ベンヤミンの歴史と大江健三郎の宇宙船

注:後日、新しくよいものを書きました。

ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」 - describe, 



ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

 

 「歴史の概念について」(歴史哲学テーゼ)のなかで、過去の解放としての歴史記述に至る過程をベンヤミンが語るとき、奇妙な飛躍が生じる。そこでは、「思考」と「歴史的対象」というふたつの言葉が、「モナド」を蝶番に可換的に用いられている。

唯物論の歴史記述の根底にあるのは構成的な原理である。思考するということには、さまざまな思考の運動のみならず、同じようにその停止も含まれる。思考がもろもろの緊張に飽和した状況布置において突然停止すると、そのとき、停止した思考がこの状況にひとつのショックを与え、そのショックによって思考はモナドとして結晶化する。歴史的対象がモナドとなって歴史的唯物論者に向かいあうとき、もっぱらそのときにのみ、彼は歴史的対象に近づく。この構造のなかに彼は出来事のメシア的停止のしるしを、言いかえれば、抑圧された過去を解放しようとする戦いにおける革命的なチャンスのしるしを認識するのだ。

 思考がモナドとして結晶化することが描写された次の瞬間、歴史的対象がモナドとなる文章が書きつけられる。どうしてだろうか。

 ベンヤミンはこのテクストで、ふたつの歴史観を退けている。進歩史観と歴史主義だ。前者は、歴史をひとつの発展の系列として見る。だが、歴史の記述者は自らの因果律を手放すことなどできないために、それは客観を装った主観とならざるをえない。一方で、後者は、主観性を意識してはいるものの、その記述の際に、出来事の大小などで取捨選択してしまうために、忘却された歴史が残りつづけるという問題をうやむやにしているだけにすぎない。つまり、ベンヤミンの提示する方法は、主観と客観を調停するものでなければならない。でも、そんな方法がありうるんだろうか。

 そこで、彼は思考について考える。ベンヤミンが「思考する」というとき、そこには「さまざまな思考の運動のみならず、同じようにその停止も含まれる」。つまり、思考するということは、運動と停止の両方がないまぜとなったものであり、いわば思考のリズムこそが、そこで重要とされるのである。

 そして、そのリズムが、自らを取りかこむ状況布置にショックを与えると、その与えたショックによって自らをモナド化する。ここで注目すべきは、ショックを与えるという動作が、その動作におけるショックを要請し、それによって補填されたショックが、自らの発生源たりうるものとして、思考をモナド化する、というような順序が見え隠れしているということだ。思考のリズムが、環境と干渉することで、ひとつのショックとなり、思考はそれに足りうるようなモナドとなる。では、環境はその過程のなかでどのように変化するのか?

 ここで、最初の問題にようやくもどることになる。思考のモナド化が語られた次の瞬間、記述者は歴史的対象のモナド化を記述する。この一瞬のすりかえは、「思考」と「歴史的対象」というふたつの言葉をイコールで結ぶようなものではない。両者のモナド化が、ある種の並行関係を結んでいるということを示しているのである。すなわち、歴史的対象は、状況布置が思考のリズムによって変化したものではないだろうか。

 補遺には、歴史家についての次のような文章が見られる。

自分自身の時代が以前のある特定の時代と出会っている状況布置を、彼は把握する。そのようにして彼は現在の概念を、メシア的な時間のかけらが混じりこんでいる〈現在時〉として根拠づけるのである。

 そのような現在時は、歴史の記述者の記述という運動に由来する。

移行点ではない現在の概念、時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念を、歴史的唯物論者は放棄できない。というのも、この現在の概念こそ、ほかならぬ彼自身が歴史を書きつつある、まさにその現在を定義するものだからだ。

 ベンヤミンによる過去の解放は、記述者と記述を抜きには成立しないものであり、同時にそれは、主観が取り逃がすところの忘却された過去を記述するものでなければならない。そこで主観と客観を調停するのが、思考のリズムなのだ。その極めて唯物論的な存在が確保されることによって、記述者と記述は、複数の時間と過去を結合してしまう。そのように結合したとき、歴史的対象は記述者に接近可能となる(いやむしろ、接近したものが歴史的対象となる)。

 つまり、思考のリズムが発生したところに、記述者の思考と歴史が生まれる。ゆえに、主観的なものでしかありえないはずの歴史記述に、とつぜん客観性が見出されることになる。それは、過去に起こりえなかったことでも客観的な歴史として成立してしまえることを意味する。

過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを〈実際にあった通りに〉認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。

 ベンヤミンは、想起を経験とあわせて考える。時間は均質でも空虚でもないものとして経験される。その経験の方法は、過去の想起の方法と「まったく同じ」である、と。そしてそのとき、想起は、未来を「どの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門」へと変える。もはやそこでは、歴史は過去に限られたものではない。生命と環境の干渉のなかに見出され、あらゆる時間を孕んだモナドとしてのリズムが、どのように記述されるかというところに、歴史の概念はある。

