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第一幕 子どものころの少女と大人になった男の子の話が、ふたつの線路に挟まれることでようやくはじまる。時間は西暦2014年から、暑さと光の重みを勘違いするまで。

 4年ぶりに歩いたすごく赤い草むらのわきの踏切で、
「映画が撮れそうなんだよ」
 とうれしそうなことを言うから、わたしはアカリが映画監督になってわたしがその映画を見るんだと思って、そうなればなにもかもがずっと忘れられずに世界に残ると思って、わたしはもうそれ以外のことが一生考えつかなくなってしまった。

 小高い丘の上にある高校からいちばん近くの無人駅までの、住宅地をうねうねとくだる坂道が、丘の傾斜から離れて平坦な道になるところで、20分に1回、特急列車の走る線路と、15分に1回、小さな電車が走る線路の、2本が平行に道を切り取っている。その15メートルくらいのすきまのなかに、高校の制服を着たアカリが立っていた。夏になれば、道の両側は背丈よりも高いくらいの草に埋めつくされる。そのときはまだ夏と春の境目のようだった。アカリは、まだ発売されていないiPhoneを、両手の親指と人差し指で掲げて、じっと画面越しに景色を見つめていた。映画のなかで、右奥から左手前にかけて草がなびいていき、風が吹く。日差しと電車の音が、ほんの少しだけ、わたしの後ろ側へ揺れる。

 YouTubeにぜんぶアップされているその映画の真ん中から4分の1くらいを見終わって、もうすぐ眠ろうかな、と、日曜日のマンションで夢を見ている。外国の男の人が、家の前で大声の歌をうたっている。

 アカリが高校生のころ、お金を貯めて買ったフィルムカメラを毎日学校の青い手提げかばんのなかに入れて、登校してきたことを知っている。ときどき、休み時間に盗まれていないかを確認した。
 授業が終わると、部活があったけれど、そのあとの夕方の帰り道に、ふらふらといろんなところをひとりで歩き回って、気になるものがあったらカメラを取り出した。それをアカリは現像して見せてくれたことがあった。本当は写真じゃなくて映像で撮りたいんだっていうことが、写真の撮り方にあらわれているような気がして、それでもなにも言わなかったから、もうしわけなかった。
 2014年になったわたしたちは、お金のないアルバイトも禁止されているような中学生でさえ、映画を撮ろうと思えば撮れてしまうように気づけばなっていた。あの時のアカリはそのことを言っていたのだった。でも、わたしは映画を撮りたいなんて死ぬまでに一度も考えてみたことがなかったから、「映画が撮れそうなんだよ」なんてうれしそうなことを言われたら、そればっかりに頭が満たされてしまった。
 わたしの想像しているまだ幼い(たぶん16歳になったばかりの)アカリが、学校で禁止されているiPhoneを持ってきて、もちろん学校のなかでは使わずに、学校と家の行き帰りのなかだけで電源を入れて、子どもや線路やカブトムシを撮っている。それを家で編集して、短い映画にしたものを、わたしが見ている。そのわたしは、いまのわたし。22歳になったわたしだ。高校生のころのわたしは、写真にもなっていない。
 わたしたちは高校生のころにいっしょの学校だったことを知らない。