2013-10-20

 幽霊がいる世界はきっと幽霊を見てもすぐに忘れてしまう世界だ。人が八十歳で死ぬ直前に生まれたとしても、それはそれとして生まれてから死ぬまでの新たな過去の系列が生まれている。因果律はほつれてまた固まる。なぜなら死への恐怖の強さはその対象への常駐性にあるからだ。なにかが死んでそれが悲しいならそれは記憶が引き継がれているということであり、毎秒忘れるなら悲しくない。わたしが死んでもわたしへの親しみがなければ悲しくない。道端に転がる頭の砕けた蝉の死骸。因果律はどこまでもついてくる、人が記憶を持つ限り生まれて死ぬまでの記憶がわたしとして残ることが悲しいそれが私だ。小説もそうだ、どれだけ書き手の私が壊れても文章、特に小説というものは過去を覚えているから、それらが通用する、つまり記憶を引き継ぐための因果律を備えた生命がわたしとは別に錯覚的にあらわれる。個別の私、個別の宇宙が存在せず、すべては無限に存在しているなかで錯覚的にあらわれる愛着こそがわたしでありこの宇宙であるとして、そこには直線的時間がまずあるなかで宇宙が配列されているのではなく、瞬間ごとのスナップショットとしての宇宙がそれぞれに内包された物理法則もしくは刻まれた地層から過去と未来のその「隣の宇宙/わたし」を発見し、愛着を引き継ぐ。
「ここ」とは可能性の分布であり、千個の点がぼんやりと集まって黒ずみに見えるところが現在だ。つまり途中で別の人間や機械が書きはじめたとしても小説にはそれの背後にある常駐性としての宇宙/わたし=生命が生まれる。どうしてもわたしがそこにあらわれるのなら、それではこのわたしから次のもしくは前のわたし、このスナップショットとしての宇宙から次のもしくは前のスナップショットとしての宇宙を発見する、それぞれに内包された愛着への手がかりはいったいなんなのか、それは本当に数式としての規則によって記述可能なのか? どこまでも世界がほつれてどこまでのわたしに行き着けるだろう、因果律をどこまで果てに飛ばせるだろう、幽霊をすぐに忘れずに済む因果律の構築とはいかなるものか、その宇宙系列に愛着を持つとはどういうことか? 心身問題もそういう意味で小説とつながる。逆に言えば小説は心身問題である。
 道を覚えるということ、つまりは記憶が今を生きるための外部技術なのだとすれば、過去のぼくをぼくは機械の電源を押すようにはじめて過去のなかでパソコンの電源を画面のなかの機能で落とすように過去を落とす。自ら落ち転がった過去をほかの人が自分として拾い上げ、また電源を押し、今の道を思い出す。そのとき道は図になっても矢印になっても道としてかえがたい存在になる、だから覚えている。もともとのぼくは誰かが電源を入れなければぼくとしてはじまらないけれど一度はじまればぼくは内側から電源を落とす、落としたあと誰かが使えるようなかたちで落とす。そのかたちは周期律表であらわされることだろう。この言葉のように。