頭の割れた媒体、宇宙からの石碑の質(大江健三郎とメディウム①)

 

水死 (講談社文庫)

水死 (講談社文庫)

 

 

 石に刻んだ文字だ。まだ、つむっている自分の目にそれは見えないが、それを見れば自分は打ちのめされて、老年に至った自分の生は無意味だったとさとるだろう。目を開けないまま、すぐにもやってくる、耐えることのできない巨大な頭痛によってすべて終わる方がいい。しかし、私は目を開く。60度の円盤がザーッと崩れる前に、幻の丸石に刻まれた二行の詩を読む。

 コギーを森に上らせる支度もせず
 川流れのように帰って来ない。

『水死』前半部において、特権的な語り手であり、さらには大江健三郎という書き手をあまりにも強く連想させる人物「私」(長江古義人)が、小説を書けなくなってしまい、単独の語り手という立場から引きずりおろされてしまう(正確に言えば、手紙や演劇などといった作品内装置の導入によって、語りが過剰化し、一人称代名詞の示す言語表現主体が内側から暴発する)きっかけとしての、大眩暈の描写。

「私」はそのとき室内にいるため、一般的な物理法則から言うならば、目を開かなければ観ることのできない二行の詩は、幻想の類だと言えるだろう。しかし同時に、まぶたを開き直視するという、「私」の肉体的行為を伴わなければ知覚することのできない情報として描写されている点では、単なる幻想とは異なる性質が与えられていることも、また確かである。すなわち、その言葉は、「私」の身体行為が存在の一条件となることによって、「私」の読む読まないにかかわらず知覚される、物質的な視覚情報としての側面を、「私」という場において与えられている。
 さらにここで、加えて読み手は奇妙な戸惑いを覚えずにはいられない。なぜなら、語り手の「私」において現出させられている言語の視覚的物質性が、書き手によって、「私」とは別の位相で再現されてもいるということに、自身の感覚から、気づいてしまうからだ。『水死』の読み手が、このテクストの印刷されているページに差し掛かったとき、読み手はそこで、インクにかたどられた二行の詩と直面する。その言葉がなにを意味するのか、どのように発声すればよいのかもわからない、そんな状態においてさえも、二行の詩は、読み手の脳に視覚情報を生起させる。つまり、語り手の「私」と読み手の「私」が、二行の詩を蝶番に、同じ物体を観るという経験を共有するという、そのような体験を、読み手の内部に生じさせるような言葉の配置が、ここでは行われているということを、私は私の戸惑いによって、否定できないのである。

 ただし、忘れてはならないのは、そのとき二人の「私」の経験が、戸惑いを抱えながら似通うとして、それは視覚情報の客観的類似を根拠としているのではない、ということだ。つまり、眼球が光として捉えるページ上の黒々とした文字列と、丸石に刻まれた文字列が、物質的に類似しているために、それを知覚した二人の「私」の経験が似通っていると、読み手の私が認識するのではない。印刷された二行の詩は、丸石に刻まれた二行の詩がどのような視覚情報としてあったのかを伝達してはいないし、丸石がどのような形や色であるかなども、ここでは問題とならない。それは書き手においても確定不可能だろう。書き手もまた書くなかで経過する時間によって、過去の自らの知覚や記憶から遠ざけられ、再度その文字列にもどってきたときには、別の知覚に満たされることを避けられない。

 そのため、丸石に刻まれた文字列が不確定であることは、小説が視覚情報を欠いた表現であることに由来するのではない。小説という表現方法自体が、テクストと人間の接触において立ち上がる一瞬ごとの知覚と、それらの、本来ならばありえないはずの反復-再現を通しておぼろげに成り立つ思考の様態こそを、実質としていることに由来するのである。その意味で、小説に視覚情報が存在しないのではなく、安定-統一した視点の位置が定まらない――視覚情報が過剰すぎる――のであり、その定まらない視点のなかで、語り手と読み手のそれぞれの「私」の体験に、類似があらわれるとして、その類似を類似たらしめているものは、ページに印刷された文字列でも、また、神経細胞を駆け巡る視覚情報の数値でもない、言語の持つ媒介性である。

