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鈴木一平『灰と家』

いぬのせなか座叢書の第一弾として刊行する鈴木一平『灰と家』の入稿作業が昨日からずっと続き、いまようやく入稿し終えたけれど、その過程でゲラを一通りまた読み、そのレベルの高さに(身内というより自分自身へのものと同じくらいの厳しさで見るからよいものなのはふつうだろうけれど)ほとんど嫉妬する質だった。
もともといぬのせなか座は亡くなった友人をきっかけにはじまったものだけれど、その大きな成果としてある。鈴木一平はその友人に向けての、制作を通しての思考を徹底し、確かな技術とその伝達形式を作った。それに対してぼくは言語表現の担い手として本当に嫉妬してしまう。
この詩集の基礎にあるのは場所とものと私だ。無数の生きものが私として、ものを用いて、なにかを知覚するとき、そこには役割としての場所が生じる。私が用いたものを、私ではない私も使える。そのときものは別の場所によって占められる。もののかたちが変化する。
変化したものへ向かって、別の生きものが、私のいなくなったあとに、やってくる。私はその生きものをどう知覚するのだろう? 言葉、はここで、単に意味として読むものではなくなる。かつて誰かによって占められ、制作に用いられたものとして、私に迫る。
ANT理論の徹底した発展的理論書のようにさえ読める。私は私においてほつれ、別の私を内にはらむが、それはささやかな震えとして鳥やあめんぼにつたわり、それぞれの場所を崩す。しかし場所が占めるものにおいても、鳥やあめんぼにおいても、速やかに統合は取り戻される。
これは言葉に関する知覚や制作を、徹底して言語外の世界の知覚や制作へと接続する手立てだ。あらゆる言葉が場所とものと私らの交替、変形、移動の繰り返しを抱え込む。そうした言葉がテクスト面上でつくる言語表現主体の磁場(語り、と呼ばれることが多い)が、新たな私と私の距離を、テクストと接する私の中に作り続けている。それは私の身体内部で、言葉を意味として、さらには言語表現を行うものの思考を挿入されたものとして知覚するのに必要な統合性が生じるのを、ことごとく阻害し新たな統合の組織化を迫るという点で、これは直接的に身体の問題でもある。
それを私らは、(後半において展開されるところの、鈴木一平が最近試行錯誤している)ルビ詩に接するときの自らの身体の戸惑い、徹底した読めなさにおいて感じずにはいられないだろう。
詩集は三章で構成される。一章は散文と詩がいくつも見開きごとに隣り合わせに並ぶなかで同一の言葉が何度も多用される、貧しい言葉による抽象的な論理操作が何重にも行われる。その抽象度はそうとうなもので、ひとつひとつの言葉の使用方法が見開きごとに蓄積されていき、詩ひとつを独立しては決して読めない。過剰な重みが常に内に抱えられ、その重みを引きずりながら読むことになる。さらにそれは、右ページと左ページのあいだの書き直し過程が把握されたとき、その把握はそれまで私が引きずっていた読みにおける過剰な重みと同一の思考運動であったと知らされずにはいられない。そして二章においてそれは抽象から一気に具体的な言語使用へとねじこまれる。日記とそれをもとにした(その日記の日々を体験した私によって作られたであろう)俳句が上下で接続される。
その組みが6つずつ見開きに並ぶ。そこで私は韻文と散文の変換方法を学びながら、友人の死や夢の日々を言語化し並べる技術を得ようとする。一章での抽象化された言語使用方法を用いて。そして三章、俳句日記からはじまりつつ、詩へ、そして仲間内では「ルビ詩」と呼ばれていたものが並びはじめる。音と文字、改行と接続、言葉を読み理解するということが、ほとんど知覚のレベルで妨げられる。異様な読めなさが私に迫る。それは、「私の知覚以外で世界を知覚できるか」という問題に対して、複数の両立不可能な論理を持った私同士の対話という、小説の手立てとは別の、詩にしかありえない、「私が私として知覚すること自体の内部で生じるほつれとそこから立ち上がる新たな知覚可能性」を私に感覚的に示す。ほとんど動揺するこわさがある。
これが、私において死者を思考すること、私が私でありながら別の私と思考すること、その限りない繊細さに関する技術へとつながる。ここにはさらに、改行の技術や、行またぎの読みの論理の操作、タイトルによるテクストの収束と開放がある、そこまではぼくはまだ理解しきれてない。
長く言ったけれど……基本は嫉妬というか、ぼくはどう小説を書こうかという気持ちですが……11月10日まで予約を受け付けております。送料無料、新作詩、著者署名、先行送付など特典あります、もちろん11月23日の発売後も、どうぞお読みいただければ、そして議論していただければ。
http://inunosenakaza.com/hai_to_ie.html