頭の割れた媒体、宇宙からの石碑の質――「森のフシギ」は何でありうるのか?(大江健三郎とメディウム②)

 

同時代ゲーム (新潮文庫)

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M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

 

 頭の割れた媒体、宇宙からの石碑の質(大江健三郎とメディウム①) - describe,



親が植えたと聞いている石榴と椿が片づけられて地面が剥き出しになっているなかに、隕石だという丸い石が置かれている。いったん川の側に降りて見上げると、植物のような浅葱色の石には、ただ五行の文字だけ、自分が万年筆で書いたものを拡大したのだとわかる書体で刻まれていた。


 コギーを森に上らせる支度もせず
 川流れのように帰って来ない。
 雨の降らない季節の東京で、
 老年から 幼年時まで
 逆さまに 思い出している。

『水死』において最初に「丸石に刻まれた二行の詩」が登場する、第一章第一節のこの箇所では、次のふたつの情報が提示されている。つまり、①二行の詩が全体としては五行の詩から抜粋されているということ、②丸石は「隕石」として形容されているということ。
 まず、①大眩暈の際に飛来する二行の詩を含んだ全体としての五行の詩は、古義人がノーベル賞を受賞した際に設けられた記念碑に刻まれていたものだという。その記念碑は、最初は川原に置かれていたが、道路建設のために、古義人の住む「森の家」の裏庭に運ばれることになる。その経緯が、第一章の冒頭で記述されているのである。

 古義人は、母が書いた詩の中からひとつを選び、それに自分の詩を続け、五行の詩作品のかたちにし、記念碑に刻んだ。母が書いたのは前半二行、つまり後に古義人の前に飛来することになる部分だ。古義人の後半三行は、『水死』の冒頭に引用してもいるT・S・エリオットの詩がもととなっているらしい。

海底の潮の流れが/ささやきながらその骨を拾った。浮きつ沈みつ/齢と若さのさまざまの段階を通り過ぎ/やがて渦巻きに巻き込まれた。

 言語にはそれを表現した主体の認知運動が含まれるという、認知言語学の知見を引かずとも当たり前のことを考えれば、後半三行の言語表現主体には、エリオットが介入することになると言えるだろう。さらに、丸石に刻まれた文字の書体が、古義人の手によるものだと描写されていることから、五行全体の言語表現主体として、古義人の名が記帳されることにもなる。つまり、五行の詩は、前半の母と、後半のエリオット+古義人を、古義人の身体的痕跡で圧縮したものとして考えられる。古義人が大眩暈のなかで観た二行の詩もまた、古義人自身の書体で刻まれたものだったはずだ。「私」は母が作成し、過去の「私」が手書きした文字列を観たのだった。
 加えて、②その文字列の刻まれた媒体たる丸石が、隕石として描写されていることが、二行の詩をさらに特徴づける。書き手は巧みに「だという」と記すことで、伝聞を匂わせ、違和感を軽減させているものの、言語から構成された小説において、そこに(たとえ後に否定されたとしても)書き込まれた言葉は、それとしての必然性を持つことになる。丸石が宇宙から飛来した物質であるということを、作品内に書き込む必要性とはなんだったのか。それを考えた上でなければ、二行の詩の飛来を理解することはできないだろう。

 

 宇宙から飛来した物質。そのイメージを、大江の作品群において最もはっきりと与えられているのが、「森のフシギ」だ。大江が自作の中心的舞台として現在に至るまで描き続けてきた「村=国家=小宇宙」、その創建期以来の歴史を語る『同時代ゲーム』の最終章において、「森のフシギ」は唐突に登場する。

