『コルバトントリ、』という演劇を見た日
<SNAC パフォーマンス・シリーズ 2015 vol.1>2015年4月4日(土)~4月12日(日)飴屋法水『コルバトントリ、』
山下澄人さんの小説を初めて読んだのは、北海道に旅行をしていた19歳と20歳の境目の春だった。ぼくはまだそのころhさんと会ってすらいないし、まだ自分が生きものが好きだったってことをうまく思い出せていないころだった。北海道の、釧路とか塘路町とか知床とかを、ひとりで歩いている時に、保坂和志さんの『カフカ式練習帳』と山下澄人さんの『緑のさる』を持ち歩いていて、いろんなところで少しずつ読んでいたらぼろぼろになった。
ぼくは知床に一度は行ってみたいって中学生の時に社会科の教科書を見て思って、高校の修学旅行で北海道のまんなかのほうに行ったけれどそのときは本当にびっくりした。みんな昨日の夜にトランプをして遊びすぎてぐーすか眠ってた、ぼくだけが起きてて窓の外の地平の勾配と、線路を見ていた。それからずっと今でもいつでも北海道に行きたい行きたいとばかり言ってる。夜の音とか、においとか、視界とか、ぜんぶ、まるでそこにずっといるみたいに好きみたい。
それで、山下さんの小説をほとんどぜんぶ読んできて、とても最近のいくつかはばたばたしていたからまだ読めていないのだけれど、手持ちにはある。前にも書いたかもしれないこととして、小説は考えることなんだってことをとても丁寧に示してくれた人だと思う。ぼくはここしばらく4年くらい考えてたことをひとまずかたちにするっていう仕事に数月くらい前からかかりっきりで、それがようやくおわって、批評みたいな小説と、長い小説の書き直しのものになんとかなった(それと別に、むかしの小説を、お願いされたのをいいことに、書きなおした)。ぼくがいまみたいな考え方と書き方と身のこなしをするようになったきっかけが、あのときの北海道で見たもの過ごしたもの読んだものと、それを抱えてすごした数年間だったと思う。あれがなかったらぜんぜん今なんてなかった。あの流れ星だらけの山の眺めもおかしな見間違いも感激の線路もなかった。そう思うと、世界はどうしようもないなと思う。今生きてるからいい、ってことなんてない。ぜんぜん、ぜんぶかなしいと思う。
ぼくが19歳になったころに知りあって、それからずっと、読むことに関しても身の振るまいに関しても尊敬していて、たくさん酔っ払いながら話したり小説について楽しく必死にいっしょに考えられてたと思う、本当にすばらしい人が、とつぜん死んじゃって、それのあんまりにのぞみのない事務手つづきに追い詰められながら、みんなで本だらけの家に集まって、朝、ベランダさえもない窓の外の道路をちらちら見ながら、なにかをみんなで待った、それから学校のキャンパスをぶらぶら歩いたあの日で、ぼくの人生はひとつ終わったと思う。これからは、ぼくが死んだあとの人のことを考えられるように、小説や公園や生きものや宇宙について、考えていかなくちゃいけないと思う。ひとりで考えるなんてばかだから、みんなでみんなを考えてほしいと思う。書くこと読むことがひとりなことだなんて、誰も一度も思ったことがない。
『コルバトントリ、』をみた 話されることがらに、聞き覚えがすごくある、というのが何回もあったけれど、『コルバトントリ』を読んだのは雑誌に載ったときだったからいつだろう、たぶん読んだときの記憶なんだろうけれど、まだ確かめてない
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
山下澄人さんの小説では、①書かれた言葉というものがつねにそれを表現した私を表現してしまうということ、②それでもその私は言葉としての「私」とくっついたりはなれたりするから、ひとりの人間にはなりきれないのに、ひとつの生の全体にはちょっと似る、という小説のふたつの特性が、必死に使われる
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
だから、山下さんの小説では、いつも、言葉を書くことで言葉があらわすたくさんの私を使って、ひとつの生が、自分について必死になんとか考えようとする、そんな小説自体ののさみしさが満ちてる 見えるかどうかが問題なんじゃなくて、なにかが見えてる私と見えてない私が同じ私でありえるのがかなしい
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
見えてる私と見えてない私が同じ私になってしまうとき、子どもながらに必死に考えたみたいな言葉が出てくる 緑のさる、で、義足を外してジャンプするとき、どうしようもない記憶みたいにくるしい。そういう因果関係がそれ自体としてあるんじゃなくて、それを信じようとする私が書かれ存在しちゃうから
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
ありえないふたつの私が同じ私だったと知らされるとき、小説がつくる世界の規則は、物理法則とかに従っていないうそだらけのものなのに、あんまりに重たいさみしさを持つから、否定できない そのさみしさの重量を使って今この瞬間の私よりもずっと大きな私で私を考えるのが、小説、のような気がする
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
『コルバトントリ、』は、そういうことをみんなわかった上で、小説で考える上で作られたいくつもの私を、具体的な俳優や、山下さん自身にくっつけて、その日その場所を考えそのものにしてしまう ここにいる人たちがみんなどこか(小説での私のように)似てくる。似てるけど、ばらばら。
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
似てるけどばらばら、あの人はこの人の歳とった姿かな、でもあの人はあっち見てるしあの人はいすで寝てるなあ、あの人はあの人の思い出しを代わりにしゃべってるのかもしれないけれど声がちがうなあ、でも同じひとりの生きた時間がふたつにわかれてひとつで話してる気がするなあ
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
そうしてあっちこっち見て動いて考えてるうちに、みんなぜんぜんちがう人たち同士なのに、何かにむけて、身ぶりをしている気がする 小説のあのさみしい義足のジャンプみたいなへんてこさでつながる身ぶりをしてる気がする 世界が小説に似る、というか、芸術に似る、というか、公園で遊ぶのに似る
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
なんにも知らない見ていない生きものと生きものが、海で食べたり食べられたりしながらおかしく生きてるみたいに、月も太陽も関係する、生きもののぐるぐるの公園を作ること それで、さみしさとか悲しさを、ぼくも好き。好きだから、カメラの人のとなりでお尻が痛かったけど、ちょっと泣いちゃった
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5
『コルバトントリ、』についてはおわり 電車に乗って朝いっしょにおきた人とまた会う 子どもが「おちあいなのになんにもおちてないねえ」と言えて、お母さんがとてもうれしそう
— (∵`)<hiroki_yamamo+h (@hiroki_yamamoto) 2015, 4月 5