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つよいありんこ


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以下、ノート(の一部)

A
ずっとむかしに捕らえられ、瓶のなかでながらく飼育され、産まれ継がれた子どもとして、宇宙で実験にさらされているありんこ。もう、ほとんど外での暮らしなんて忘れた、掘る土も運ぶえさもこの場にはなくて、むしろこの場しかない実験室で、重力の支えを取り外された体は、浮く。とっさに、自分に割り当てられた微かな重力をばらけさせ、すぐ隣にいるらしい生きものの体やものものらへ向けて投げうつし(あい)、それらを新たな地面として、そこに結わえられた私を確保しようとする。そういう執拗な親密さと長生きへの期待がある。惑星へもどってきたら、ふたたび割りあてられた大きな地面を、あのときの重力のすばやい分割と、ほうぼうの距離への想像のしかたをもとに、私の外にいる、とてもいっしょには遊べない小さな小さな生きものやものものらとのあいだで増やし、ほどいては重ねる、俳句を作って並べたい。(なのにそのことを子孫はけろっと忘れて笑っている)。後から気づいた新たな生活、遠くには宇宙が見えている。ただいっぱいの小さな重み。



B
乾板をのぞくつるし雲と子どもに似る
園灯のよいよ顔だけが頼りに婆ば
また皮膚の寒星木の先端の袋
坂道より積んだ空罐ふくれをおう
踏み込みの月「名が同じ」かえる近づいている
蝶割りて火山方角やや違え
死象食う「たましい」隠れ返されわたし
ねこのため蠅と食う狩込みの家
ただわたし除日他国男の子みゃあみゃあ
月失して詰まりしワゴン車も円墳見て
御下がりの忽と逃げ水滑走路
象のたびKEEPOUTの鏡文字
死たぬきに水面手折られ初狸
初鳩や四隅つかわず空地縫い
渡り蟹脚のみ星座膨らまし
探査機は埋まる蟷螂の始原材
郷たがえ食うも浮かるる落鰻
撃柝の去りゆく火伴か松葉杖
犬の草むしる横顔捻りけり
田をうずめ粉吹く画板を重ねしむ
枯露柿のまだ来ぬ嚢を掻きはらい
入植地こむら返りを見られけむ
白飛びの道路に雪もなかりけり
牛蒡引く辞書には鞄の皮を張り
筍の土湯掻きあう地蔵らよ

C
①他の生きもの(私?)がふらつく体で手探りしつづけているこの場のことを、かれらが残していく微かな気配をたよりに私も探る、人は足元に光がなくとも遠くに光があればなんとか歩ける。もしくは音。住宅街の細道にそくして流れる下水の音、川の凹凸。
体のバランスが崩れたとき、体のあちこちは、自分の外へ新たな重力を探してばたつくありんこの絡みあいになって、いつもよりも速く動き、地面に結わえられたままであろうとする。そこで地面が、外にいくつも投げうつされた重力にあわせて、あちこちに散らばる可能性も、あらわになる。
着地し、結わえられるべき地面を、古めかしさを残しつつ、新たに作ること。他の私は遠くで光る月か川の音のような竹林の鳴りか。あるいは「こちらが重力方向である」と考えることが、バランスを崩した体のなすとっさの動きを、どう変えているだろう。ひとつのからだやものに割り当てられた重力を分割し、腕は上方向へ、胸は斜め下方向へ、足はひたすら踏んばるように、それぞればらけさせ、壁や木や枝を地面にしてみる。すると体の近辺に残る、ほんの少しずつの重力を、ありんこは時間的にも空間的にも離れた別の私らを借りて、もしくは寄生され、何種類もここに重ね立つ。

