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2015-10-03

朝、5時ごろに起きて、バイトに行くhさんを駅まで送る。ぼくらの話し声に、前を歩いていたおじいさんがびっくりして振り向く。そのおじいさんに、いつもねこをたくさん飼っていて貰い手をさがしている、お店なのか倉庫なのかよくわからないけれどガラスのむこうにねこのケースとたくさんの段ボール箱が見えるその部屋の前に停めてある車にもたれかかり、杖をつきながら、あたりに集まってくるはとをのんびり見ているおじいさんが、お昼によく見かけるのとおなじ格好で立っていて、ぼくらの声におどろいたおじいさんに「よう、あさごはん食べたらドライブしようや」と声をかけた。

はとが朝はよく飛んでいる。昼間はあまり飛ばない。家の塀にばかでかいカラスがいて、じっとしていた。近寄って写真をとろうとすると、「だめだめ、襲われるよ!」とhさんに叱られる。「目を見たら、カラスは急所をついてくるんだよ、教わらなかったの?」と言われる。そんなこと聞いたことない。田舎にはカラスがあまりいない。友だちの実家に白いカラスが飼われている。

公園でみんながラジオ体操をしている。「第3じゃない?」「いや、第2だよ。いつもぼく、家でやってたじゃない、これ!」「ああ、むかしわたしに言われて?」「そう」。ランニングをしていたひとが公園の外縁で急に立ち止まってラジオ体操をはじめていた。

hさんを駅に送ってまた家まで引き返す途中にまた公園によった。すごく光が綺麗ななかでみんなさわやかに運動をしている。おじいさんたちが掃除をしている。横を見ると急にはとの群れがぶわっとぼくめがけて飛んできて、ぼくを通り過ぎていった。

今日は夕方から相模大野で『グランギニョル未来』の爆音上映に行こうと思っていたけれど予約できていなかったから当日券を買わないといけない、発売は上映開始の1時間前だというから14時に家を出ようと思っていたら、Twitterでなにげなく検索すると12時から当日券を売るという、すこし迷ったあと、あわてて身支度して家をでる。いま書いているものの関係で、どうしても今日、見ておきたかった。

電車のなかで、あさ読んでいたもののつづきを読む。阿部嘉昭・貞久秀紀「減喩と明示法から見えてくるもの」(『現代詩手帖』2015年10月号)。これは本当におもしろかった。

《江代詩には言語学でいうシフター、いわゆる代名詞と「こそあど」ことばがほとんどない。論脈を示す接続詞もない。だからすべての公文が一階的にあらわれている感じがあるんだけど、けれどもそれらは江代さんの想起のなかではつながっているんですね。〔…〕今朝、梢に鳥がいたことと昔の自分に起こったことが同じレベルにある。江代さんが尊重しているのは想起のなかの順番でしょう。》

《減少も生成の一種です。それを知覚する自分自身はたしかに存在している。この生成と存在の同時性がポイントでしょうか。

 貞久さんも『雲の行方』で素晴らしいフレーズを書かれていました。《今あそこにすでに浮いているちぎれ雲が、今あそこに現れてくる。》こういう知覚は、私とは何かという問題にも関わってくる。》

《暗喩は謎をつくるから、阿部さんの言葉で言うと肉の塊みたいなものをつくるので、暗喩詩の場合は「「私をほぐせ」という命法が権力的に作動する」。暗喩詩を与えられた読者は、それをほぐそうとがんばる、そのとき、作品と読者には権力者と非権力者、支配者と被支配者という権力構造が発生する。そういうのをこわそうとして、阿部さんは暗喩から換喩へという、新しい人間関係のコミュニケーションを開いていこうとしているのかなと思ったのですが。》

《暗喩の原理が類似であるとして、遠い類似もあるんじゃないか。作者が類似していると思っているだけで、外見には類似が感じられないほど遠い二物。そうであれば、換喩の原理である隣接にも遠い隣接がありうる。本当の味読に値する詩には細かい遠近、その多元的分布が織物のように内在しているんですよね。テキストの持っているテキスト性は、一定のトーンではない。そういうことが読者を救う、多元性をもった構造であるということが。》(この箇所とか、ぼくがなんとか「語り」の視点からやろうとしていたことを補ってもらえるような指摘で、うれしい)

《言葉はそもそも欠落を抱えている。しかも、言葉が抱えている欠落とは、その言葉自身への喩である――動きである――ということでしょうか。》

《散歩をきっかけにしている詩って換喩的になる。なぜかと言うと、時空間のなかにすでに間隙があって、そこを身体としか呼べない詩的主体が移動するためです。ぼくが言う減喩では疎の状態の事物がゲシュタルト崩壊を起こす。このことが言語の問題とそのまま直結して、詩と哲学の拮抗が起こるんじゃないでしょうか。ただし減喩詩はその純粋形があったとしたら熾烈すぎる。詩は俳句ではないのです。それで多元的組成として、詩に減喩部分と換喩部分の分布が起きるんじゃないかな。》(このあたりは、詩を小説として読む、という姿勢に近いんじゃないか。というか、詩と小説の区別がいよいよ量いがいではつかなくなってくるものなんじゃないか。少なくともぼくはそう思ってやっているけれど、どうなんだろう。もちろん、いざ作るとなると論理がぜんぜん違うのはとうぜんとして……)