ある異星から、われわれの土地が開かれるよりも以前に、このかたちも色もない塊りが宇宙船で森へ到着した。それが異星の生物であるか、宇宙航海を可能にするほどの科学技術による、精密機械であるのかはわからない。ただ、その森の怪物は、そいつに出会う人間に話をすることをもとめるのだ。そいつにむけて言葉を発しないかぎり、いくら遠ざかろうとしても、そいつのまわりをグルグル廻るだけである。しかもそれは、声に出して話しさえすれば、どのような話でもいいのらしい。つまり森の怪物フシギが関心をいだく対象は、言葉そのものなのである。言葉を受けとめるたびに、かたちも色もないその塊が、なにやらかたちをそなえ、ある色あいをおびるという。(…)森の怪物フシギを派遣した異星人は、地球の人類の特質を、「言葉」そのものだとみなしている。そこで、問題の「言葉」を研究するために、きわめて大きい時間の単位による計画がたてられたのだ。かれらは地球の自然的条件のなかで、半永久的に活動しうる実験媒体を送りこんだ。それはなにも書いてない紙のような性質をもつ塊りだ。はじめそれにはかたちも色もない。しかしひとつひとつの人間の「言葉」を受けいれるたびに、その塊りの記憶装置が働いて、それは塊り全体の、あるかたちと色においてつみかさねられてゆく。計画完了後、異星に運び帰られるその塊りは、人類の「言葉」そのものと呼ばれるにふさわしいかたちと色をしていることになろう……(…)――「言葉」をすべて研究し終ってみると、結局、フシギはどういうかたちと色になるんだろうね? ――大きい、ひと粒の涙というようなことかもしれないね!

 言葉を受けとり、それをかたちと色において積み重ねていくことで、地球の人類の特質としての「言葉」そのものを、自らのかたちと色とで表現してしまう、記憶装置媒体。言葉はそこで、視覚情報、それも材質の変化の時間的蓄積としてのそれへと、変換されることになる。
 では、言葉の総体を圧縮した視覚像としての「ひと粒の涙」とは、どのようなものなのか。それが描写されるのは、『同時代ゲーム』の「僕」が、森のなかをさまよい歩くなかでのことだ。「僕」は、ある指示を夢のなかで与えられている。「村=国家=小宇宙」の創建者である巨人「壊す人」のバラバラな肉体を、森の地面から掘り出し集め、「壊す人」の全体を復原するということ。「壊す人」は、「村=国家=小宇宙」の神話と歴史において、単なる創建者の役割を負っているだけではない。「僕」は「生まれる前の思い出」として懐かしく思い浮かべる情景から、「壊す人」の象徴的意味合いを見出す。

神話と歴史の様ざまな出来事が、なにもかも一挙に表現されているパノラマの情景。しかも情景のいちいちの細部に目をこらすと、そこで挿話を表現する豆つぶほどの人間が生きて動いている。陽の光は輝き、あるいは豪雨が降り、情景の一劃に耳をすますと大怪音すら聞こえてくる。神話と歴史の一齣ずつが、そのパノラマのいたるところを現在時に、あらたな出来事として起こっているのだ。しかもその神話と歴史の総体をふくみこむパノラマの、横幅いっぱいに寝そべって、それを見あげている巨人化した壊す人。当の壊す人は、またパノラマの豆つぶのような人びとのうちに、いくぶん大きい豆つぶとして偏在しているようなのに……

 ここで「壊す人」は歴史と神話の総体と、その細部を、ともに担う存在として考えられている。全と一。「壊す人」のバラバラな肉体を、森のなかから拾い集めるという行為は、それだけで歴史と神話に関わるものとなる。「僕」は、「壊す人」の肉片をひとつ残らず集めようとする。そのとき、森の地形と「壊す人」の肉体は、「僕」の歩みを介して重なることになる。

壊す人をバラバラにして埋めた場所の道筋は、レーザー光線で森じゅうに投影された地図のように、僕の発熱した頭にくっきりと展開していた。(…)僕が森のなかを辿るべき通路として、いちいち目の前に読みとって行った、樹木と樹木、また樹木と蔓と岩のはざまの道筋は、太古以来の原生林の、植物の系統と個の発生が自然につくりだした、あるはっきりした空間の、次つぎにつらなる出現として受けとめられた。その空間をひとつずつ巡り歩くかぎり、森で百年間生きるとしても、閉じこめられた感じはしないはずだと思えるほどに。

