(どうしても)ちっぽけなのっぽのたんぽぽ。ついでにわたしたちも、はるになると、しばしばいらしてください。

 十六日に一度しか日本の上空を通過しない人工衛星おやすみが、幽霊を見た。
 足下に広がるだだっ広い球体の、表面に群がっているという科学者たちが、人間の体の小ささに考慮して打ち上げた、惑星観測衛星たち。それは数ある宇宙機械の中でも、木々の発育や森林の広がりや天気の変化などを、夜空よりも高い場所から観察する、リモートセンシング研究を目的とした種類だった。
 丸太のようなロケットから切り離され、とはいえ広大な宇宙に投げ出されたわけでもなく、重力と遠心力の打ち消しあう境目の軌道でゆるやかに飛行する彼らは、かつてそこで自分が開発されていた日々、それはもう思い出そうにも記憶がないが、いつかは黒こげに落下して再びたどり着くことになるのだろう地表というものの画像を、黙々と撮りつづけた。それが惑星観測衛星たちの、ざっくりと言うのなら唯一の仕事であり、唯一の、その身に課せられた世界だった。
 こうして方々の観測衛星たちから集められた惑星の画像を、それを撮影した一台ごとを区別することなく、ひとつに組み合わせた膨大なデータとして、科学者たちは利用する。考えることといえば、自分たちが歩いて集めうる木々や土壌の細かな情報と、宇宙から見たしわくちゃな模造紙のような広範囲情報の、その間にある時空間スケールの大きな隔たりをどのようにして絡ませていくかという、技術の高度化につきている。
「人間の体は大きくはなれないから、機械の目をなるべくよくしてやろう」
 世界各国の研究所において日に日に発達の進む衛星センサーの空間・波長・時間分解能が、本来の寿命より先に自分を宇宙ごみのひとつに変えてしまうだろうと、惑星観測衛星たちの誰もが当たり前のことのように考えている。自分より性能のいい、情報処理のはやい、もしかすれば進んでいる時間ステップすらもずいぶんはやいような人たちと並んで働いていれば、自分の頭が本当に悪くなっているような気がする、だから幽霊を見た時にも、人工衛星おやすみは、さほど驚こうともしなかったはずだ。宇宙におけるコンピュータは、宇宙放射線から身を守るために、さらには高すぎる演算能力によってメモリが熱を放出し過ぎないために、大気圏内で人々が使っているどのコンピュータよりも古く、単純で、性能が悪かった。体を冷ましてくれる空気も風も水も、ここにはわずかさえもない。女の子がクリスマスプレゼントとして(なぜか)サンタさんからもらった、使い方の難しいきらきらしたスマートフォンのようなおもちゃの方が、はるかに多くの計算を行えた。
 女の子はお兄ちゃんが父親といっしょに山へカブトムシを捕まえに行くというのに、よくわからないままついて行ったとき、まだ朝も明けきらぬ空を見上げて、都会とはまったく違う澄みわたりのなかに、ひとつの星を見つけた。それは他の星たちとは違って、確かにゆっくりと動いていた。どこへ向かっているのか、「あれ、あれ」と父親に指差して促すが、父親には娘がどれのことを指差して言っているのかよくわからず、それよりも急かす息子といっしょにカブトムシのいそうな木の幹を探した。カミキリムシが三匹と、コガネムシが一匹、ミヤマクワガタが二匹捕まった。
 女の子が見つけたのはまさしく人工衛星おやすみだった。双眼鏡がなければ見えないと言われている人工衛星も、幼い人の目には映るのだということを、大人になってからの女の子は、この記憶を思い出すたびに知っていた。
 幼く小さな女の子は、宵と朝方に見えることのある人工衛星たちを見つけるために、規則正しい生活を心がけるようになった。流れ星や飛行機と見間違えることはなかった。人工衛星おやすみからも、女の子がよく見えていたからだ。……