映像を大きな拠り所としながら、同時に別の身体がどのような位置で何をしているかをも把握しつつ、自分の端末を動かしていくことを求められるわけだが、そもそもこれら身体こそが外部環境を知覚し自己表出として行為を行っている端末であり、逆に言えばスマートフォンはそれぞれ自己表出を行う身体として錯覚させられるものだった)が、どのように動き、行き交えるのか、あるいは行き交うことでなにが生じ、どのような転用可能性が開けるのか、だ。そしてなにより、こうして即物的に露呈した空間が、再度個々の身体の内部に反転していくさまを、言語の空間性のモデルとして使用可能だろうか。それらを議論の焦点のひとつとする座談会4(それ自体、複数の空間を立ち上げながら別の空間に自らを介入させていく、ということが可能であるような空間=幽霊の蔓延る場の制作でもある)に向けた、ひとつの素材を得るための、練習として……。

 


練習1


練習2


練習3