2017_09_15

世間?があんまりにもわかってないし友人の優れた書き手が評価されず他の表現形式とも繋がらず消えていく感があったし新人賞とか既得権益との運任せ勝負みたいでわけわからんくて批評書き始めた感もいろんな理由のうちの微かな1つとしてあった気もするけどまあもうその役目は6割終わったという気持ち。

いったん批評を書くことで、小説では突破できなかった圧の域を超えでることを目指したところはあったけど それはもう文体レベルで解消されたと感じる 小説の文体、と一般に言われているものは、語りにおける虚構の力が強すぎるところがある 当然場合によるし、一度突破すると小説は圧倒的に強いが。

なんでも書けるはずがないのに小説は中途半端になんでも書けるようになりすぎで、それは書き直しを強いてくる文章相互間の圧に関係してくる し、さらにいえば〈私が私であること〉と〈思考における論理〉や〈論理そのものへの信じ〉とのあいだの関係にも関わる、という感は少なからずある。

テキストを共同制作するときや強力に圧のかかった身近な文章へと草稿を書き直しているときの、わけのわからん地獄のような書き直し過程は、16.17.18のころは、自らの感覚と言葉の音(リズム)によって行われていた。けど、19.20.21になって語りと世界の地と文法(身体)の組み換え可能性を強く意識するようになった時に、書き直しの地獄さを強いる何かがいったん自分の中で相対的に薄れてしまった感がある それは、感覚や音・リズムに由来した書き直しが、人にほとんど伝わらないような(物語性のない?)テキストを自らが作ることへの意識に由来してもいた。

あるいみ「人に伝わるものを書こう」という意識は強迫観念めいて19.20.21の自分にあった それはベタに読み手の確保などにも関係していたが、人間が読み書くことそのものへの介入がいかに可能か、小説という一定量のテキストを持続的に読み書くとはどういうことか、現実とは何か、という問いこそが根幹であった ゆえに異様なテキストであるにもかかわらず比喩ではなく一種の現実の記述として読めるSFのテキストに惹かれたことがあった。

そしてぐるっとまわって、批評を一度書くことが、音や言葉のリズムに代わる書き直しの地獄さのトリガーを獲得することとして立ち上がり、さらにそれは共同でテキストを書くことや人間にとっての論理の問題や、さらにはくるりとまわってあらためて音やリズムの問題を引き連れてきた。

そうして今あらためて詩や小説を書くとはどういうことかを考えたい。が、ゆっくりだろう。

(※ポップさや読みやすさ、を、簡単に語り、それに対抗するものとして難解さや(ひどい意味での)詩的さ、を置くことは、軸のレベルで弱いし、読み書く私の問題がそこに絡まずテキストのレベルだけでどうこうなると考えることも、また弱い。し、自分がそれであることに気づかない人もいる感がある 知らん)

2017_6_23-25

一昨日、ステム・メタフィジック研究会 ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』を一冊ぜんぶ、やる時間 大変ありがたいというしかない時間で終始頭が沸いていた ひとりでは不可能な方々のつながり方、さらに自分の手元の問題意識や微かな技術と密着する手立てが見つかる慄きがあった 打ち上げでの上妻さんの、使えるか使えないか、という考え方に共感した などなど……

朝、家に帰って、昨日夜、いぬのせなか座の次号のための座談会の1つ(政治、場所、ホラー、詩)について話し合い 幽霊のオブジェクト性や貞久秀紀についてなど(も) その流れで『ほんとにあった! 呪いのビデオ』51を見る。かなりよいもの多かった。
以下、粗いままメモとして並べておく。(こういうときTwitterでは長くなりすぎるから、自分はこうしてほとんど更新しないがいつまでもブログを持ち続けているのかと思う)

 

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 『ほんとにあった! 呪いのビデオ』51

「空中楼閣」は、山奥のありえない高さに、明るい窓があらわれる。貸別荘のノートに子どもの筆跡で書かれた地図→窓のなかで手を振る子どもと親の影→そこで殺され遺棄されたという子ども、という連鎖には個人の目的がほとんどない。ありえない場所同士の隣接関係。それをゆるく繋ぎ記述する霊と観察者。

「溶怪」は、アップにされた顔の不気味さとそれがただ溶けていく時間がよい、そのよさは撮影者の不在(携帯電話に勝手に入っていた)に大きく依る。「中古ビデオ」や「井戸」など、映像そのものが呪いを具現化するという正当な「呪いのビデオ」的あり方。徹底すると『POV〜呪われたフィルム』になる。

徹底すると、というか、モンタージュや撮影主体が人間の身体に依存しなくなる過程を、『POV〜呪われたフィルム』は、疑似ドキュメンタリーの、撮影者が物語内に人物として位置づけられる状態から、丁寧にカメラと場所関係を増やしていき、結果としてカメラだけが自律する過程を描いている。

カメラだけが自律してあるというと、監視カメラ系は根本的にそういうものだ、が、ちょっと違うのは、カメラが幽霊を外から眺めているか、それともカメラそのものを幽霊が所有するか、だ。ただそこに写ってしまう、というのは、「呪いのビデオ」ではない。カメラは幽霊から切り離されている。
例えば「ベッドの下 開かずの部屋」では、ベッドの下にカメラを置いておくと写ったもの、とされるが、幽霊が最後、カメラに迫ってきてカメラが倒れる。ここではカメラは幽霊と切り離されているがゆえに攻撃される。ふたつは所有関係にない。

一方、「シリーズ監視カメラ 古本屋」は、ブックオフ的な場所に急に後ろ歩きで和服の女の人があらわれる、それをふたつの監視カメラが別角度から捉えるが、どちらにおいても後ろ姿が見えてしまう。これは噂には聞いてたけどかなりよい。こうすることで監視カメラも「呪いのビデオ」化する感覚があった。

ふつう幽霊は、それを見るものの内部が外部環境に投影されるかたちであらわれる。幽霊はそれを見ている人に取り憑くことで、見られ、現れる。「一緒に見ていた」(『鬼談百景』)でも、教師がグラウンドを見るその場所に幽霊が立つ。あちらを見ればあちらにいるし、こちらを見ればこちらにいる。飛蚊症みたいなもので、幽霊の位置は見るものによって変わる。
ここから「一緒に見ていた」では、「私が教室の窓からグラウンドを見おろす→霊がいる→見るたび場所が変わる→後ろを振り向く→霊がいる→いなくなる→グラウンドにまたいる→遊んでる学生が霊にぶつかってなんだこいつって感じになる→私の背中に霊が張り付く→肩に手をかけられしばらく霊とふたりでグラウンドを見る」という流れをたどることで、霊が環境への私の内部の投影というものから、複数のエージェントに接触可能なオブジェクト性を帯びて存在するものとなり、その上で、私は霊と視線を共有し、環境を見つめることになる。私が所有していた霊は、私を所有する。そのために、私とは違うパースペクティヴが、霊と学生との物理的接触というかたちで導入される必要があった。
もうすこし細かく。最初、私のパースペクティヴに依存していた霊は、見るたびに異なる場所に存在するものだった、けど、それは自律できていなくて、あちらに立つ霊とこちらに立つ霊、は、それを見る私の持続のあり方をなぞるばかりだった。霊が偏在しているとしたら、それは、私の持続が偏在しているからである。
しかしここで、学生が霊にぶつかる。霊が、私とは異なるパースペクティヴから知覚され、複数のパースペクティヴを束ねるオブジェクトと化す。それまで霊を束ねていた「私」という同一性から、霊が別の同一性を確保し、自律した。結果、次のシーンで、私の身体が霊の身体にぶつかることになる。私は肩に手をかけられ、霊とふたりで、先ほどから霊があらわれていた(私が見つめ、霊をそこへ投影していた)空間=グラウンドを見つめる。
私と霊は、対等に視線を奪い合う関係となり、さらには私の同一性(複数のパースペクティヴを束ねる私のありよう)が、私の背後にいる霊に包摂されるまでに至る。グラウンドを見下ろす私のパースペクティヴが、幽霊に奪われる。私が見る場所に幽霊がいる(どこを見るかは私の自由であり、さらに方方にあらわれる幽霊の偏在のじくざくを統合するのも私である)という状態から、見るということ自体が幽霊に所有され、私がその媒体となるような状態への、移行。
このとき、グラウンドには、幽霊が存在する必要はもうない。ただ見るだけでいい。風景、世界、地が、それ自体、幽霊化する。幽霊によって、複数の私のパースペクティヴが編集される。新たなモンタージュ。これが、「呪いのビデオ」化、私と世界の再編成である。

