2013-10-14

ほら話に対しての許容ができたというよりそれを許容できるくらいにそれを話すぼくよりも大きな地点にあることができるようになったか。自分の書く運動の持つ重大さを、音やリズムや極端な一人称に頼ることによってカバーするのではなく、書いた事物そのものに面しながら、しかし偽りなく見ること。さらにそれを大きく大きく……

むかしひたすらとらわれていた「基調音」と名づけていたものは、無限に反復する諸要素として「わたし」のなかに、さらには「わたしの見る風景」のなかに発見されることによって、「わたし」が別の「わたし」の死骸でしかないことを聞く。そのリズムとして、言葉が駆動していく。それのことだった、

○×さん、と名づけた人が出てくる小説ではたぶん○×さんの意味がわからないというか単に不明だと思われることだろうけれどそれにはぼくにとってはかなり危うい問題が内在している。ぼくという種族の子。

死のマジックミラー。その裏から私を見る私。その私を鑑賞する私。この関係性が、霊だろうか?/私をみる私の視線に私が気づかない。窓の外、あるいは鏡を覗いていると思っているが、実は覗かれている。客に。死に。私の時間的な死が、私のいない未来をみる視線群なら、私を見る客たちは、私の空間的な死だ。つまり、あなた方は私の死だ。あなた方がいる。ゆえに、私は死んでいる。未来のあなたがいるから、私は死ぬ。別の世界をみるあなたの視線を共有できないから私は死ぬ。全てのあなたがそうして死ぬ。互いにあなたを探しながら。

パターンと廃棄物、大きくなってしまったものの死という運命を拒絶しつつ埋まっていく。結局の所パターンとは他の命であり、私の死が埋め込まれたものだ。つまり、死もまた落命し、堆積していく。(…)同じ図形を反復するはずの手は震え、あるいは色を置換し、同じものの回帰を許さない

以上、西川アサキ「私の死でいっぱいの袋」から。わたしという存在の中にある無数の、ありふれた、他者とも共有している操作や卵子やニューロンと、それを通じて揺らいでいく死について。過去は蓄積していくその蓄積の流れと、わたしの時間による線形動物的な流れの、その格子。さらには「塗り残し」。

今のぼくは少なくとも西川アサキのようなやり方をとって小説を書いていきたい。それは目の容量の問題でもある。

レゴのバケツを何百個も部屋にぶちまけて今日はここ!といってそこに散らばっている手の届く範囲において最大限のパーツでひとつ何かを作る、外に出て遊んで友達と遊んで帰ってきて今日はここ!といってそこに散らばっている……と続けてさらにaとb、cとd、というように互いをつなげていく、そのなかでその部屋よりも巨大な、友達と遊んだ時間や公園や生まれる前や死んだ後や図鑑の中の恐竜や望遠鏡の先の星座や銀河や宇宙の次の宇宙や別の宇宙にまで広がるなにか、外部環境とのやりとりによって自己保存可能ななにかを作りたい。となったとき、パーツをその日に作る手つきとパーツ同士をつなげる手つきはわずかに違うというのは当たり前だが単につなげるだけでは部屋より大きくはならないそれを「比喩的に」大きいと思ってもらうことに賭けてもいいけれどそれでいいか?と……

さりげなく描かれる絵画的な遡逆をたよりに言葉を満たす男、脈絡のない視界に風景らしき風景がよみがえる。感傷的な音楽は背景に吸収されて色も形も砕けてしまったようで、また、救いようのない自虐的な言語の反復が関係性を飲む。少なくとも、途絶えることのない基調音が小さく肩越しに聞こえ、それでいて、目の前には何もない、なにも、発する何かは事切れた、またしても。余響だろうか、それすらもわからない。ただ記憶は姿を持たぬまま凝縮し、乾いた音をたてる。何かが勢いよく弾け飛ぶような、まるで、意味のない年月の果てにおいて

というようなことを例えばぼくは18歳になるかならないかのはざまのときに書いていたけれど(「遠路市街」)、そういった絶望的な反復からなんとか探り当てようとしている世界が今もあるとぼくは自分に対して思う。

それではわたしはあなたをどこに見出して、あなたを知るようになったのであるか。わたしがあなたを知るようになるまえに、あなたはすでにわたしの記憶のうちに存しなかったからである。それではわたしはあなたをどこに見出して、あなたを知るようになったのであるか。それはわたしの上にあるあなたにおいてではなかろうか。しかしそのことはけっして空間的に考えてはならない。わらしたちはあなたから遠ざかろうと、あるいはあなたに近づこうと、けっして空間的に動くのではない。真理よ、あなたはいたるところにおいて、あなたに伺いを立てるすべての人を支配し、さまざまな伺いを立てる人びとに、かれらがさまざまな問題についてあなたの意見を求めるときにも、さまざまな解答を与えられる。あなたは明瞭に答えられるけれども、すべてのものが明瞭に聞くわけではない。すべてのものは自分が欲することについて意見を求めるけれども、必ずしも自分の欲することを聞くわけではない。自分の欲することをあなたから聞こうとするのではなく、あなたから聞くことを欲しようとするものこそ、あなたの最善の召使なのである。(アウグスティヌス『告白』)

「ぼくは生活のあらゆる面で進歩しようとしたにも関わらず、未来のぼくと同じように、あらゆる面でほとんど完全に失敗した。やりかたを知らなかった。コンピュータの発明や錬金術の成功みたいなことは歴史のなかでめったに起こらず、宇宙誕生から現在までを二十四時間にすれば生命誕生から現在まではほんの数ヶ月、文明誕生からはほんの数秒であり、どんな科学技術の発達もおそろしい速度で何度も頻繁に、短期間のうちにおびただしいほど重なって起きたのだという人もよくいるがそれは時間というものがまったく平らに刻まれていくことしか知らない人の言い分だ、どのぼくも何度生を繰り返したとしても新しいことをなにも学ぶことができないまま死に続けるということと、宇宙に光子のほかにほとんどなにもなかった三十万年を比較して「まだなにも時間は進んでいない」と言ってしまうのは、宇宙は誕生してたった一秒のあいだに無機質的な統一に占められていた世界の対称性が破れ、さまざまなものが質量を持ち、おそろしいほど豊かな構造の発達速度が生まれ、宇宙の直径は十の三十乗倍になっていたというその重みを、宇宙の大きさを隠している。生まれてすぐの宇宙でのめまぐるしい変化を今の規準にあわせて「一秒」なんて時計の針が動く些細なものに当てはめて認識できたとは、体の動かし方みたいなものとして信じられない。