白石晃士『ノロイ』

ノロイ』は限りなくバラバラなシーンをその大枠としてのモキュメンタリーによって辛うじてつなぐ、そうして宇宙人と土俗的な呪い、超能力、ダムに沈んだ村、集団自殺、心霊動画……などの要素を混ぜ合わせる。その接続方法は、しだいに謎ときめいてくる。一本の線が通りはじめる。

もちろんそれは、作品内作品を編集している人物による統一が働いているものでもある。一見繋がっていないかのように見えるAとBが、それぞれつながっているんじゃないかと作品内編集者(作品内監督)が考えることにより、この映画の世界はゆっくりとその比喩的な網目により統一され(それがまた探偵的な映画の速度にもつながるだろう)、画面には鳩、犬、紐で形作られた模様、カグタマという言葉……があふれはじめる。

そのゆるやかな世界の変異が、怪物めいた存在や危なげな屋敷内部を「そこにあるもの」として映すことになる。これは、一方では、非現実的な存在に対する「これが現実なのかもしれない」という強度を持った認識につながるけれど、もう一方では、予想外の要素接続の失われた、ひどく安心した視聴にもつながってきてしまう。そこに鳩がいる、ということが、最初はヤバさめいたものをもっていたのに、後半に至っては、ひとつのキーワードめいたものとして「鳩がいる!」と口に出される。おそろしいことはなにもなく、そこに呪いの現れとしての鳩が配置されているだけになる。

ここで、モキュメンタリーという構造が、作品内に張り巡らされた因果関係を、作者(語り手)の認知に閉じ込めないものとして機能しようとする。これはあくまで現実であり、この映像は映ってしまったものなのだから、これは現実なのである、と。前半に、いくつかの怪しげな現象を、専門家に扮した人物が「科学的に」分析するシーンが出てくる。たとえば、突然映像に入り込む不気味な音を、作品内ですばやく分析させ、五人以上の人間の赤ん坊の声が重なった音であると言う。このあざやかさ。超常現象(それはひどく個人的で、ひどく妄想論めいた、非客観的なあり方だ)に対して、科学的であるというメタ的な語りを導入し、作品の語り手の因果律と視聴者の因果律を同時に揺るがす。「世界全般に通じうる科学的根拠がある事実」が必要なのではなく、ただ「科学的」でありさえすればいい。その語り口が、つながるはずのないAとBをつないでくれる。

宇宙人と、とある村の歴史が、精神的に病んでいるような男(霊体ミミズ)や、超能力少女(が描く絵。ビジュアル。一目見てグレイタイプの宇宙人のようだが、その瞬間、グレイタイプの宇宙人と胎児の類似を指摘していた誰かを思い出す。カグタバの儀式のために中絶した胎児を集めていたかもしれない、という女。最後に男の子の顔がそのようになるところの、映画全体を貫く恐怖のアイコンとしての歪んだ顔)といった「霊媒師」の陥る状況によって、接続される。しかしなにごともなく自動で接続してくわけではない。接続しようとするのは誰か? それが語り手である。その語り手が作品内に存在することで、「科学的」という分析のあり方が、フィクションにも関わらず可能になってくる。

小林雅文、という作品内作品の語り手の認知構造と、視聴者側の認知構造が類似しているために、つまり両者が同じ人間という種であるために、謎解きが可能となり、そうして謎がつくられていく。キーとなるのは、特定の比喩を受け止められるかどうかという、その口調の問題になってくる。AとBに因果関係があるのだ、と言い切れるかどうか。そしてその全過程を経た先で――映画を見終わった時に――どのような歴史を思い浮かべるか。歴史というよりそれは神話に近いのかもしれないが、その世界が出現し、それを認識するものとして、新たな認知主体が遡行的に導かれる。目の前にある宇宙人と村の歴史と呪いと超能力と集団自殺と事故死と……をつなげて認識してしまう生き物が生み出される。

となればこれはもうすでにジャンル論めいたものに近くなってきているような気がするからもうやめるけれど、この映画を見てすぐに大江健三郎同時代ゲーム』を思い浮かべたのは近頃のぼくの大江病?によるものなのかどうかよくわからない。ただ、となればこの映画は要素の接続に関してはなかなかにおもしろいけれど、個々の、それこそ村がダムの底に沈められて……だとか、そういうところがあまりに安易過ぎるようにも思う。村の歴史が薄い。いや、そこをひたすら深めても2時間の映画ではできない、となるのかもしれないけれど。ダムの底に沈んでおけばいいだろうというような、もちろんダムの底に村が沈めば、すぐによくある都市伝説の雰囲気と繋がり、そこから多くのものを得られるのであえてなのかもしれないけれど、それにしても。

ホラー映画は幽霊を映すことによって、世界と個人の拮抗が露出する。歴史と個々の人物の関わりあい。モキュメンタリー的な視点から『リング』を見るとおもしろいというのは前にも書いたか。『POV』のなかに登場する「内と外の反転した呪いのビデオ」みたいなもののヤバさ、をこの映画の映像が超えていたかと言われると、なかなか難しいところはある。

これはだれでも思いつくことだけれど、後期の大江健三郎をホラー映画として読むことも必要だろうと思う。ギー・ジュニアなんて、夜道で実際に出くわしてしまった口裂け女だ。いや、それこそ人類が初めて出会った宇宙人が本当にグレイタイプだとしたら? のような。それだとホラーじゃないか。そうでもないか。

 

それから、作中内作中内作品?として超能力に関するテレビ番組が挿入されるけれど、その放映日とされているのが2003年。こういう、ある意味ではうさんくさい番組が、むかしはたくさんあった気がする、今ではネットなのかな。そういうのばかり好きだったけれど。アンビリバボーで呪われた農村?場所を転々と変える農村を特集したあと、遊園地の観覧車に乗り、そこから山の斜面にある小さな村のようなものを見つけたとき、あまりにおそろしかった。そのころは視力もよかった。

 

 

 

晩年様式集 イン・レイト・スタイル

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