こうしてようやく「シリーズ監視カメラ 古本屋」にもどると、そこでは複数のカメラが、同じ幽霊の背中を捉えていた。通常の時空間だとそれはありえない。異なるパースペクティヴから見れば、見えはそれぞれの位置からのものになるだろうから。逆に言えば、このとき、どこから見ても同じ背中を見せる幽霊は、ふたつの異なるパースペクティヴを、束ねるための論理として働いている。
そして重要なのは、幽霊のいる古本屋の空間が、カメラの位置に応じて見えを変えているという当たり前のことが、上記の事態の背景に貼り付いているということだ。もし古本屋の空間が、幽霊の見え(背中)に引きづられていたなら、映像は、ただ単に、同じひとつのパースペクティヴからの眺めとしか知覚できなくなる。幽霊は、古本屋の空間から自律している。むしろ、2台のカメラの側が、古本屋の空間に依存し、お互いを分離している。パースペクティヴは環境に埋め込まれることで互いを分離し、霊はそれらを、同時性のもとで統合することで、環境から自律する。
そしてそれは、霊が、2台のカメラの映像を交互に見る視聴者の鏡像でもあることを示している。ここにいながら、こことは別の環境からの刺激に反応し、思考・行動しうること。異なる時空間・環境を配列・レイアウトする、新たな同時性・隣接性の論理としての魂。

背中を見せ続ける霊を経て、霊がいなくなった古本屋の映像がふたたびしばらく映るとき、映像のなかに霊が写っていなくても、2台のカメラの映像を交互に見るこの私の内部に、霊の論理は埋め込まれている。環境から自律しつつ、しかし環境の配列・レイアウトに依存して自らの「束ね」性を表出してもいる。霊自身が所有する時空間の自己表出=「呪いのビデオ」は、人間とは別の魂を「私」に宿らせ、新たな時空間・環境の配列・レイアウトの論理を制作する過程(修行?)としてある。

(追記、よく考えるとこの古本屋の霊は、クザーヌス『神を観ることについて』で語られている、どこから見てもこちらを見ているようにみえる神の像、と同じ構造かもしれない。つまりその先にあるのは、神は私という個別なものだけを見つめながら、同時に世界すべてを見ており、私は神の類似であり、しかし神から自律して自由を持っている、というような、ひたすらに矛盾が矛盾なまま同居した状態だ。私は私という個別のパースペクティブにいながら、同時に神という、全体のパースペクティブともつながっている、その関係。となると重要なのはやはり、「汝は汝のものとなるべし、そうすれば私さえも汝のものとなる」という神の言葉か。

以下、大江論(いぬのせなか座1号)の註より。

クザーヌスは、神が《あらゆる願望において願望されるあの真理》となる根拠として、人間に対する神の把握不可能性をあげる。《もしも眼差しが視覚によって満たされることなく、耳が聴覚によって満たされることがないのであれば、知性は知性認識によってはもっと少なくしか満たされないのだからです。それゆえに、知性を満足させて、それの〈目的〉となるものは、知性が知性認識するものではありません。しかし、また、知性が全く知性認識することのないものも知性を満足させることはできません。ただ、知性が知性認識としてではなく〔何らかの精神的な引き上げにおいて〕洞察するものだけが、知性を満足させることができるのです。つまり、知性が認識する知性的なものが知性を満足させることはなく、知性が全く認識することのない知性的なものもそれを満足させることはなく、むしろ、十分に知性認識されることはとうてい不可能であるほどに知性的であると知性自身が知るもの、これのみが知性を満足させることができるのです。それは、ちょうど、次のことと同様です。すなわち、飽くことなき飢えをもっている者を満足させるものは、彼が一口で呑み込むことができるようなわずかな糧ではなく、また、彼の手が届かないような糧でもなく、彼の手が届くものであって、かつ、たえず呑み込んでも決して呑み込み尽くされることがない糧だけです。このような糧は、呑み込まれても減るということがなく、つまり無限であるのだからです。》行為にともなう時間経過をはらんだ無限の把握不可能性。神はそこで、《無量で無尽蔵な宝庫》となる。それは、先に触れた「汝は汝のものとなるべし」という言葉の直後に、クザーヌスが《あたかも自分自身の贈りものであり、あらゆる希求に価するものが納められている無限の宝庫であるかのようにして》神を享受するのだと語っていたことからも明らかなように、私による神の所有と矛盾しない。《あなたの偉大さについてのこの最も聖なる無知は、私の知性が最も強く求めている糧なのであり、もし私が自分の耕地にこのような宝庫を見出したならば、直ちにこの宝庫を自分のものにしてしまいたいほどのものなのです。

 おお、豊かさの源よ、あなたは、私の所有によって把握されることを望みつつ、同時に把握されえない無限なものとしてとどまることを望んでいます。》そして、この所有が、私による類似の創造を通して浮き彫りとなる自己愛を拠り所としているのである。《われわれは、自己の存在を分有しそれに附随しているものを愛するのであり、われわれの類似を大事にするのです。なぜならば、われわれは或る像において自己が表現されるならば、われわれはそれにおいて自己自身を愛するのだからです。〔…〕私によって創造されたように思われる類似が、実は私を創造する真理であり、その結果、少なくとも、どれほど堅固に私があなたに結び付けられるべきかを私は理解することになるのです。なぜならば、あなたにおいては愛されることが愛することに一致するからです。つまり、もし私の類似としてのあなたにおいて、私が私自身を愛さねばならないのであれば、あなたが私をあなたの創造物であり似像として愛して下さるのを観て、私は愛することに大いに結び付けられるのだからです。》こうして、知性によっていつかは把握されることが示されつつもその行為の無限性において把握され切ることのないなにかに対する知性の営みが、私による私に類似した私の制作となり、それがさらに自己愛において逆流し、私という構造そのものの制作へと、まるで円環を築くようにつながることが明らかになる。

 

また、これは大江論でもとりあげたしいぬのせなか座1号の扉ページに一部改変して引用したりもしたが、荒川+ギンズ『意味のメカニズム』でも次のような点をめぐる話があった。