「壊す人」の肉体の配置が、森の歴史の空間的表現となる。そしてそのとき、「僕」が「壊す人」の肉体を探し歩く際の道しるべとしたのが、「明るい空間」だった。その経緯は、「森のフシギ」の最終形態としての「ひと粒の涙」を思い起こさせる。それを支えるように、森に点々と見出される「明るい空間」は、「僕」の記憶のなかで、「理科教材室の硝子玉をつらねた分子模型」と比喩的に接続させられることになる。いつのまにか「明るい空間」は、「硝子玉のつらなりの明るい空間」と呼ばれはじめる。その硝子玉の空間のなかに、「僕」はいくつものヴィジョンを見る。

僕は次つぎにあらわれて来る硝子玉のように明るい空間に、ありとあるわれわれの土地の伝承の人物たちを見たのだった。それも未来の出来事に関わる者らまで、誰もかれもが同時に共存しているのを。

 あらゆる時空間が、無数の硝子玉のつらなりに凝縮されるということ。これを「ひと粒の涙」の描写とするのに差し支えはないだろう。つまり、硝子玉=涙というよりは、硝子玉のつらなり=涙である。ここにおいても、一と全、個体と総体という問題が生じる。それを考えるために、大江は、硝子玉のつらなりの情景を、あるイメージの具現化として捉えるよう促している。

アポ爺、ペリ爺の二人組が、ひとつの三次元の空間についてそれ固有の時間があり、つまりは空間×時間のユニットとしてこの世界があるのだと、教えてくれたことがあった。それに対しても、僕は例のとおり道化た受け答えをしたものだ。――この太陽系にとどまらず、銀河系宇宙に見出されるすべての惑星、それになお別の複数の宇宙、そこに見出さるべき無限なほどの数の惑星。それらの星のいずれに向けても、一瞬で到達しうる宇宙船があるものとする。無限なほどの数の宇宙のうちには、地球と似かよった環境の惑星も、やはり無限なほどの数あるだろう。そこには人類と似かよった生物も、これまた無限なほどの例が見出されるはずである。そのようなほとんど無限の数の人類、また人類に準ずる者らについて、宇宙船で訪ね歩く。それはそのいちいちの惑星に、それ固有の時があり、つまり空間×時間のユニットをなしているのに接することだ。もしそれらほとんど無限の数の、空間×時間のユニット群を一望のもとに見わたしうるならば、それを見る眼は、地球の人類史の全域にわたることどもが、いちどきにすべて起こっているのを眺めることにもなるだろう。そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかから、ゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう……いまわしらが生きておる、この今につながってくる歴史も、そういうもののひとつにすぎんか知れんが!(…)僕はそれら硝子玉のつらなりの情景を見ながら幾日も歩きつづけるうち、銀河系宇宙の外にまで探しにいくことはない、アポ爺、ペリ爺の二人組のいったとおり、実地調査できるこの森のなかにすべてがあると納得した。ここにいま現にあるものこそ、自分が道化て口に出した、ほとんど無限に近い空間×時間のユニットの、一望のもとにある眺めだと。それもこのような言葉によってでなく、次つぎに眼の前にあらわれるヴィジョンの総体が、自然な仕方でそれを教えてくれたのだが。しかもそのようにして森のなかにすべてが共存している、村=国家=小宇宙の神話と歴史こそは、それら自体が巨人化した壊す人をあらわしているのだ。僕が森のなかをくまなく歩きまわってヴィジョンを見てゆくのが、バラバラに解体された壊す人を復原する行為であるのは、そのためなのだ……

 硝子玉のつらなりは、あらゆる時空間の可能性を、説明的な言葉ではなく、ヴィジョンの総体として「僕」に教える。ここでもやはり、歴史は視覚化されることになる。だが、ひとつの疑問が生じる。ともに森のなかの歴史の総体を示すのらしい「壊す人」と「森のフシギ」のあいだには、どのような差異があるというのだろうか? それとも両者は同じものだったのだろうか?


