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 図書館から帰るときにぼくがツイートしていた。「イヤホンから聞こえるMarquee Moonと、直角に欠けた月とは、同じ手ざわりのなさだね」。
 そうか。と、忘れたころに右の言葉を見た今のぼくが思い出したのは、入れ物のこわさだった。
 散らばるシャープペンシルと消しごむとものさしが、ふでばこにおさまって持ち運べ、ふでばこと水筒とメガネケースが、かばんに入れられて一緒くたに振られること。ばらばらのものたちが、持ち運べるようになって変だな、と最初に思ったのは、めがねをはじめて買わなくちゃいけなくなった店内で、かばんのなかを外から押して確かめてみたときだった。
 その瞬間、ぼくはもうひとつのこわさとつながった。上京して帰省する人が、飛行機ではそこまででもないけれど、深夜バスに乗って八重洲口から松山駅、箱におさまってしばらくすれば、その人の位置が変わり、記憶が風景に掏られてしまう。つまり、東京にいる自分の記憶の思い出し方と、子どものころを過ごした松山にいる幼い自分の記憶の思い出し方が、まったく別であるということ、そのそれぞれの記憶のありようが、入れ物に乗って移動することだけで置き換わる(折り重なる)というのが、こわい。
 この、ふたつの入れ物へのこわさを、ぼくはそこにあるけれど由来ない音、そこにあるけれど由来ない光と、等しいこわさとしてあると考えていると、いま、急にわかったらしい。こわい入れ物は、私が私であることの裏づけになっている、という意味で、イヤホンから流れる音や夜の月の光をおさめ、持ち運べる手軽さにしている入れ物があるのかもしれない。どういうかたちだろう。持ち運ぶのは、誰だろう。
 これを距離の問題として捉えてみたいという。月までの距離、音までの距離、東京から松山までの距離。移動と知覚とまとまり。コップに入ったコーヒーをこぼして、カーペットに染み込んだのが、水だけ蒸発してもとにもどせない。コップにあるものを飲むこの体が持つまとまりと時間。ひどい折りたたみ……
 こわい話が得意だったぼくは、十一歳のころ、小学校で自然の家に泊まったことがあったはず。先生が、窓から見える遠くの海沿いの道を指さして、あそこはいっちゃいけないんだ、大変なものが出る、とみんなを脅していた。ぼくはひとしきり自分の知っているこわい話を班の人たちにしてから、夜の道を歩いた。
 誰なのか思い出せないけれど、空になったヤクルトの容器を持って、うしろから友だちが追いかけてきた。昼間、急な大雨が降ったせいで(あのときの雷を、雷のなるたびに思い出す)、においは湿気た山のくうきだった。先生が、外から帰ってきた人たちを数えている。雨のなか、頂上のあたりにある工事現場まで歩いた山が、すごく大きく見える。海に向かって、ヤクルトの容器を投げた。風が吹いて、音がなにもしなくなったまま、風も雨もなくなって、ものすごい勢いで走ってきた。