《詩行を書いていった場合には、行の加算は構造化を経由している。その書かれてゆくことのなかで、時間も空間も空隙をつくりながら加算されている。江代さんの作品もその空隙がつよい。だから一読して理解がしにくくなるけれども、結局、空隙をはらんでいる構造自体は明示されている。改行されて書かれている詩の構造の原形そのものを読んでいるだけで、作者の事情は関係ない。》

《挨拶には二面性があって、こんにちは、という単純な軽さがありつつも、そこには自我への執着といったものが排除されているから他者が参入しうる深さを持ちうる。深さに開かれた挨拶性というのか。》

《深さを持った挨拶性ということで言うと、挨拶の対象は、世界ということでいいのではないでしょうか。世界が言葉でできているとすると、その構造に向けての挨拶。》

《詩では行立てで空隙が構造化されますが、俳句のように五七五の要素で分解されたかたちではっきりする場合もある。けれども言語が、本来的に持っている原初的な力を詩で書こうとすると、すでにして語間単位にそういう空隙が孕まれるのではないか。》

《明示法の場合は単純で、自己再帰性が大きく働いています。AはAであるという、AのA自身に対する空隙がポイントです。》

再帰性は、発語の基本ですよね。〔…〕詩の読者は、作者そのものではなく、詩そのものでもなく、詩と作者の再帰的関係を受け取る。だから詩の読者は、自分で詩を書くようにうながされる。だから詩の読者は、自分で詩を書くようにうながされる。それをはばむものがあるとすると独善性。固有性と独善性は、全然違う。》(このあたり、特にだいじなものとして読んだ。「AはAである」→「私は私である」→「作者は作者である」のなかの再帰性とずれ。「私が私であること」を基点とした、複数人での制作・思考の問題に、かぎりなく近づく。)

《詩では、視覚的なイメージが言われすぎる気がします。たとえば江代さんの詩には、視像化させない、ことばのならびの抵抗圧がある。》(これは、大江論でも書いた。言語表現においてそうとう肝心なものだと思う。)

《視像としてはその色調やら線やらが目に見えているのにすぎないのでそこ止まりなんだけれども、空隙ゆえにそこに何かを知覚しようとする働きが促されて、そこに何かを知覚しようとする働きが促されて、視覚ではないもの、つまり聴覚が動員されるというような。目を閉じて絵に対して耳を傾けるようにしてまた目を開けて、むしろ今度は、耳を傾けることのおまけとして目が開いているというような……。》(ここはもう荒川修作に関係して、いま書いているもので考えるところ。)

引用しているとひどくたくさん引用してしまった。こんなに書いていると長続きしない。

相模大野の会場につくと、当日券を買えた。せっかくなので、さきに上映する『地獄の黙示録』も見た。高校生ぶりか、今回は劇場公開版で、すこし短い。まとまりがいい気がする。The Doors『The End』を爆音で聞けただけで満足しそうになる。

次の上映まで公園でパンを食べて待つ。ねこと目があう。相模大野は駅もきれいだし公園も大きいし公民館も大きいから感心する。そのあと夜にそのことをhさんに言うと、「いなかだから」と言われた。

グランギニョル未来』。細かくの分析はしないけれど、演者が自分の演じる対象をなんとか手探りする感覚が、身ぶりごとのほつれ(単一の物語に回収しえないぶれ)を見せ、しかしそこに演じている体はひとつである、ということがもたらす強制的な多重性。ちりばめられた要素のいくつかは(たぶんこれは脚本段階から指定されているものだ)あんまり機能しきれていないようなものもあったように思えた。映像でなく実際に見たときの、感覚的なおそろしさは、たぶんすごかったんじゃないかと思う。

終わり、そのあと大学の図書館。iPhoneの充電器をもってきたぞと自慢気にとりだしてコンセントに挿すと、それがMacBookAirのものだっと気づきびっくりする。ブルトンデュシャン論と西川アサキさんの細田守論をコピー。『グランギニョル未来』の、新潮に掲載された脚本を確認しようと思っていたのにそれを含む前後数号だけ見当たらない。他、小林秀雄岡潔『人間の建設』、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスグアテマラ伝説集』をぱらぱらめくり読む。

帰り道にかんぜんにiPhoneの電源切れる。電車のなかとかでずっと小説を書いていたからだ、電源が切れたあとも思いついたものがたくさんあるから暗い道のはじで今日もらったちらしの裏にペンで殴り書く。そういうメモばかりの集まりで書いていかないといつまでもひとつにまとまらない。いまだにこの、現時点で2万字くらいのものがまとまるのかどうかわからない(というか、2万字!、そんなに書くつもりなんてまったくなかった)。