②言葉は、特に書き言葉は、そのつどの作り手の持っている、地面への体の結わえ方を、身の内に埋め込んでいる。たとえば《近づくにつれ塔重き春の暮》(山口誓子)。私、なんて書かれなくてもそこには塔に向かって近づき遠ざかり、自らの見え抱える風景の重みに反応している「私」のありよう(と、そのまわりの環境)が、記されている(それにこちらも反応しなければ、この短な語句の連なりを読むことがぜんぜんできない)。
遠くに見える、私の歩きの頼りになる、光。等間隔の階段を、足元を見ずに駆けおりるその一歩ずつの踏み込みの、幅。そうした「地面への体の結わえ方」は、書き記された言葉の上では、言葉の使い方としてあらわれるけれど、言葉がより集まって長々としたテキストになると、一文ごとに作り出される体の結わえ方とは別の、総体としてのざっくばらんな結わえ方が、先ほどまで読んでいた自分への想起の助け、道しるべとして、新たに作られる。それがいわゆる、語り手である。
対象となるテキストのなかの、ある言葉を中心(霊媒)にして、四方の言葉らをかきあつめ、押し固める力。人らしきものを指し示している言葉や、執拗に反復されている言葉が、特にその中心(霊媒)になりやすいだろう。読み手は自分のなかにすでにある、ありふれた因果関係を、「語り手」として文章の集まりへ投影し、新たに見えてくる次の一文を、そのつど語り手のもとへと、語り手の色やかたちをゆるやかに変えながら、溶け込ませていく。この繰り返しで、ある一定量をもった文章は、人間が処理できる量にまで縮減され、読まれうることになる。
語り手は、読み手の手元にあるあらゆる要素をかきあつめて、作り上げられたりもする。手がかりがないかみんな必死だ。たとえば詩のレイアウト……いくらかの量の言葉が枠線で囲まれている、もしくはここでなぜか改行がなされている、さらにはこの言葉の次にこの言葉が配置されているというたったそれだけのことでも、人は語り手を作る上でのとっかかりにすることで、よりうまく不安なく、書き記された言葉を読み行為としてまねられるようにする。そのぶんよく語り手は、作り手と混同されもするだろう(私小説がよりどころとする回路である)。
では、もしも、事前に用意した語り手が、吸収しようにも耐えきれないような逸脱した一文が、次の行に見つけられたとしたら……階段をのぼろうと一歩を高く上げて踏み込んだ瞬間に階段はなく、平坦な地面へ全身でがくんと落下したとしたら……たんじゅんなはなし、そこでは語り手は二人、三人、と増えていってしまう。あるいは電車の中を歩きながら海で泳いでいるようなことが可能な、不思議な生きものになってしまう。それに読み手がみな気づくかどうかは別として(なるべくそれに気づかないで済ますのが、語り手という単位なのだから)、しかし常にそういった次元で気づかずに済ますことなく、二人、三人とむやみやたらに語り手を増やしながらもひとつの私を維持し、自らを「電車の中を歩きながら海で泳いでいるようなことが可能な、不思議な生きもの」へ発達させようとする、重力と光の重ね塗りについての技術のかたまりを、小説と呼ぶ。
語り手は、自分の内側に、何人もの登場人物を見つけることになる。そしてまた、それらに、入れ子状にお互いを語りあってもらい、時空間の奥行きをつくりだす。いわゆる物語である。やはりそこでもレイアウトは幅を利かせている。数万文字で形づくられたテキストのなかで、「〜とありは言った」の直前に記された文章は、そのページからはるか遠くに記されてある、同じく「〜とありは言った」の直前の文章を、読み手において一気に引き寄せるだろう。あるいは「岩の上のあり」と「水に浮かぶあり」を、それぞれ岩や水の表面を巻き取りながらのありとして、結わえ、ありという語り手の姿がとりうるバリエーションを、押し広げるだろう(これの極端に演じられたものが、SFや幻想小説の姿をなす)。
小説とは、言葉が持つ「地面への体の結わえ方」の、さらなる引き寄せや結わえの身振りであり、本に記された言葉たちは、結局のところ、その振りつけでしかない(だけであれる)。書き手は、きのう自分の作った振りつけをもとに、きのうとはちがう寝起きの体で動いてみる、その動きをもとにまた振りつけを塗り重ねてみる。そうした繰り返しによって作り出される語り手たちの配置=レイアウト、さらにはそれらを畳みこみ抱えあるく、架空の体と重力を備えた「書き直しの担い手」の制作。言い換えれば、語り手の中心(霊媒)となる言葉によって、ふつうはありえないような量の情報を処理できてしまえるような生きものへの、進化の過程が垣間見える。それは書き直しを可能にする媒体と、私自身における距離があれば成り立ちうるのだから、つまりは書き言葉に依存していない。
ゆえに、書き言葉から語り手をいったん追い出して、書き言葉に許された重力を、ひたすら風景のみに関わるよう仕立てあげることは、できないか。たとえば俳句……《蛇腹へ伏す背に重きS字絞》《夏よもぎ眠れば脳も片寄れる》(安井浩司)のように、書いた私の身のこなしを、ほとんど書き直し不可能なまでに不明にさせる、それ全体を覚えなければ想起できないような、(私の)高速増殖炉である短なまとまり。そのぶん語り手の位置、レイアウトを、線や体や舞台設計、ありんこたちにやってみていただく。

