読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わかってきたことの少し

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ

グレアム・ハーマン「代替因果について」を今さらだけれど読んで、びっくりした。
大江健三郎がやってることとと異様にリンクしてる。擬似私小説的手法は、それこそ感覚的対象と実在的対象をいかに交流させ続けるか、に依っている。小説は、そこから「私の制作・発達」の方に行くわけだけど。
感覚的対象がなぜか統一性を持ってしまうことは、物を作るうえで相当に大きな問題になってくる。ハーマンがこの問題について語るときにメタファーを出してるのはすごく大きくて難しい問題……
《事物とその性質との分離は、もはや人間経験のローカルな現象ではなく、むしろ因果関係も含めた実在的対象間のあらゆる関係の根幹なのだ》っていうのを、どうするか。言葉による思考と、人間による思考の、あいだに、動物や植物や地形や抽象概念も加えてやるために、語り手の認知を教育する必要がある。
たとえば……
ぼくはえびが好きだ と えびはぼくが好きだ
どうして両方とも語り手が「ぼく」であるように思うのか?
ひとつの語に複数の読み方がありうるということと、その読みの方向性が語り手というメディウムで生成可能であること、さらにその生成が、特有の傾向を持っていること。
語り手の生成が、人物名を中心に行われやすいということを逆手に取ると、人物同士の比喩的な接合が、語り手の認知に影響を与えることもありうる。『憂い顔の童子』で、古義人=コギー兄さんは、「ギー兄さん」に言葉の位相で接続され、行為や語りすらも接続させられる。これが大江的転生のひとつ。
そして、言葉のレベルでの操作と、語り手の操作が、読み書きする私の知覚的統合と連動することで、思考はひたすらに続くようになる(もしくは一瞬で停止する)。私小説私小説でありうるのは、書き手がひとつの統一性をもった対象として知覚されるとき。
書きはじめと書き終わりが同じ人間だと認識されること、生まれた瞬間の私と死ぬ直前の私が同じ一人の私として認識されること。これを、美の問題として考えることはもちろんありうるし、進化論をねじ込むこともありうるかもしれない、とぼんやり思う。ともあれ小説は人間だけのものじゃない。
おもしろいのは、大江健三郎が、抽象的概念を指す言葉が書き手の肉体を介した文体(声、と呼ばれる)によって具象化するとき、それを異化と呼んでいること。そして異化は、小説の根本であり、小説の本質をその制作行為の追体験にこそ置く理由のひとつになる。
こうなってくると、小説は、ひとつの、生に関わる教育としての側面を見せはじめる。もしくは、世界が存在することの実証そのもの。