 まず、「壊す人」は、その肉体の森における配置によって、歴史の総体をあらわすという意味で、歴史の空間的配置を担う存在である。さらに個々の歴史の内部で生きつつ、歴史の全体も象徴するということから考えれば、「壊す人」は、ひとつの空間的配置があらゆる図形を内包するような、一と全に通底した概念として捉えることができるだろう。空間×時間ユニットのイメージで言えば、「壊す人」は多宇宙が存在しているこの世界そのものを総体的に指し示すものとなる。
 一方で、「森のフシギ」は、人類の特質としての言葉の総体を、一点の塊りの持つ視覚情報として具現化する記録装置媒体としての役割をになっていた。それは一見して、「壊す人」の性質とまったく同じもののように思える。だが、「壊す人」がそれ自身で時空間の可能性を表象するのに対し、「森のフシギ」は、あくまで人の話す言葉のひとつひとつを膨大な時間をかけて記録し、そのつど変形し、結果として言葉の総体にたどりつくものである。「森のフシギ」が「ひと粒の涙」のような姿になったとして、それだけでは無意味なのだ。それまであらゆる言葉を刻まれ姿を変えてきたという、その媒体としての持続と変化の蓄積こそが重要なのであり、そもそも森のフシギは、一回限りの地球の歴史を記録するだけである。
 すなわち、「森のフシギ」は、空間×時間ユニットのイメージにならって言えば、多宇宙間を渡り歩きながら現実を選び、人類史をゲームのように組み替えていく宇宙船として考えることができるだろう。個々の事例が総体をも意味するという点では共通する「壊す人」と「森のフシギ」は、しかし、一方が静的な性質を与えられ、もう一方が個々の事例から総体を作り出すという動的な性質を与えられることで、異なった存在として見出されることになる。
 だが、以上のように考えると、「壊す人」という多宇宙の総体のなかに、「森のフシギ」という運動記録媒体が含まれている、という理解に行き着きそうになる。それでは、「森のフシギ」が「村=国家=小宇宙」の創建以前に宇宙から飛来してきた、という圧倒的な外部性を与えられていることを、うまく解消しきれない。いったいどういうことなのか。
 大江は『同時代ゲーム』を完成させた後も、自身の作品のなかで「村=国家=小宇宙」の歴史と神話を改定し続けている。その過程で、「森のフシギ」には、『同時代ゲーム』で語られていなかったような意味づけが、新たに加えられはじめる。それを検討すれば、「森のフシギ」が宇宙から飛来した記録媒体として描写されていた理由も、より明確となるはずだ。
同時代ゲーム』に書き込まれておらず、しかし後に『新しい人よ眼ざめよ』で「どうしてあの挿話を小説からはぶいたの?」と登場人物に指摘させている、重要なイメージがある。それは『晩年様式集』に至るまで、大江の世界観の根底に絶えず据えられるものとなった。すなわち、魂の滑空と旋回に関する伝承である。『同時代ゲーム』を書き改めたものとして知られている作品『M/Tと森のフシギの物語』から引用しよう。

 この村に生まれた者は、死ねばになって谷間からでも「在」からでもグルグル旋回して登って、それから森の高みに定められた自分の樹木の根方におちついてすごすといわれておりましょう? そもそもが森の高みにおったが、ムササビのように滑空して、赤んぼうの身体に入ったともいいましょうが?
 疑う理由もないままに、私はそれをずっと信じてきましたよ。信じての上でということであるのやが、私にはまた別の気持ちもありましたが! 森の樹木の根方から滑空して降りて、谷間や「在」で赤んぼうとして生まれ、生きて暮して年をとって、死ねば旋回して森に登り、樹木の根方におちついて次の滑空を待つ。それの繰りかえしならば、私らのいのちというものはらちもないしきりもないと、思うておりましたよ。それならば生まれることも・死ぬことも、苦しいばかりの繰りかえしで、意味のないことではないかとな、心細く寂しゅうなることもあったのですが!

