まちについての覚え書き、忘れる前に。

 2月8日。街に大変な雪が降っていた。
 雪の次の日は、雨音と子どもの追いかけまわる声が聞こえた。ドラえもんも、雪だるまも、公園にいた。なにもかもが平さを覆うように街に増えていた。なによりしなった枝が増えた。雪も風も一番強まるだろうと言われていた夜の、ベランダから見た狭いT字路のなかに光る一本の街灯は、まるでその光から雪の降り方がこぼれ出ているようにそこだけ雪の降りゆく流れや舞い上がり、一瞬そこにとどまる静止をぼやけた円として映し出し、その足元で、一年前には、はしごに登りながらそれでも見えない庇の上の、本当はない雪を箒で必死にかき出そうとしていた小さな「おかず屋」のおじさんが、今は崩れた雪だるまにスコップで必死に立ち向かおうとしている。そのたった10時間後、おじさんのお父さんとお母さんが担いつづけてきた、古くなった野菜でもひどく安い値段を掲げて売ってしまう元気な八百屋の跡地に建てられた、不思議な笑顔を振りまく外国の人たちが頻繁に出入りするプレハブの真っ白な3階だての建物と、コンクリートで塗り固められた急な坂道の間に伸びる狭い道の片側に植えられた、冬が葉を1枚残らず落としたようすの桜並木の枝枝の先端の、細かくわかれたくぼみに溜まった水滴が、明日や明後日が雲ひとつない晴れの天気であったとしてもサーサーと大きな音をたてて光の反射のような雨を降らせつづけ、その透明な絵の具の撒き散らされた冷たい水槽の内側を、真っ赤な三輪車がゆっくりと抜けていった。
 おじさんのお父さんとお母さんが担っていた八百屋は、野菜や果物だけでなく鰯の缶詰やコカコーラやあづきアイスやカラムーチョが所狭しと並べられ、壁には大きな鏡が貼られていたために遠くから見ると八百屋の向こう側がはっきり見える、横断歩道やポストや街路樹や信号待ちする自分が見えるように思えた。つまり八百屋が景色の通り道に見えた。八百屋のおじさんはレジを打つ手が汚かった。レジの裏にはどこかの大きな追悼式かお葬式のようなものを写した写真が貼られ、それに寄り添うようにしてピーチ味の缶ジュースがいつも飲みかけの状態で置かれていた。朝早くには店を開かず、お昼前にようやくシャッターを開き、夜の八時にはシャッターを下ろす。夕方の4時くらいに人でいっぱいになる。ベビーカーが一度はいると通路が狭すぎて出られない。ニット帽をかぶった白人の若い男の人がバナナを買ってすぐに剥いて食べる。近所の中華料理屋と和食屋とバーのお店の人が制服のまま買い出しにやってきて職人っぽい話をして帰る。たんまりの野菜と、たんまりの果物。ぼくのマンションの近くの公園の側に、革命を起こそうとがんばっている人たちが大きなビルを持っていた。そこにはほとんど人の出入りがなく、受付のようなところに落花生の殻のような色をしたおじいさんがいつも一人で座っていた。そこに八百屋のおじさんが、見慣れないトラックに乗ってやってきた。おじさんは革命家のおじいさんに、たくさんのダンボール箱に山盛りにつまったパイナップルをプレゼントした。そのいくつもをビルのなかに運び込む様子を見た公園で遊ぶ大人も子どもも誰しもが、あのごつごつした材料は爆弾にでも使うのかな、と感心した。パイナップルをおいしく食べる方法は、パイナップルそのものよりもずいぶん遅れた航路をたどり、この国を今も海の上の漁船に乗って目指してきていたから。