 その媒介性が正しく機能して言語を反復-再現させる場は、由来不明の直感によって、やはり「私」と命名されるだろう。それを証明するかのように、二行の詩を目にする語り手の「私」は、事前に頭をふたつに引きちぎられ、死へと追いやられている。そのような準備が整った上でこそ、二行の詩は飛来する。読み手の「私」のもとへも同様に。

 

 では、詳しく見ていこう。まず、このテクストが含まれているところの『水死』第五章第四節、その最初の箇所から。

この夜、早くベッドに入ったこともあり、夜明けにはまだ長い時間があるうちに目ざめた。私は眠りの終りがたすでに、心理的なというより身体的な恐慌に苦しんでいた。暗闇のなかで、あるかたちのものが現われるというより、そのかたちが崩れる仕方で消滅する。その勢いが大きいショックをもたらすのに、そのように認知する頭はシンとしている……

 暗闇に見出されるかたちは、出現ではなく、その崩れる動きによって「私」に認識される。頭はシンとしていると書かれることによって、かたちの崩れる運動は、「私」の外に据えられるが、とはいえ恐慌は、「私」の身体に関わるものとして訪れているらしい。
 それと呼応するように、次の段落では、「私」は自分が眩暈に襲われていると気づくことになる。だが、眩暈を象徴としての「黒い60度角の円盤の崩れ」は、私の外、たとえば「本棚の背によって埋められてい」るようなかたちで認識されつづける。そもそも「かたち」の崩れは暗闇に見出されていたのだから、初めから「私」の視力が捉えていたわけではない。「私」は、「私」の身体に生じた異常を、身体の外において行われる消滅の動きとして認識する。あるいは「私」の視力は、「私」の身体をいったん外に反映した上で、視認の不可能性として「かたち」を視認する、そのような半ば当たり前の性質を増幅した視力を獲得したと言えるだろう。
 続いて、

 これはかつて経験したことのない強力な眩暈だと、もっと目ざめている認識が来た。
 そのように認識しながら(認識できるのは、身体こそ眩暈にとらえられているが、脳は正気ということだろう、とも認識している)これはまだ始まったばかりなのだ、と思う。

目を開けば認識はザーッという崩落に切れぎれにされるのに、目をつむっている限り、幾らかのことを考えることはできる。

 身体と切り離された認識は、認識を認識する、という連鎖を成立させるが、しかしひとたび目を開けば、「私」の認識は「黒い60度角の円盤の崩れ」を模倣して、「ザーッ」と崩落する。この時点で「私」の認識は、目を閉じ、視覚を封印しなければ成立しないものとなっている。自分の身体性を視覚において極端に増幅させられた結果、それが視覚の崩壊として視覚されてしまう状態にある「私」は、身体と切り離された(と「私」が認識しているところの)認識までをも、目を開いてしまった瞬間、それが直視してしまう外在的な自己の身体性の異常に巻き取られ、「私」から切り離されることになる。
 重要なのは、このとき「私」がいるのが暗闇の部屋であると描写されているということだ。そもそも「黒い60度角の円盤の崩れ」は、「私」の意識がなかった夢のなかでも「私」を襲っていたのだと、いま目ざめている「私」によって認識されている。このことからして、視覚の暴走は、そこになにかが視覚像として認識されるということに由来せず、ただ「私」が目を開くというその運動にこそ由来していると言えるだろう。これは小説という、言語で構成された表現方法のあり方とも合致する。つまり、テクストに「私は目を開く」と書かれた瞬間、「私」は視覚にまとわりつくあらゆるものを呼び寄せてしまう性質を帯びる。そこでなにかが見える、もしくは見えないということに関わらず、「私は見る」。
「私」はこの大眩暈によって、自分の脳の働きが以前のようでなくなることを恐れはじめる。「小説家としての私」が終わってしまうからだ。「私」は書きかけの草稿をすべて廃棄するよう指示するメモを残そうとする。

私は力を得る。しかし何を廃棄せよ、と書くか? 何ものも私の頭に浮かばないが、それは私の頭が混乱し無力になっているからではない。私は明快な脳の働きを自覚する。私の頭に何も浮かばないのこそ正しいのだ、どんな進行中の仕事もないのだから。大きい安堵と悲惨な自己嘲弄の思いがこみあげてくる。つまりは、ここにいるおれはすでに死んでいるに等しい。死んでいる自分に、死への恐怖が一切ないのは、あたりまえのことだ。続いて、それとは別の恐慌の感情がやって来る。石に刻んだ文字だ。