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ギンズの荒川論には、複数の矛盾した知覚をレイアウトする絵画を軸とした共同制作の議論があるけれど、それは今すぐには出てこないし、話が錯綜しすぎる。)

 

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ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』は、フィリップ・デスコラによる四分類をベースにしているが、そのなかでも特にアニミズムとアナロジズムの関係が気になった。

アニミズムは、《あらゆる存在のうちに同一の魂が見出されるが、それらはめいめい独自の身体を纏っている》という考え方で、アナロジズムは《実在するものはすべて異なっており》、《無秩序で離散的なもののうちに可能な関係を発見することに、精根を傾け》る考え方とされる。分類としては、アニミズムは、自然が一つで魂が複数というナチュラリズムの考え方と、アナロジズムは人間同士の相違や関係を動植物の相違から理解するトーテミズムの考え方と、それぞれ対応するかたちで定義されるけれど、議論が進むなかで4つは混淆するように用いられていく。

トーテミスト的な構成要素は分類のための諸方法に霊感(インスピレーション)を与えるし、アニミスト的な構成要素は、進化や「大いなる物語」へと駆り立てるし、ナチュラリスト的な構成要素は、主体による対象の認識に必要なものを整えるし、アナロジスト的な構成要素は、とてつもない相違を微細な類似性によって絶えず架橋することになる。

この4つの分類が混淆することではじめて記述可能(思考可能?)になる領域が出て来る感じが、読んでいてとてつもないのだけれど、そのなかでも特にアニミズムとアナロジズムに関してメモしておきたい。

まずアニミズムについて、

私たち異類、アニミスト人間は、われわれを観察する民俗学者たちがいうには、生物たち、植物や動物たち、さらには生命がないと言われる事物までもが、私たちと同じ魂を持っており、同じ内面性、同じ習慣や文化、意図や感情を持っているところで生きている。私たちを唯一区別しているもの――それはもろもろの身体(Corps)であり、その分厚い球体が私たちを隔てているので、他者についての私たちの知覚は、それによって影響を受けるのだ。私の身体が私に垣間見させるのが、人間の魂を授かった狼や犬や魚なのだとすると、それら三つの動物は、私をどのように見るのだろうか?――人として見るのか、魚として見るのか? それはアニミストたちの文化による、と学者たちは語る。それらの文化が、それによって身体を具体化し、物質化し、重みを持たせ、詳述する文脈(Intensité)によるのだと。

動物と人間は、異なる身体を持っているが、同一の魂を持ち、お互いを自分のパースペクティヴから見ている。これは言い方を変えれば、身体さえ変われば、人間は狼や犬や魚と区別がつかなくなるということでもある。ゆえにアニミズムは、《変身(メタモルフォーズ)なくしてはあり得ない》ものとされる。《おのおのの身体が結局のところ衣装であるなら、衣服を取り替えるついでに裸体性、魂を垣間見ることもできるし、他のものたちが自分や私たちを、正確にはどう見ているかも垣間見ることができる》。
ここまででもすごくおもしろいのだけれど、セールはさらにここから、プルーストについて語る。人びとは、プルーストによる記述(有名なマドレーヌや紅茶のくだり)について、《それを素朴にも、鐘の音で餌を思いだして犬がよだれを垂らす、パブロフの実験のような粗雑な経験だと思ってしまう。そこで本当に失われているのは何だったのだろうか?》そうしてセールは以下のプルーストによるテクストを引用する。

私は、失われてしまった者たちの魂が、何か下位のもの、動物や、植物や、動かざるもののなかに囚われていると考える、ケルト人の信仰をしごくもっともだと思う。それらは、私たちがその樹のそばを通りかかったり、彼らが囚われているものを手に入れたりする、滅多にはない日がくるまで、実際に失われている。その時、それらは身ぶるいし、私たちに呼びかける。するとたちまち私たちはそれらに気がつき、魔法がとける。私たちによって解放され、それらは死に打ち克ち、戻ってきて私たちとともに暮らすのだ。

これに対してセールは言う、

水薬から雲がただよってくる。これが、古代ケルト人たちが崇拝していた種類の、動かざる物の魂なのである。作家が探し求める失われた時は、おそらく幼少期のものだ。――しかし、彼はそこにもっと隠れた時代のものを見出しており、それが失われ、囚われている場所すら明言しているのである。記憶の内部の暗い最深部に降りてゆき、語り手は奇妙で、奥深くに忘れられた、アニミスト的な諸文化に特有の行動やカテゴリーを再発見するのだ……

プルーストによる上記のテクストは、極めて言語表現的、特に小説的なスタンスだ。小説は常に自らを構成する多量の文章を束ねるものとして、語り手を立ち上げてしまう。「私」というものが、あまりに露骨に居座りつづける。だからこそ、記憶やポリフォニーが問題になるし、私小説的というものをどう扱うか(組み替えるか)が異様に重要になる。……という話は繰り返ししてきた、何を書いても並べても死なずに残り続ける強力な持続・統合機関としてのこの私をどうするか――それが、小説を制作する上でなにより根本的な問題としてある。その上であらためて考えると、プルーストのテクストは、私が私以外のものものに私を貸し与えるあり方としてまっとうすぎるくらいだ、私が私であるという強力な持続・統合の座を、事物に貸し与える営みとしての、小説。
プルーストの上記のテクストを、セールはアニミズムとして語っている。プルーストは身近なものばかりをひたすら書きながら、それが結果的に私と事物のあいだの変換可能性としての《アニミスト的な諸文化に特有の行動やカテゴリー》を探っているという。そのとき、この私がどうすればほかの私(犬、狼、魚、石)に使用可能な私になるか、の具体的操作法を考える上で、(全体がすべてひとつの魂にのまれていくような感覚から逃れつつというのであればなおさら)問題はやはり身体ではないかという気持ちが芽生える。魂を縛る身体をどう考えるか。私は、この身体から容易には逃れられない。セールもベルクソンの名を挙げながら言っていた、《あらゆる地域において、人々は身体(物体)が、連続的でより大きな魂を局限するものであると語っており、そのようなものとして生き、考えているからである。身体(物体)だけが、生命の持続に不連続性を刻むことができる。――ベルクソン自身が、そう語っているのだ。》

 

ここで、ようやく、アナロジズムについて。セールは、アニミズムとアナロジズムのあいだの関係を、メタモルフォーゼと所有−憑依の関係として記している。

メタモルフォーゼがアニミズムを特徴づけるのと同じように、それゆえ所有はアナロジズムを表す。私を構成する諸部分は、実際には私から離れ、広大な世界のうちをあちらこちらさまよっている。世界のもろもろの事物は、それ自体また、動き、旅をする諸部分によって構成されており、その諸部分はあちらこちらで、私も含めた他の人物や事物のうちに身を落ち着けることができるのだ。いわゆる悪魔的な憑依(Possesion,所有)の話をする前に、私たちはこうした構成と解体にもうしばらく注意を向けることにしよう。

私はこれらのばらばらな諸要素から作られており、私の人格はいわばその綜合だが、私に特に結びついた要素は何もない。それら諸要素のおのおのは、出たり入ったりできるし、おもむろに別の人間に入り込んで、そののち自分(モワ)というものを作り上げるのに役立ったりするのだ。メタモルフォーゼによってプロテウスは獅子に、豹に、猪や蛇に、菩提樹にすら変わり、水や風に変化する。所有(Possesion)は、一人の人間を解体し、他の諸要素によってふたたび作り上げる。そうした諸要素は、他者から、他者たちからやってくるのかも知れず、他者や他者たちに属したままなのかも知れないのである。

私は考える、ゆえに私は他者である。それが身体のうちに入り込むまで、この他者の周り、この他者の方に集中し、焦点を合わせること。まさしく狂気(Aliéné)である。なんということだ! 人は自分から外に出たものだけを創造する。もしそれが外に出たのなら、それはそこに入り込んでいたのでなければならない。私の魂が、あらゆる思考するものたちのなかで、幾つもの声で語ることができるのは、こんな風にしてなのだ!

