2013-11-23

今のぼくの書く長編は、ひどくゆるい思考を日常として生きるために、無数のことがらがやんわりとつなげられていく。今生きることが書くことにつながるように書く。その期間、その分量が長ければ長いほど、体はその世界に入り、過去の自分から浴びせられる何重もの波紋を受け取り、「いま」書くぼくの体は発達していく。ただし、ある一線を超えたとき、要素量とそれの把握による発達の比率が反転してしまい、要素量に押しつぶされて発達が失われ、むしろ退化する。すべての要素を比喩的につなげようとしてしまう頭が、その網目模様に耐えられなくなる。

それならば、と、書いている長編からいくつかの要素、それはその長編を書くまでは思いつきもしなかったいくつもの要素となるそれを引き抜いて、短編を書くための新たな用紙にペーストし、そのまっさらな地平でさらに濃密に発展させていく、ということでぼくの体の発達を維持すればいいのではないか?

そのとき、比喩的な世界認識は適度にタイプに落とし込められながら、タイプ同士が接続され、地図を作り上げていく。

そしてその短編たちを、ぼくという名前が書いた以外は互いが断絶されたままのそれらを、ひとつのプログラム基盤に、放置してやれば、どうなるか?各々の生存をかけて、それらは文明を作り上げてくれるだろうか?