 こうして、本節最初に引用した箇所へと続くことになる。
「それは私の頭が混乱し無力になっているからではない。」この、あまりに冷静すぎる頭上からの声が響くことで、「私」は脳の働きとは別の「頭」を見出す。「(認識できるのは、身体こそ眩暈にとらえられているが、脳は正気ということだろう、とも認識している)」という文章を思い出しておく必要がある。身体とは別の、認識を正常に支えるものとしてあげられていた「脳」は、ただ明快なだけであったと「認識」される。「私」の「頭」は、認識を支える「脳」とは別に、空白であり、そのことは「私」の死へと直結する。「私」は死んでいたのだ。小説家である「私」の死。
 そしてなお、小説家として死んだ「私」の前に、「別の恐慌の感情」が訪れることになる。この節の最初の箇所で、「心理的なというより身体的な恐慌に苦しんでいた」という文章があったことを考えれば、「私」の恐慌・大眩暈は、身体から別の領域へと移行したようだ。
「別の恐慌の感情」としてやって来るのは、一見して感情とは思えない、「石に刻んだ文字」である。それは確かに、単なる物質ではない。「まだ、つむっている自分の目にそれは見えない」。けれどもそこにあるということは認識できていて、「それを見れば自分は打ちのめされて、老年に到った自分の生は無意味だったとさとるだろう」。この「だろう」は、推測などではなく、非常に強く確定された未来を示す言葉として機能する。目を開く前からそこにあることが理解され、その文字の示す内容も、それを読んだ後の「私」の行為として理解されている。しかし、それを読むためには、「私は目を開く」という身体的動作の記述が必要となる。つまり、ここで書かれている「石に刻んだ文字」は、正常な「脳」のみが循環的に行う認識だけでは、ただそこにある予期的な情報でしかない。それが確かに読まれ、「私」の身体的行為を促すような情報となるには、身体性の暴走しつつある視覚を用いなければならない。言葉は、「脳」の行う認識の自己循環とは別のところから到来する。私の認識が、欠落を帯びた身体に巻き込まれ、ザーッと崩れながら、二行の詩が出現する。

 小説の読み手が印刷された文字として目にしたものでも、語り手が自分の体験を思い出しながら記したものでもない、由来不明の、しかし自らの身体性を巻き込んでもいるのらしい言葉。それは「私」を、特権的な語り手からも、『水死』という長編小説を無事完結させた大江健三郎の表象からも切り離してしまう、死よりも恐ろしい言葉としてあり、「自分の生は無意味だったとさと」った「私」は、死のなかにおいて、「私」の生を無意味なものとして辿りなおさずにはいられない。
 現在の自分を根こそぎ崩壊させていく死者の衝動は、二行の詩に対しての身のこなし方として、『水死』の読み手にも提示されることになる。そのような提示が、それまでなんの問題もなく小説を読み進めていた私と、「私」という主語を、類似させるだろう。
 だが、類似を類似と判定するのはいったい誰なのか。それは、他でもない私自身だ。類似した、という感覚は、次の瞬間、決定的な分裂を生じさせる。これまで類似など意識していなかった私のなかに、ふたつの私が見出されてしまう。この言葉を見ている私と読んでいる私をつないでいたなにかが、いつのまにかほどけている。しかもそれは、言葉を読んでいる私が、言葉を見ているいくつもの瞬間の私たち――しかも言語で表象された語り手の「私」という、実際には体を持たず、現実に生きてもいないはずの存在を含む私たち――をひとつに束ねていることに、由来するものでもあるのだ。
 虚構と現実、過去と現在と未来、それぞれが私の複数を生み出す。いくつものの場所に、ひとつの「私」が命名されること。いくつもの視覚が、ひとつの認識へと統合されること。相反するふたつの運動が、私の思考において、まったく同じものとして確保されてしまう。
「私」の大眩暈も、そのような錯覚的関係が不調をきたしたことに由来するだろう。錯覚的関係が極端に増幅させられたのか、それとも完全に停止させられたのか。いずれにせよ、そこに二行の詩が関わっていることは確かである。しかし、なぜ二行の詩だったのか?

 (つづく)