私は考える、ゆえに私は彼らの思考である。私は彼らを愛する。彼らは私の招待客(オート)(Hôte)なのだ。――私にとり憑き、私を貪り、私の肌でふたたび温まる招待客なのである。それを望んでいたのは、私なのだろうか、彼らなのだろうか? そんなことはどうでもよく、彼らは私にとり憑いていたのだ。望まぬ者たちが、望まぬ者を受け入れた(Inviti invitum immiserunt)。

船乗りたちのメタモルフォーゼは、一対一である。――一人の人間が多数によってとり憑かれること。

外部の、事物たちの無限の多様性、その万華鏡とその諸関係の交錯するネットワークは、その叫びたてるカオス、無秩序−秩序を、主体の内面に投影する。この主体は、世界とまったく同じように、幻聴とバックグラウンド・ノイズの耳を聾するような混沌のとりこになっているのだ。
 わたしのうちには、無数の思考が蠢いている。

私のもろもろの断片からは、駆ける群れが外に出てくるのだ。

所有−憑依とメタモルフォーゼ。「私は考える、ゆえに私は他者である」という観点からだと、先のプルーストのテクストも、所有−憑依の問題として言えるような気がしてくる。ただ、問題はより複雑でなければならないのだろう。他者と私のあいだの関係ではなく、爆発的な蠢きのなかで沸々と私ないしはオブジェクト双方での「束ね」、持続、統合、が同時多発的に生じる。その収縮拡散の運動単位そのものを並べることによって見出されるレイアウトこそが、扱われなければならない。だからこそ、難しい。というのも制作は常にこの私を伴ってしまうから。いや、それを抜きにして、制作そのものを自律させることも考えられる。

話は逸れるがいぬのせなか座の鈴木一平とぼくとのあいだで常に議論になるのはそこだ。鈴木は、私をより分散していく方向へいくことを考える(ように、粗い話だが、ぼくは感じている)。作品に対して結果的に私の比重は低くなるように考えられる。このあいだ「抽象の力」展を見に行ったが岡崎乾二郎さんの言ってる職人についての話もそうだ、職人は自らの技術をうまく言語化できないが素材と接するなかで自然と高度な制作が可能になってしまっている、そこでは私というものはさほど重要ではなく、身体と素材のあいだの制作行為こそが重要で、それがほぼ自律している。一方ぼくは、私というものを抜きにして制作を語ることは常に不可能と思ってしまう。この私をどうするか、いかにこの私を使用するか、が、結局はどんなときも最大の問題になってしまう。
ただ、それらに違いはない、というところまで考えを進められる気が最近はずっとしている。小説よりかは、詩や演劇をベースにしてその考えが出てきている気がする。詩を私のレイアウトとして使用する方法をもっとしっかり理論化できないか。荒川+ギンズは、「私が私であること」のような、相容れないものをひとつに束ねてしまう作用をブランクと呼んだが(本当はもっと複雑な話)、それをさらに彼らはブランクスと複数形で度々呼んでいる。この複数を、どのように、この私が制作において実践するかが、大きな問いだ。アニミズムとアナロジズムがどう違うのか、その微妙なわかりづらさ(プルーストのテクストを、アナロジズムと呼んではいけないのか?)は、この私をどこまで引き摺るか、に関わるような気がする。いや、引き摺ってもいいのだが、よりメディウムの側で生じる魂のようなものを、過剰に用いて、この私を組み替えていき、組み替えた私同士をさらに並べる、その並べ方こそが前面化するようなものとして考える必要がある。
小説はその点では、あまりに長すぎる、かもしれない。よりシンプルに、レイアウトの論理をスパッといくつも提示していく必要がある気がしている。これは、それこそ、より複数人で同時にばらばらに使用可能な「「私」のレイアウトの論理」の提示、だ。プロトタイプ? 俳句の切れの問題や、改行詩の問題、藤井貞和の『自由詩学』の議論などを思うと、ぼくはまだ詩についてきちんと理論を提示しきれていないと感じる。

(ここまで考えて、クザーヌス『神を観ることについて』における、この私だけを見つめながらすべてを見つめている神と私のあいだの関係、を思い出した あれを、今考えるとどうなのだろう?)

 

以下の、「共に−揺れ動く(Co-agitation)」あり方は、限りなく魅力的だ。

思考(Cogitatio)とは、実際のところ共に−揺れ動く(Co-agitation)ことでないとしたら、一体何であろうか? 何千もの数の羊の群れの目も眩むような無秩序を、一人の羊飼いが、彼だけで支配したり導いたりできないし、動かす(agere)こともできないというのだろうか? このラテン語は、実際に動物たちを導くことを指しており、それらが他の多くの動物たちと集められるので、動揺(Agitation)が生じ……そのため管理(gerer)するのは難儀なのだ。そう、思考は私の生涯を通じて、絶え間なく私に、そのカオス的で、満ちあふれる、輝かしい、不調和なバックグラウンド・ノイズを……眩暈を与える。よろめき、つまずき、震えて、私はそれによって大地に倒れ、茫然とし、昏睡する。大河と乱流、歓喜よ。

(ここでやはり、大江『水死』における、語り手が別の身体へと移行するきっかけとしての大眩暈=詩の飛来、を思い出してしまう)

 

セールはアナロジズムをめぐって、構成、とたびたび言う。

これらの部族にとっては、物質的もしくは非物質的な、ばらばらで未規定なものの集まりがある。このような混乱のなかで生き残り、行動し、思考するために残されているのは、絶え間なく構成に努め、したがってそれらの差異を架橋するのに適した無数の関係を探し求めるという、骨の折れる義務である。

精神と感覚が、無数のばらばらな感覚を統一する、関係の組み合わせ模様のうちに運び込まれている。少なくとも詩人は、言葉と象徴を通じて、そこで私たちに構成物(Composition)としての、ある秩序を理解させようとしている。

アナロジストは、隔たった夜と光のただなかに諸関係を描きだす。彼は、まさに《混淆した(Confuses)言葉》のうちに《暗鬱な、深い統一》を探索する。『悪の華』のためにこの花束を作った者を、構成者(Compositeur)と呼ぼうではないか。

結局は、この、構成のありかたを模索することになる。重要なのは、中心のないネットワークみたいなものではなく、複数の私がそれぞれ固有な全体像を奪い合い、所有しあい、憑依しあうような、そういう状態を成立させる、共同性の論理を作ること。並置と、統合が、交互に折りたたまれたような作品を、論理として提示すること、か。
以下の箇所は、アナロジズムへの飛躍可能性のように、も、読めるかもしれない。