③語り手に関する小説的操作は、あるひとつの文章から、複数の読み、複数の「地面への体の結わえ方」を成り立たせる。小説の、瞬間的にすべてを見渡せないような量が、目の前のなにげない一文を、あらゆる誤読の振れ幅の布地にする。とはいえこの振れ幅は、数え切ることができないし、多くの場合、思い出しや推測を介してしか触れることすらできない。これを、線を描くことで、補ってみる。
必死に何匹もがごろごろ絡みあっているすがたや、ひとつのからだのなかで別の体に気を取られて弱り切っている体の踊りを、自分の体の動かし方を思い出しながら、手元なんて見ずに描きとろうとすると、ほとんど見覚えのない動きが記されているけれど、その記された動き同士は、由来にした見覚えある体にあわせて、区別がつく。または不意に別のものと似る。人を見るときは人のような形が得られそうになるし、手だけの踊りにはそれがない。動物に対しては内側の動きというよりも輪郭を人の動きでなぞるようになってしまうこの差は何か。それらを大きな紙の上に転写し、つなげたりちぎったり塗ったり書き記したりして作ったものを、絵巻物、と呼べるだろうか。

D
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この乗り物の、外へ身を投げ出して風景の側に近づこうとするなら、たちまち内臓はひっくりかえって重力はなくなり、乗り物がいかに地面というものを仮構しているのか気づかされる。空中に投げ出された体という容器は、重力を求めて落下をはじめるが、その気忙しい動きは地面の拡大をともなっている。風景が拡大も縮小もされないままに落下することは可能かどうか。この問いは、乗り物に入った身体が、風景に見つめられることを前提としていないために見ることが容易にできてしまっていることを、背景として持つ。乗り物にのって近づいたり離れたりするうちは、拡大縮小するのは風景だが、乗り物から離れて身体が自由落下をはじめたとき、拡大縮小することを期待されるのは身体である。この身体を、ただひたすらに風景の前へ差し出し、見つめられるだけにすること。もちろんそれは、私と風景の間にマジックミラーなどがない限り不可能だが、風景と比べて私に過度に所有を許されているかに思える想起という営みを、その偏りもろとも主客逆転させ、風景こそが想起するのであれば、拡大縮小は、風景こそが担い、私の身体はそれに分け与えられているだけに過ぎなくなれるだろう。この逆転、想起の往来を、風景ないしは身体をそれぞれ蝶番としてぱたぱたとあちこちにつなぎ広めること。乗り物はそのはためきを支える地面として作られ、宙へ飛び立たせられる。

ドローイングは、変容を捉えるが、それは写真のように、ある一瞬の宙に浮いた問いのかたち――次にはどう動くのか?――をとるのではなく、それらの堆積と、強引な結合としての、問いのかたちをとる。そしてまた、ドローイングの一枚一枚は基本的にはあるひとつの身体の、あるひとつの幅をもった時空間内での動きを一連のものとして捉えているわけだが、一枚一枚が醸し出す変容は、一枚の内での線一本一本がすぐ間近の線とともに醸し出す変容とは圧力が異なる。線同士は互いに互いを見あやまろうとする引力によってまじりあっているが、連なる一枚一枚の抱える変容への問いのかたちは、またもや異なる。ゆえにあるドローイングの一枚を、落書き帳から引きちぎって編集・レイアウトの素材とすることが可能となる。一枚一枚は、お互いと似通っているが、しかしそれらをつなぐ系列はそれそのもののなかからは引き出せず、レイアウト行為によってはじめて見出されるものと思われる。