「村=国家=小宇宙」で生まれた者の魂は、身体が死ぬと、森へとらせん状に登っていき、自分の木の根方に帰る。そしてしばらくすると、森から滑空して降りてきて、新たな赤んぼうとして生まれなおす。そのような転生が、どこまでも繰りかえされる。ここで語っている「僕」の母親も指摘するように、そのイメージにはどこか閉鎖的な印象が拭えない。
 それを打破するために行われるのが、「森のフシギ」への新たな意味づけだ。

 私らはいま、ひとりひとり個々のいのちであることを大切に思うておるが、「森のフシギ」のなかにあった時には、それぞれ個々のいのちでありながら、しかもひとつであった。大きい、懐かしい思いにみちたりておった。ところがある時、私らは「森のフシギ」のなかから外へ出てしもうた。ひとりひとり個々のいのちであるから、外へ出てしまうともうバラバラに、この世界のなかへ生まれ出てしもうた、そういうことじゃなかったろうか、と思うたのでしたが!(…)自分のいのちのなかにな、「森のフシギ」という、自分らがもともとそこにあったものに懐かしさを感じておるのじゃなかろうか? そのいのちが、ある時は、いったんバラバラに離れて行ってしもうておった仲間たちを集めて、娘らも語ろうて、「壊す人」にひきいられて船に乗り海に出て、また川をさかのぼって・流れの道すじを辿って、この谷間まで戻ってきたのやなかったろうかと、私は考えたのですが!
 それは「森のフシギ」が、みなを自分のところに引き戻す力を――懐かしさの力とでもいうものを――ふるうたのでありましたろうな! そのようにしてこの谷間と「在」での、私らの暮しがはじまったのやろう……ここで人が死んだらば、になって森の高みに登って、樹木の根方にとどまる。それも「森のフシギ」が、この森の樹木を特別なものにしておるからでしょうが! そしてやはり「森のフシギ」に励まされて、は新しい赤んぼうの身体に入るのでしょう……
 それは確かに同じことの繰りかえしではあるけれども、なぜそのような繰りかえしがあるかといいますならばな、それはがみがかれて、「森のフシギ」のなかにあった、もとのいのちに戻れるまで、清らかになるためだと思いますが!

 ここにきて、「森のフシギ」はその起源が語られている。個々の魂が、個々でありながらも全体としてそのなかに含まれるところの、一点として。「森のフシギ」は今もそのような一点となるよう、引力のようなものを働かせており、魂の目標は、「森のフシギ」へと帰ることにあるとされているのである。しかしこれは、先の『同時代ゲーム』への検討と大きく矛盾するのではないか? そもそも「森のフシギ」は宇宙から飛来した言語記録媒体なのであって、人類の最後においては膨大な情報を蓄えた一点となるのだろうが、そのぶん最初の一点としては、「かたちも色もない」「なにも書いてない紙のような性質をもつ塊り」であったはずだ。『M/Tと森のフシギの物語』ではそのような意味づけが失われたのだろうか? そうではない。『M/Tと森のフシギの物語』にも、しっかりとそのような描写が(文章をそのまま書き写したかのように)見受けられる。つまり、一見矛盾するような意味づけを解消する方法が、ここには隠されていることになる。少なくとも大江は、その方法を見つけられたがゆえに、『同時代ゲーム』に書かれなかった伝承を、それ以後の自らの世界観の根底となるまで発展させられたはずだろうから。
 手がかりとなるのは、『M/Tと森のフシギの物語』で新たに加えられたもうひとつの挿話において、「森のフシギ」が音楽と結びつけられているということだ。神話と歴史を語り続けてきた母は、孫である「光さん」の作った音楽を聞く。そのとき、

これは “Kowasuhito” という題ではあるけれども、「森のフシギ」の音楽じゃと思いましたが! 「壊す人」もはじめは「森のフシギ」のなかのいのちであったのじゃから、そしてまたそこへ帰って行かれたのじゃからそうであっておかしくはない、自分もはるかな以前「森のフシギ」のなかにおった時、この音楽を聴いておったのやろうと、そう考えるようになりましたが!