人が隣人を彼自身のように愛さねばならなくなっていらい、そしておのおのが自分自身の魂を救済しなければならなくなっていらい、みずからを見つめる真率な個人を描いた、聖パウロの自伝や聖アウグスティヌスの『告白』いらい……少しずつ、彼らの還元不可能な独自性が、全世界に満ちあふれるようになった。――それはアナロジスト的な文化のもう一つの名前である。そこではおのおのが決定し、みずからに配慮し、サバイバルし、みずからを救済し、自律的で、個性的で、異なっており、自由で……もろもろの特異性は、超越的な諸関係によって架橋されているのだ。聖人たちのコミュニオン……結局のところ、この宗教について、それが厳密な一神教であるのか、それとも本当の多神教なのか、誰が判断できるだろう? というのもそれは、同時に一であり三である三位一体を教えているのだから。

ここでの、三位一体の登場の仕方、に、なぜか異様な生々しさと自分にとっての迫りを感じてしまう。いぬのせなか座「座談会4」で、共同性について次のように書いた、《この私における技術の蓄積や歴史性や内省による思考の突破などを所有とは別のかたちで考えられないか。複数の身体の交感状態と、私が私であることにおける過剰さの、はざまを考えるときに、たとえば幼い頃の私を今の私と対等に見つめるように、風や波を私と対等に見つめ、それに反応して自らの現在の行為を形成していく。そうしたところで初めて、従属の問題は、なぜこの人に従属するのかというような、自由意志の問題から離れる。と同時にそれは魂や、私が私であることを否定するわけではない。
 外部の環境からは導かれない行為が、ある身体において生じたとき、それをブラックボックス的な心の問題に回収させず、あくまで行為は環境と身体の交わりにおいて生じると考えるのなら、その行為は、身体が目の前に物理的に属している環境とは別の環境に従属したと考えるべきである、といったアイデアを、「いぬのせなか座」2号の序文で飛躍とともに記しましたが、このレベルでの魂、自由を肯定するものとして、微細な主体たちの教育関係はある。私が過去の私の記憶に従って振る舞うように、相手の身振りにあわせて振る舞う。それは外部環境への即物的な反応であると同時に、身体における環境の掛け合わせの能力に従った自由な行為でもある。そこでようやく、誰かの指示に従う、振り付けられることを、奴隷的なものとしてではなく肯定する、ということが生じる。》還元不可能な独自性が満ちた世界において、ばらばらなまま、共同で制作するための、セールの言うところの超越的諸関係(ここで、諸、がついていることが希望だ)、それにこの私はどう寄与するだろう? この私は不要だ、厄介だ、とは言ってはいいが消去まではいきたくないしいくべきでない。
それで言うと、「この私」における「この」について、以下の箇所は根幹であるように思えてしまう。

事物は私たちのなかを循環し、私たちの家に住みついているだけではなく、私の身体を作るために私に潜り込んでいる。私の思考が、困難ではあっても、この時間の幅を理解するだけでなく、私の身体を作るために私に潜り込んでいる。私の思考が、困難ではあっても、この時間の幅を理解するだけでなく、私の身体は宇宙とともに生まれたこれらの構成要素によって形作られ、ゆっくりと偶然的に、われわれの惑星とともに構成され、生物たちの進化にも寄り添い、そこに根を張り、そこに生きているのだ。ここにあるのは細部が同時的(シンクロニック)な三つの記憶の場所である。私の環境は、私の身体を構成している事物たちによって構成される。――それらは、同じ年代に由来しているのだ。私はここにこそ、あたらしい環世界(Umwelt)を発見する。あるいは、もっと言えばここでは、世界−内−存在のハイフンが物質化されているのである。私はそこで存在が何なのか知らないし、私はそこで世界が何なのか知らないが、私の細部は、その諸関係を辿っている。途方もなく古いがしかしあたらしい、あらたな文化の身体はみずからのうちに、古くて途方もない(Formidablement,巨大な)世界を見出すのである。
 ブレーズ・パスカルを訂正しよう。――空間も時間も、肉体を飲み込んでしまうのではない。それらは肉体を探査し、形成するのであり、肉体はそれらを測り、それらを音節で区切る。このような持続を直観することが難しいので、しばしば途方に暮れてしまう私の思考にほとんど勝るくらい、そうしたことをやってのけるのだ。宇宙は私を粉々にする(écraser)のではなく、その細部のあるものたちが私を横断する(traverser)のである。逆に、私の何十年来の春は、これらの同じ客体的な細部に絡みあっており、そうしてそれらを特異化しつつ、主体化している。いわゆる非人間(ノン・ヒューマン)である古い自然の無数の細部を人間化することによって、この第五の文化はあたらしい人類再生(Hominescent)を生じさせるのだ。それは、自然契約を調印するのだろうか? それどころか、自然契約がおのずと受肉したのが人類再生なのだ。

ここにある、「同時的(シンクロニック)な三つの記憶の場所」、「世界−内−存在のハイフンの物質化」は、忘れられない。なによりここには、この私とこの身体を使用する根拠が記されているように感じる。この私とこの身体の、諸関係を、主体化し、それを用いて「非人間(ノン・ヒューマン)である古い自然の無数の細部を人間化する」。これが、「自然契約がおのずと受肉した人類再生」に繋がる。こうした、この私の心身への圧のかかり方、肯定、のためにアナロジズムやアニミズムがあったようにさえ思えてしまう。ほぼ誤読だろうが。

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ここから、貞久秀紀の最新詩集『具現』について考えたい。が、体力も時間も尽きたので、ひとまず引用だけをしておく。

「推移」
知らなければ瑠璃鶲だとわからなかった鳥が
細かなうごきで現われてきえた
この岸べにみずいろにうち寄せる
漣のゆるやかな音できこえてくる水のいろをみるまでは
想い起こすことのなかった藪なかの枝づたいにわたしが行き
ふだんとかわりなく前方をもつきょうの道に

 

「例示」
きょう、やぶ道をきてひとつの所に立ち
それがこの岩であるときはみえずにいる雲が
おなじ岩の台座から
きのうの曇りぞらにとりわけ陰がちにかたまり
光につよくふちどられて
山の真上のかぎりあるちぎれ雲のすがたにまで
高められ親しくながめられたことは
その日そこに湧きいでたただひとつのことがらとして
指折り数えることができる

 

「この岩を記念して」

この細道はいずれひとつの岩に当たり
岩がゆくてを塞ぎ
かたわらに迫る崖からゆるみでて
道に来ていた
それは近づくにつれはじめて目にうつり
すぐさまそれが前方に横たわる岩であることを
知らせるとともに
今しがた来たことの証しに土をつけているかのように
埋もれていたところに湿った土や
樹木の細く白い根が絡みついていた

 

ある日ひとりの口のきけない友が食卓について
食事をしていたとき
わたしがこの友といて食事をしていたように

このときもわたしはひとつの岩に近づき
そこからのぞむことのできる
岩のおおまかな姿をながめていたが
そのころ
わたしはこのうごかずに目の前にある岩にうでをのばし
土や根や
岩の外であるところから自然とそれに触れた