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小説という営みからはじき出された言語は、なにを担うのか。
①線の群れたるページ同士をつなぐとともにそれらの距離、位置を確定するコミュニケーションツール(=いったん引き剥がされた重力をもういちど新たに作り出すためのレイアウトの論理)
②踊りにおいて身体の作動を変える、頭のなかのガス、舞踏譜
③読解不可能性の地獄を極楽へと転化させ、言語に身を寄せるのではなく言語を極私有化し、野鼠や樹木らを読み手として引き入れる媒体
これら3つをどう重ねるか?

線と線がつくる関係性と、一枚一枚が作り出す関係性の違いを考える。変容、次にどう動くかという問いの埋め込み。その、どう動くかというところで、俳句は、動きの種になるし(頭の中のガスは身体を通過して奇妙な動きになる)、ページを事前にあった時間系列ではなく新たなレイアウトの中へ落とし込めるための法則としても働く。

ここで、読解不可能性は重要となる。読解不可能性にもさまざまな運動の傾向があり、また同時にそれは無限に誤読可能である。だからこそ私の身体にも使用可能であった。???
が、それをどうレイアウトの論理として使用するか。線と線の間にある誤読の結実たるドローイングのかたちを、どう俳句の誤読性と結びつけるのか。(語らが読みの循環の中でさわさわとうごめき役割を変えていくことと、いまこの瞬間書いている線が目の前の身体の動きと数秒前の記憶のあいだで揺れ動き右手が左足に背骨が右足先になっていく感覚は、接続しうるのかどうか)

以下、阿部嘉昭「俳句、驚愕をつなぐ声の力 ――正岡子規と安井浩司と」
《いかような「部分」からでも「全体」が(不可能裡に)志向されるのだから、交換原則を活性化させる換喩は、付帯的に空間の自明性を換えてみせることにもなる。》
「存在対照の秘儀」……
《糸遊にいまはらわたを出しつくす》
《漆くぐる犬からもわが泪おつ》
《犬二匹まひるの夢殿見せあえり》
《魚二匹互いに呑みあい失せる春》
《有耶無耶の関ふりむけば汝と我》
《少年が左手にもてば蓮の過去》(ゆんて)
《葛にねて汝が身体に宿ひとつ》
《古春や姉の衣を着て我ならん》
《雁の空落ちくるものを身籠らん》
《死鴉を吊るし春空からす除け》
《東風のまま回れる空も天の中》
《いずれにせよありうべき俳句とは、驚愕を平滑につなぐ(極小の)声の力なのだ。〔…〕多くが収縮する暗喩には、こうした救済にむかう拡張機能がない。》
再帰の可能性とはつまり、言葉が言葉自体ともつ関係の可能性のことである。》《思考は思考の思考である》(アガンベン
再帰性そのものが領域をつくり、それがことばによる救済を上演する。その手続きもまた、同語を喚びだして虚の埒をそこにつくる、いわば換喩の第二機能に負っている。俳句はこれが自家薬籠中なのだ。》

俳句における写生。見た光景を言葉に変換するが、575等にはばまれ、凝縮を余儀なくされる。その書き直しのなかで、風景と結びついていた言葉が誤読され新たな波長・配列を作り出してしまわざるをえなくなる。結果、誤読が組み込まれた写生俳句ができるか。

山を見ると、それを踏みしめ登る動きを「あたまの中のガス」として作ることができる、とは?

もは、理屈になる。のは、景色になる。(森円月宛の子規の手紙)

《根源的な運動性は、あくまでも持続している。核は、根源的な運動性を保持し、核とともに、各層もまたしかり。各層もひとしく根源的に運動的であって、ただ層はそれ自体では運動できず、核とともに動くのである。層は、走ることなく、機械のように動く。それは、核に対しては運動しない関係にあるが、核が動くから、ともに運動するのである。》クレー