「森のフシギ」は、魂の起源として、そして魂の引力としての役割に加えて、音楽までをも、その内に含むことになる。いよいよ言語記録媒体からは大きく外れてきたように見えるが、それを端的に無理解だと言わんばかりに、母は『同時代ゲーム』で「僕」が森のなかで体験したような出来事を、音楽を通して得ることになる。

森の奥の方から、リンリンというふうにな、音楽が鳴っておるように感じて、思わずふりかえって見ましたが! そうしたらば眼も耳も悪うなってしもうておるのに、森の奥のひとつの場所がボーッと照りわたっておるのが見えて、そこからリンリンと音楽が聴こえて来るのですが!

 それから私は思いたって、病院に持って来ようと荷造りしておった光さんのテープを自動車の機械にかけてもらいました。ピアノの音楽で、リンリンという音はせぬけれども、本当に同じ音楽でしたよ!(…)その場所で「森のフシギ」がいつもリンリンと音楽を鳴らしておるのを、(…)光さんは耳ざとく聴きとっておられて、心におさめて帰られたのですな! それを紙に書かれたのですな! 私は光さんのテープを聴きながら、林道にはさまれておる「森のフシギ」に、私らはあなたの音楽を聴きとって、それをいまこのように送りかえしておりますよと、誇らしい思いでおりました。

 森から聴こえる音楽。ピアノであるからリンリンという音がしないにも関わらず、「光さん」の音楽は、「森のフシギ」の音楽と、「本当に同じ音楽でしたよ」と語られる。別のかたちのものが、まったく同じものとして認識されること。
 さらにここから、大江のエッセイのひとつをつないで引用することで、「森のフシギ」と呼ばれているものがなんであるかが、ようやくかたちを持ってあらわれてくるように思われるのである。

 母親が生の最後まで彼女の世話をした妹を介して私に伝えた、最終的な和解の言葉があります。私がこれまでに書いた土地の神話=民話宇宙についての物語は、すべてあらゆる細部についてまで真実であったし、この土地から「外部」に墜ちて行った私がそこでなしとげた最良のことは、この土地の神話=民話宇宙のすべての根本にあるものを、障害を持つ子供をつうじて音楽に表現したことだ。そしてその音楽は、この土地の地形学的構造のなかで、過去においても未来にわたっても、つねに鳴り響いてきたものであり、鳴り響くはずのものだ、と母はいったということでした。
 いま、私もその音楽を心の耳に聞いていると思います。