昨日も鈴木一平と話したが、貞久秀紀さんを分析する上で頻繁に口にされる(阿部嘉昭さんが提案したところの)「減喩」は、ある場所そのものを立ち上げる技術だ。「知らなければ瑠璃鶲だとわからなかった鳥」という言い方をすることで、あるいはひとつの詩まるごとを使ってその鳥がいた場所を、そこに至るまでの私と場の継起を記述した上で記すやりかたをとることで、「道に鳥がいた」という記述において生じる統合のあり方から、道と、鳥と、私を、それぞれ切り離し、その上でそれらを並べることに成功している。
「この岩を記念して」の岩もそうだが、こうした技術によって、物も生物も時間も、それぞれが固有の場所を持ち、それらが相互に入れ子になりながらレイアウトされている。そしてなによりこれは、散歩する私の身体的持続が素材となって制作されている。決して、単なるばらばらではないのだ。この私が、この環境を歩き、この岩に触れる。その貧しさが、決定的な世界の構成の論理を記している。ここからひとつの「私」をめぐる理論を、考えたい。当然それは、ホラー映画や政治について考えることでもある、と思える。
というような話を、7月17日には自分はするのではないか。

http://bigakko.jp/event/2017/inunosenakaza

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」に関する指示書拡張

いま山本現代で開催されている展覧会「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(2017年1月21日(土)〜2月25日(土) http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibitions)内、三野新ワークショップ「わたしであって、わたしでない観客の上演を実験する」で課題として作成した指示書です。赤字は、展覧会場で配布されているもともとの指示書。それを拡張するものとして以下があります。

指示書に従う者として飴屋法水さんが、指示書を読み上げる者として三野新さんが、それぞれ位置づけられた演劇的空間が考えられていました。「出演者は、飴屋法水さん一人とします」「出演者は、戯曲は話さない」「観客の注意や意識など、本来見えない(共有できない)ものと、動作の間が見せられるような演出にします」といったルールもありました。これらの下で、もともとあった指示書を最大限考慮に入れつつ、各自、1500字前後の上演台本を書く。そして、ワークショップ参加者のそれぞれの台本をひとつにまとめ、全体としての台本を作るというものでした。展覧会の終了にともない使用可能性も激減するだろうので、公開しておきます。

 

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メインルームに入ると、左手にあるテキストを読む。

 

⑤と⑥の作品と「制作者」として関係する。それぞれの作品のテキストを読む。

 

読み終わったら、階段を登り、⑤をもう一度見る。のぼりつつ、姿勢を低くして、画面のなかの、傾いた窓を、真下の道路からまっすぐ見上げているような視線を作ろうとしてみる。

 

しばらくすると画面のなかのカーテンから、手が、出てくる、あるいはもうすでに出てきている。その手の、カーテンから出てきては去り、という一連の動きを見るまで、じっと画面を見つめ続ける。手の動きをなるべく覚えてみようとする。ひととおり見たら、振り返り、⑥のなかの手を見つめる。

 

⑤と⑥の間で視線を往復させる。⑥のなかの手と、⑤の映像の中の手を、それぞれ同じものとして考えられるか試す。そのとき、自分の手を、道具として使うようにする。ゆっくりと手を挙げ、⑤と⑥のそれぞれの手の真似をし、すべてが同じひとつの手であるように考えてみる。

 

虚構について考える。指示書の声が聞こえてくる場所を探して、空間全体を一望する。

 

そして、再度⑥を眺めながら階段を下り、各々にとって⑥との適切な距離を探る。でも、距離ってなんだろう。⑥のなかに、いろんな視点が埋め込まれているのを見つける。さっき、いま。あちらにあるもの、こちらにあるもの。たくさん、少ない。あっちから見える、こっちから見える。

 

見つけた視点をひとりの私が担えるように、すばやく反復横跳びをしてみる。しゃがんだり、飛び跳ねたりしてみる。そうしながら、距離についてまた考える。

 

疲れたら、飛び跳ねるのをやめて、落ち着きながら、ここに来るときに乗ってきた、エレベーターの中での時間を思い出す。今も自分が、箱に乗って、どこかへ向かっていると考えてみる。慣れてきたら、エレベーターのなかで、さっき、なにを考えていたのかを、思い出してみる。

 

振り返り、⑤の、階段の上の映像をもう一度見る。画面の中の窓、カーテンを、⑥の作品の1つとして見てみる。⑤のなかに手を見つけたら、その手の動きを意識しながら、自分の手も視界に入れ、手と手の間の距離を、覚える。

 

また、階段を上ったり下りたりしはじめる。そうしながら、さっきそうしていた自分を思い出す。思い出すための道具として、⑤の画面から聞こえる音を、使ってみる。

 

目を閉じる。もういちど声の主を探すけれど、今度は目は使わず、耳と、感覚だけで、探す。いま、こうして指示を読み上げている人も、むかし、この階段を上り、⑤や⑥の前で、自分の手を見たと、考えてみる。そのときあったかもしれない、目と手の間の距離を、自分が今日、これまで感じてきたいろいろな距離で、測ってみる。

 

いくつかの距離は、ぴたりとは一致しないけれど、ぼんやり重なるくらいまでは、自分の手と、記憶を動かしながら、思考錯誤してみる。

 

ふと、トランプ大統領の声が、さっきから聞こえていたことを意識する。どこの国の大統領だったかを、思い出してみる。それが、自分のいる場所と同じなのか、違うのか、さっき⑥のまえで飛び跳ねていたときの動きを使うようにして、考えてみる。

 

目を開く。の階段を、一番上までのぼり、あたりを見回して、⑦を探す。見つけたら、⑦と「制作者」として関係する。テキストを読む。眼を傷めないよう薄目で眺めるなど対策をとりながら、この作品が成立している条件、あるいはこの作品をインストールする際の状況について考える。

 

⑦の画面を見つめる。そのなかに映っている人たちを、みんな、ずっと昔の人だと考える。階段を揺らしてみる。下にいてこっちを見ている人たちがいたら、彼らを、自分とは別の国の人たちだと考えてみる。そこに、さっき下を歩いていた自分もいると、考えてみる。

 

自分の手を見る。指示書の声にしたがったことを、すごく後悔する。

 

空中に、ザーザーとしたうるさい音や、話す声、温度などが浮かんでいる。それを、そっと手でつまんでみる。つまんだまま、階段をゆっくり降りて、⑧を探す。

 

⑧と「制作者」として関係する。手でつまんでいたものを、そっとあたりの空間、時間のなかへ手放し、辺りぜんたいへとそれが馴染んだと思ったら、⑧を、様々な角度、距離からじっくりと眺める。壺の中を覗き込み、そのなかに、自分の手を差し込む想像をしてみる。

 

⑧を見つめながら、そのまわりを三周する。たくさんの国の人、お肉、そして顔がある。肉は、自分の体のなかにあるものを顕微鏡で覗いているような気分で、見つめる。

 

立ち止まり、テキストを読む。読み終わったら、またじっくりと作品を眺める。「見ること」の時間を味わい、イメージを愉しむ。でも、イメージってなんだろう、と考えてみる。⑧を見つめ、⑦の音を聞きながら、たくさんの国のことを思い出す。音が聞こえる方角を意識する。

 

