2013-10-05
保坂さんが純文学で売れていて文芸評論的読みがしやすい謎解きができるものの系列に大江健三郎を入れるのはそれは同時代ゲームくらいからすでに当てはまらない気がする。
それこそおかしいのが、小説にテーマはいらないと一般に要約されがちな保坂和志の思想が、昨今の保坂和志の小説に否定されるんじゃないか。小説三部作は必死に小説を通しての死の再生、輪廻転生めいたものを求めつつ書かれていたし、『未明の闘争』なんて、小説にはネガティブな磁場が働いているそれに対抗するような言説が保坂和志にはあったような気がするけれど最初から最後まで、凹凸はあるものの笑えるところもどこか悲しい、特に39章は連載で読んでいて愕然とした。大学の図書館で読んでいた。読みながら、ぼくはそれまで保坂さんが『未明の闘争』で小島信夫的な発展を遂げるための練習をひたすら続けているのだろうと思っていたから公園の描写をずっと続けている時も「すごいなあ、ここからどうなるのかな」なんて馬鹿みたいに思っていたのが、39章にきて読むだけで泣きそうになった。読むことで泣くなんていうのは基本的には言葉を読むというより記憶を自分に戻す依り代として小説を利用しているだけだと、いい意味でも悪い意味でも思うけれど、だからこそ泣くなんて今までありえなかったのが、大学の図書館なのに読んでいる途中ですでに震えが来て、読み終わったらそれに関することをなにかツイートし、すぐにまた読み返してうなだれた。前回の時に、つまり38章の掲載時に、ぼくは「もうすぐ終わるかもしれない」とまわりに言ったけれどそれはこんなふうになるなんて思ってなかった。いや、こういう愕然を求めていたのだからそのまま正しいのだけれど予想外だから泣いたんだと思う。いや泣いてないか、泣きそうになった。近頃は大林宣彦の映画で泣いてしまってからなんでも泣くようになってしまった。でもそれは映画の話で、映画はそれなら見る人が記憶の自分からの回収に映画を用いやすいのか、どうか。