「小説の神話宇宙に私を探す試み」『大江健三郎・再発見』

 現実と虚構を超え、物語と音楽の媒体的な違いを超え、さらに過去・現在・未来を横断して見出される、根本としての真実。それに関わるものこそが「森のフシギ」であったとしたとき、多くの矛盾は、入り組んだ構造体の一部分へと昇華されることになる。つまり、「森のフシギ」は、この世界と、そこにある魂の、それぞれが持つ運動の関数として、想定しうるあらゆる世界の外部から到来したものであると同時に、この世界の運動を記録し続けることで関数自体をこの世界の内部で生成する媒体でもあるという、そのようなものだったのだ。
 ここにある宇宙が、それの内部で働く物理法則を分析されることで、あらゆる可能性の宇宙を計算的に発生させるように、一点が、すなわち全を含む状態へと変化すること。その変化の運動こそが、この世界の存在する根拠であるという考え方が、「森のフシギ」を通してなされている。空間×時間ユニットのイメージで、多宇宙に内包された宇宙船のようであった「森のフシギ」は、多宇宙を最も持続しうる「正しい順序に」選びとるという運動のルールを担うことで、多宇宙の万物性を内側から超える。「壊す人」は「森のフシギ」のなかに回収される。無限に散らばると同時に静止した魂を、それぞれの性質に従って縫合し、時間を経過させ、いまこの瞬間の生を無限のなかのひとかけらではなく、無限を想起させるひとつの場として理解するような状態を制作すること。そのような「遅れた総体」の成立過程が、あらゆるものの起源であり真実であり目標であるとされる。
 ゆえに言葉と音楽は、それぞれの持つ媒体的な違いよりもさらに根本的な位相で、通底する。その位相こそが、主体、ないしは魂と呼ばれる場である。「森のフシギ」は、単に言葉を記録しているだけではない。言葉を刻まれるたびにかたちと色を変え、それを膨大な時間のなかで続けていくことで、魂の質を抽出している。つまり、言葉を発する個体の現在、視覚、環境を、それこそ人類誕生から人類滅亡までの時間に語りかけてくる膨大な数の世界認識を蓄積すれば、そこにはやはり膨大な数の矛盾があらわれることになる。しかし、「森のフシギ」はたったひとつの塊であるため、それらのなかから、架空の一点として、全体を矛盾なく見渡す場が作り上げられなければならなくなる。その場は、人類の終わり(「森のフシギ」が人類そのものを表象するかたちと色を獲得する瞬間)に、ようやく生まれるものだろうが、しかしそれに対して現在はどこまでも遅れている。

 また、同じように、世界創造の瞬間にも統一的な場はあっただろうが、そこからは逆に現在は速すぎている。私が知覚している現在は、すでに知覚可能なかたちで総合されている時点で、もはや現在そのものではない。現在は、別の時間との総合と関わることで、かろうじてどこかから取り戻される。私が私として世界を知覚するための「森のフシギ」。よって、次のようなイメージも、すでに過ぎ去ってしまった過去、いつかは再び取り戻されるだろう未来として、「懐かしさ」とともに想起されることになる。

「森のフシギ」のなかにあった時には、それぞれ個々のいのちでありながら、しかもひとつであった。大きい、懐かしい思いにみちたりておった。ところがある時、私らは「森のフシギ」のなかから外へ出てしもうた。ひとりひとり個々のいのちであるから、外へ出てしまうともうバラバラに、この世界のなかへ生まれ出てしもうた。

 決して満たされることのない一点として、「森のフシギ」は現在を記録しつづける。その記録の営み自体が、現在を認識する魂・主体の場となり、この世界で無限に繰り返されるかのような生もまた、その営みのなかで「どこへかはわからないがどこかへとむかっている私」として理解される。魂の引力としての「懐かしさの力」。そのようなものを供給し記録する媒介物として存在しているために、「森のフシギ」は、言葉を受け止めながら音楽を奏でることもできたのだ。
 すなわち「森のフシギ」は、無限に繰り返されるだろう複数の現在、複数の生を、ひとつの過去として想起するために必要な魂-主体の場として機能する、それ自体は世界外的なメディウムである。
 では、なぜそのメディウムの記録する対象は、言葉でなければならなかったのだろうか。「森の怪物フシギを派遣した異星人」が、「地球の人類の特質を、「言葉」そのものだとみなし」た理由はどこにあるのか。宇宙性を付された丸石に刻まれていたのが、音楽ではなく二行の詩であることの意味を、どう考えればいいのか。

 

 言葉を与えられることによって、自らの姿を変化させること。「森のフシギ」のそのような性質に注目したとき、その性質を「森のフシギ」と共有することによって、「森のフシギ」に与えられた「宇宙から飛来した記録装置媒体」としての性質をも自らのものとする存在が、『水死』のなかで特権的な位置に据えられていることに気づかずにいることは難しい。それは、他でもない「私」なのだから。

(以下未定)