⑧に埋め込まれた顔のなかから1つを選び、⑧全体に感じた印象を、ぐっとその1つの顔に埋め込むような気持ちで、その顔を見る。

 

⑧の顔へ向かって手を伸ばし、触れない程度に、その顔を手ですくい上げるような身振りをしてみる。

 

手を、自分の顔にあてる。そのまま、次にどういう指示がくるのかを、思い出そうとしてみる。思い出せたら⑨を探す。思い出せなかったら、何度かジャンプした上で、耳をすます。

 

メインルームに入ると、左手にあるテキストを読む。

鈴木一平『灰と家』

いぬのせなか座叢書の第一弾として刊行する鈴木一平『灰と家』の入稿作業が昨日からずっと続き、いまようやく入稿し終えたけれど、その過程でゲラを一通りまた読み、そのレベルの高さに(身内というより自分自身へのものと同じくらいの厳しさで見るからよいものなのはふつうだろうけれど)ほとんど嫉妬する質だった。
もともといぬのせなか座は亡くなった友人をきっかけにはじまったものだけれど、その大きな成果としてある。鈴木一平はその友人に向けての、制作を通しての思考を徹底し、確かな技術とその伝達形式を作った。それに対してぼくは言語表現の担い手として本当に嫉妬してしまう。
この詩集の基礎にあるのは場所とものと私だ。無数の生きものが私として、ものを用いて、なにかを知覚するとき、そこには役割としての場所が生じる。私が用いたものを、私ではない私も使える。そのときものは別の場所によって占められる。もののかたちが変化する。
変化したものへ向かって、別の生きものが、私のいなくなったあとに、やってくる。私はその生きものをどう知覚するのだろう? 言葉、はここで、単に意味として読むものではなくなる。かつて誰かによって占められ、制作に用いられたものとして、私に迫る。
ANT理論の徹底した発展的理論書のようにさえ読める。私は私においてほつれ、別の私を内にはらむが、それはささやかな震えとして鳥やあめんぼにつたわり、それぞれの場所を崩す。しかし場所が占めるものにおいても、鳥やあめんぼにおいても、速やかに統合は取り戻される。
これは言葉に関する知覚や制作を、徹底して言語外の世界の知覚や制作へと接続する手立てだ。あらゆる言葉が場所とものと私らの交替、変形、移動の繰り返しを抱え込む。そうした言葉がテクスト面上でつくる言語表現主体の磁場(語り、と呼ばれることが多い)が、新たな私と私の距離を、テクストと接する私の中に作り続けている。それは私の身体内部で、言葉を意味として、さらには言語表現を行うものの思考を挿入されたものとして知覚するのに必要な統合性が生じるのを、ことごとく阻害し新たな統合の組織化を迫るという点で、これは直接的に身体の問題でもある。
それを私らは、(後半において展開されるところの、鈴木一平が最近試行錯誤している)ルビ詩に接するときの自らの身体の戸惑い、徹底した読めなさにおいて感じずにはいられないだろう。
詩集は三章で構成される。一章は散文と詩がいくつも見開きごとに隣り合わせに並ぶなかで同一の言葉が何度も多用される、貧しい言葉による抽象的な論理操作が何重にも行われる。その抽象度はそうとうなもので、ひとつひとつの言葉の使用方法が見開きごとに蓄積されていき、詩ひとつを独立しては決して読めない。過剰な重みが常に内に抱えられ、その重みを引きずりながら読むことになる。さらにそれは、右ページと左ページのあいだの書き直し過程が把握されたとき、その把握はそれまで私が引きずっていた読みにおける過剰な重みと同一の思考運動であったと知らされずにはいられない。そして二章においてそれは抽象から一気に具体的な言語使用へとねじこまれる。日記とそれをもとにした(その日記の日々を体験した私によって作られたであろう)俳句が上下で接続される。
その組みが6つずつ見開きに並ぶ。そこで私は韻文と散文の変換方法を学びながら、友人の死や夢の日々を言語化し並べる技術を得ようとする。一章での抽象化された言語使用方法を用いて。そして三章、俳句日記からはじまりつつ、詩へ、そして仲間内では「ルビ詩」と呼ばれていたものが並びはじめる。音と文字、改行と接続、言葉を読み理解するということが、ほとんど知覚のレベルで妨げられる。異様な読めなさが私に迫る。それは、「私の知覚以外で世界を知覚できるか」という問題に対して、複数の両立不可能な論理を持った私同士の対話という、小説の手立てとは別の、詩にしかありえない、「私が私として知覚すること自体の内部で生じるほつれとそこから立ち上がる新たな知覚可能性」を私に感覚的に示す。ほとんど動揺するこわさがある。
これが、私において死者を思考すること、私が私でありながら別の私と思考すること、その限りない繊細さに関する技術へとつながる。ここにはさらに、改行の技術や、行またぎの読みの論理の操作、タイトルによるテクストの収束と開放がある、そこまではぼくはまだ理解しきれてない。
長く言ったけれど……基本は嫉妬というか、ぼくはどう小説を書こうかという気持ちですが……11月10日まで予約を受け付けております。送料無料、新作詩、著者署名、先行送付など特典あります、もちろん11月23日の発売後も、どうぞお読みいただければ、そして議論していただければ。
http://inunosenakaza.com/hai_to_ie.html

「神さまのところに血のついた矢がもどってきたの、なんじゃこりゃあと思ってよく見たら、自分たちのつかわしたキジの血がついてたのね」

手塚夏子さんのトレースに関するワークショップに参加した際に作成した、10秒ほどの動きと発話の描写です。

http://www.bonus.dance/creation/35/

細かく記述するなかで体の節々のつながりがばらばらになる感じがして居心地が悪くなって呼吸がうまくできなくなっておしっこにいきたくなったこと、とても何気ない発話(言語)と身振りがおそらく本人も知らないだろう細部で連動してしまっているように感じられはじめたこと、その連動を軸にもういちど描写を組み立てることでなにかものまねの「本当らしさ」に近づける気がしたこと、こうした描写は小説においてはどちらかというと風景描写よりも語りの作成に近いだろうこと、とかを、考えました。特に、発話と身振り、身振りと(別の部位の)身振り、の間の連動のありようが、記述すればするほど見えてきてしまうことに、ありふれた話ではあるのだろうけれど、ショックを受けた。

 

 

基本の姿勢

椅子に座る。背もたれに軽くもたれかかるような感じで、終始全身の力が抜け、リラックスしている。ひざとひざのあいだは少しあけ、両足はつまさきで地面と接する。両足が地面と接する位置を、体の軸から見てすこし左にずらす。さらに、ひざを曲げて、椅子の座面をはさむようなかたちにして、両足と地面の接する位置を、あまりつらくない程度に座面の下にまでずらす。その状態で、左足のかかとを右足のつちふまずにくっつける。そのとき左足だけ、つま先だけでなく足指のつけねの部分でも地面で接するようにして、やはり体勢としてつらくないように、体の重心を背中にかける(つま先で体を支えようとしない)。
両手は、ともに、左手は左太ももの、右手は右太ももの、それぞれ付け根を手のひらで包むように、置く。右手は、薬指と小指が離れるかたちで伸び、それぞれ太ももを、指の側面で触っている。小指の方がまっすぐのび、薬指はすこしまがっている。中指と人差し指は、かるく握られている。その握られた人差し指の第二関節の上に、左手の親指がのせられる。右手の中指と人差し指が曲がったスペースに、親指以外の四本が並んでいる。
視線は、正面やや下、曲がった膝よりも15センチほど奥を見ている。
右手前方に、自分の言葉と身振りで説明する相手が、座っているのではなく立っている。今はまだそちらを見ないが、このあとは、たまにそちらを見上げながら、話す。

