近況:第56回群像新人文学賞について

第56回群像新人文学賞の小説部門で、最終選考候補作三作のうちの一作に選ばれ、落選しました。2013年5月7日発売の「群像」6月号に選評が掲載されています。

今回応募したのは、「Puffer Train」(原稿用紙換算枚数250枚)でした。

当時、400枚ほどでの完成を目標に執筆中だった前半部草稿265枚を、改行の可能な限りの除去や、内容的な補足を加え、250枚に収めた上で応募しました。

その後、草稿は465枚で完成し、現在、切り詰めることを主とした改稿を、新作の製作と並行して行なっています。まだ三分の一程度の進行状況ですが、465枚だった全体は、340枚ほどに減り、応募した265枚部分も、150枚ほどにまで減らされています。

本来、草稿として書かれてはいませんでしたが、結果として大幅な切り詰めを行なっている理由の一つに、自分が意図的に構築した、当時では必要不可欠だった文体の歪さへの、今のぼくからの強い嫌悪感がありました。

ぼくはこれまで、ほとんどすべての小説を三人称として書いてきましたが、どうしても拭えない恐怖として、「どこまで語っても結局は書き手の一人称に落ちぶれてしまうのではないか」「自分は具体的事象として書いているにもかかわらず、「散文詩ではないか」と言われるように、読み手に比喩的に受け取られてしまう」という二つがありました。それらは今思えば同一の根を持っているようなのですが、なんとかそれらを乗り越えようと、これまでとは大幅に文体を変え、一人称小説として書きはじめました。そして最後まで書ききったときに、新しい三人称を書くことができる肉体になれば、と。

三人称としての言語駆動が、背景の一人称という実在に回収されていくその動きを根本から破壊するために、あえて「わたし」という語り手と、「わたし」という人間を立たせ、その運動の中で、一人称の統一性を裁断すること。徹底した想起を言語の接着剤として使用し、世界とわたしのそれぞれの複数を維持したまま、互いに情報を交換し合い、内包する要素だけでなく、輪郭すらも変容可能とするそれによって文章所持者を人間の手から奪還し、生き物、家具、データ、惑星、多宇宙。さらには世界そのものが語ることを、なにより必要としました。

書いたものこそがそのまま比喩ではなく現実として出現するために段階を経なければいけないのではないか? と、なるべくゆるやかに書き、途中でも輪郭を補正する語りを加え、エピグラフを添え、あくまでファンタジーなどではなく、SFまたはホラーなのだとしたかったのですが、それは結局のところ、ぼく自身のための準備でしかなかったように、今では思えます。群像新人文学賞へ応募した前半部は、1,2,3のステップで言うところの1.5までであり、ようやくそこから語れると思えた地点までに250枚以上も費やしてしまうことそのものが、不備である。

次の現象を見出す肉体を作り出すために(見まちがいを行える身体の獲得のために)重要なのは、解釈と観察から立ち現れた現象を、現象のまま、提示することであり、その情報量は、文章量と反比例するように増大する。というのも、いくら執筆に1年間かかった、最初に書いた文章と最後に書いた文章の書き手が1年間という時間によってばらけてしまっていたとしても、その場その場での世界への介入のあり方は、極めて「書き手」としてのものであり、つまりは「読み手」ではない。受動的ではない。必要となるのは、観察する思考の動きではなく、物体の並びそのものであり、世界の構築と世界との対峙は、どちらもがあっての「製作」だが、前者はのちに切り捨てられるべきであり、その切り捨ての作業に用いられるのが、全体と部分の極めて激しい往還である。

言ってしまえば、もはや内面ではなく、物として語り、語られること。その関係全体が、計算機として駆動すること。現象そのものを提示し、装置が、装置作成者の意図の枠外で利用され、装置に組み込まれるために。

ぼくは、人間の存在自体が決まっていなかった場所、宇宙の前や、恐竜の闊歩を書きたいと思い、どうにかしてそこまで辿り着こうと、465枚を書きました。いや、高校生のころの文体を一度捨てた2年半前からそれはずっと続いていたのでしたが、最後までいきつき、人間をどこまでも殺害しつくしたことで、ようやくぼく自身の中での準備段階が終わったように考えています。そこからくる今の目、つまりは応募原稿の改稿を始めるとたった数日で100枚以上も削れてしまうという馬鹿げた事態!を呼んでいるのだと思いますが、ともあれ、その執筆過程で見た現象に、ぼくは、ぼくという一点を超えた総体の動きを見て取り、これをなんとか形にしなければ、とも思っています。

生命という、多宇宙間を横断する存在が、なぜ自分を静止したスナップショットであると考えずに、一瞬前の自分と、一瞬後の自分を、それぞれ今の自分を通してつないでしまうのか、そこに発生する因果関係をなぜ信じられるのか、なによりなぜ、ぼくはこの瞬間の世界を見ているのか? ということが、具体的に考えられるだけでも、なんとか生きていこうとは思えるのです。

いや、結局のところ、毎回のように、それまでのすべてを、欠陥として見出していくその生命的頑健性にこそ、なんとか頼りを持っているのですが。