 

動き
以下、「神さまのところに血のついた矢がもどってきたの、なんじゃこりゃあと思ってよく見たら、自分たちのつかわしたキジの血がついてたのね」
まず、「かみさまのところに」と言いながら、両手ともに、親指の先を、中指の先と人差し指の先のあいだにくっつけ、輪をつくる。そうしてできたふたつの輪を、両手同士の指先でさらにくっつけ、八の字にする。3回ほど、それぞれのゆびさきがこちょこちょと動かされる。
次に「ちのついた」と言いながら、右肘の高さをほとんど動かさずに、ひじを、無理せずまげられるところまでまっすぐ、地面と垂直に手が挙がるようにまげる。「た」のところで、曲げはとまる。このとき、上昇してくる右手は、さっきまでの輪を維持しつつ、親指の先だけが、人差し指の側面、第一関節のあたりにまでずれ、単なる輪っかから、なにか棒のようなものを握っているようなかたちになる。手首はすこしだらんとしている。右手が上昇するとき、視界のなかへ右手が入り込んでくるかたちになる。腹のあたりまで右手があがったとき、右手に視線が紐付けられ、視線はそのまま右手を見つめながら上昇する。右手があがりきったときに、視線もあがりきり、右手の向こう側にいる話し相手の顔に、視線が向かう。左手は、右手に離れられたことで、右手と人差し指と中指の輪も解かれ、親指の先が、人差し指の第二関節、その曲がる内側にそえられる。ここまでが、「ちのついた」。
次に、「やが」と言いながら、右手で、十五センチ下あたりの空中を上からノックするように、手の甲をだらんと落とす。落としながら、頭は左にすこし傾ける。
さらに続けて「もどって」と言いながら、落とした右手をふたたびもとの高さにまであげる。
次に、「きたの」と言いながら、右手は「き」と「た」のタイミングで合計2回、今度はすぐ下あたりの空間を叩く。「き」よりも「た」の方がほんのすこし低い、左側のところを叩く。そして「の」のところで、すこし体の手前へ引きつけながら、軽く握られた手のひらの内側が自分に見えるような角度、つまり親指と人差指のつくる輪を、話している相手にすこし見せるような角度で、止まる。また、左手は、「き」と発音されるタイミングで、左手の人差し指が、すこし伸びて、ゆるくなにかを指差しているようになる。ここまでが、「やがもどってきたの」。
その時点で、1秒黙る。そのあいだ、右手の人差指の、第二関節が、すこし手の甲のほうへ動く。
次に、「なんじゃ」と言いながら、右手は15センチほど上、話している相手の顔と自分の顔のあいだにくるような高さまで持ち上げられるのだが、そのとき手首は、親指と人差指のつくる輪が天井をむくように、少し左回転させられる。右手が上昇するにつれて、頭が、左に傾いていたのをまっすぐにもどされる。右手が上昇しきるのと、頭がまっすぐにもどりきるのが同時。
「こりゃあ」と言いながら、右手にできている輪を、自分の顔の方に向けるよう手首をさらに回転させる。
そして、「と思って」と言いながら、右手は、ストンと右太ももの上に落ちていって、跳ね、ふとももの付け根にそえられたままの左手のそば、左手よりもお腹から離れた膝側に着地する。その瞬間、すこし伸びていた左手の人差し指が、ほんのすこし曲がり、中指など他の指の位置に近づく。でも、親指と人差指が輪を作るところまでは曲がらず、お互いの指先はひらいたまま。かわりに中指の先が、親指の先とくっつき、輪をつくる。中指の先は、親指の腹を、指先から第一関節までさするように、しばらく往復している。このとき、中指だけが曲がり、人差し指は曲がらない。ここまでが、「なんじゃこりゃあと思って」。
次に、「よく見たら」といい始めながら、右手がふたたび持ち上がろうとする。すぐに視線が、立っている相手の顔から離れ、自分の右手に移る。右手は胸のあたりまで上がる。上がりきると同時に、親指の先が人差し指の第二関節側面にまでスライドし、右手にできた輪は消える。視線は親指の爪を見つめ、親指の爪と見つめ合うようになる。
次に右手は、「自分」と言いながら、手の甲が上に来るようにすこしまたひねりながら、みぞおちのあたりの高さ、十五センチほど胴体から離れた空中をたたく。その振り下ろしの反動を受けるように頭はすこし後ろに反り、左手は、中指が親指からはなれて大きく手の甲の側へ引っ張られ、それにつられて親指以外の指もすこしだけひっぱられ、結果として左手の手のひらが軽く開く。
そして「たちの」と言いながら、右手は、ふたたび親指を天に向けるように右回りにひねられつつ、もといたふとももの付け根の位置に着地する。視線も右手を見つめたままなので落ちるが、頭はすこし後ろに反ったまま。右手の着地したその瞬間、左手の手首が内側にまがり、中指を含め親指以外の四本もまた、内側にむけて曲がる。その曲がりにあわせるようにして、あるいは視線に遅れてついていくようにして、頭が手前にかたむき、顔がすこしうつむく。
次に、すぐに左手の手首は曲がった状態をやめ(曲げた反動で跳ね返るように)、「つかわした」といいながら、なにかを飛ばすようなスナップをきかせつつ、手首は伸びる。
さらに、「キジの」と言いながら、左手はすこし親指の爪を天へ向かせるように手首が左回りにひねられつつ、ふとももとふとももの間にできた空間へと左手は投げだされ、手首と太ももがぶつかることでとまる。その衝撃で、親指が人差し指の方へ落ち、人差し指の先と親指の先が、くっつく。このあいだ、右手は人差し指がすこし手の甲の側へ引っ張られるが、親指の先と人差し指の先はまだくっついたままでいる。
左手が、すこし親指と人差指を離しながら、手の甲の側へと手首が曲がり、右手と左手が同じ高さになる。この手首の曲がりにおくれてついていくように、左足のかかとが右足の裏から離れ、つま先も地面から離れる。この瞬間、「ちが」と言いはじめる。
左手の親指の先と人差指の先がふたたびくっつき、右手の親指人差し指の先とさらにくっつき、また8の字ができる。その8の字ができた瞬間にあわせて、左足裏の、親指の付け根にある大きな関節が、右足の親指の上にのる。その瞬間、「ついてたのね」と言いはじめる。左足のかかとが背後の方へ引きつつ、左足の親指が、右足親指を包むように降りる。「ついてたのね」の「ね」を発した瞬間、視線が、話している相手の顔の方を向く。ここまでが、「自分たちのつかわしたキジのちがついてたのね」。
右足親指を包むように降りた左足親指につられて、そのまま左足は右足をはうように右足からずり落ち、かかとだけがあがったまま床に着地する。左足のずり落ちにあわせて、右足は、足の指の腹で地面と接していたのが、左足によってすこし押され、小指と薬指が地面との間で内側に曲がり、右足は指の爪の側で地面と接するようになる。