 ゆえに、ベンヤミンは、「抑圧された歴史を解放しようとする戦いにおける革命的なチャンスのしるし」についての文章に続けて、極めてスムーズな移行とともに、生と作品について語りはじめる。

彼はこのチャンスを認めるや、歴史の均質な経過を打ち砕いて、そのなかからひとつの特定の時代を取り出す。同じようにして、彼はこの時代からひとつの特定の生を、そしてこの生のなしたすべての仕事(作品)からひとつの特定の仕事(作品)を取り出す。彼のこの方法の成果は、次の点にある。すなわち、ひとつの仕事(作品)のなかにひとつの生のなした全仕事(全作品)が、この全仕事(全作品)のなかにその時代が、その時代のなかに歴史経過の全体が、保存されており、かつ止揚されているのである。歴史的に把握されたものという滋養ある果実は、その内部に、貴重な味わいのある、がしかし趣味的な味とは無縁の種子として、時間を孕んでいる。

 この時間が、リズムとして抽出される。作品を制作するとき、その制作は、決して趣味的ではない、なんらかの時間性を孕んでいる。

 

大江健三郎・再発見

大江健三郎・再発見

 

 

 さて、ここにきてようやく大江健三郎を見てみよう。『取り替え子』を書き終えたところで、ベンヤミンを読みはじめたと言う大江は、「死んでいる人間をして、あらためて十全に生きせしめる。死んでいる人間に生き生きと語らしめる」ことを小説の夢として提示した上で、次のように言葉を展開する。

僕自身のなかで、死んだ人間がどのように生きるかということが、子供の時からの大きな問題です。未来のことを考えるよりも、過去のある一時点を考えて、そこで死んだ人間をもう一度生きさせるということが、僕の願いだった。それは父が死んだあとずっと考えていました。その点、ベンヤミンの有名な歴史哲学についてのテーゼにも似たものがあります。彼が考えているのは、過去の一時点に視点を置いて、そこに情緒的に同化しようとするのではなくて、歴史によって捨てられた方を選択する、という方法です。プラスとマイナスの二分法で歴史は進行します。もう一度その捨てられたマイナスの方を組み替えて、その意味を探っていく。それが、今後の僕の小説の書き方になるだろうとも思っています。

 この後に、大江は、自らの過去の作品群を星座として結ぶ考えを見せるのだが、問題は、歴史によって捨てられたものとして死者が語られるということである。死者は歴史に捨てられたのか? 捨てられたのは生者の語りのなかで見出されうる消失としての死者なのではないか?

 死者に語らせるとき、あらゆる現象の起源となっているのは、まさしくこの文章で問い続けてきた思考のリズムである。そのリズムがあるパターンで生じたとき、私は死者としての生を記述することとなる。ゆえに、作品は、無数のリズムの集合体として見なされる。リズムは、多層的に結合を生み出していく。個々の作品から、その生における作品群へ、さらには歴史全体へと。リズムという物質は、時空間を超越した関係性として、時空間を創発する。

 ベンヤミンのテクストが、宇宙大のスケールへと広げられたところで終わるのは、それゆえにである。

メシア的な時間のモデルとして、全人類の歴史を途方もなく短縮して包括する現在時は、人類の歴史が宇宙の全体のなかで見えているその姿と、ぴったり重なる。

 複数の、存在しなかったかもしれない宇宙を貫く時間としての思考のリズム。わたしが書くこと。死者の生をまとうこと。この宇宙に数えきれないほど同じ地球が無限に存在しているかもしれないこの世界のなかで、その箍の外れたような距離を移動する宇宙船としてーーわたしがわたしとして時間のなかに、死なないままに、生きることとしてーー書かれる小説、その動き。

同時代ゲーム (新潮文庫)

同時代ゲーム (新潮文庫)

この太陽系にとどまらず、銀河系宇宙に見出されるすべての惑星、それになお別の複数の宇宙、そこに見出さるべき無限なほどの数の惑星。それらの星のいずれに向けても、一瞬で到達しうる宇宙船があるものとする。無限なほどの数の惑星のうちには、地球と似かよった環境の惑星も、やはり無限なほどの数あるだろう。そこには人類と似かよった生物も、これまた無限なほどの例が見出されるはずである。そのようなほどんど無限の数の人類、また人類に準ずる者らについて、宇宙船で訪ね歩く。それはそのいちいちの惑星に、それ固有の時があり、つまり空間×時間のユニットをなしているのに接することだ。もしそれらほとんど無限の数の、空間×時間のユニット群を一望のもとに見わたしうるならば、それを見る眼は、地球の人類史の全域にわたることどもが、いちどきにすべて起こっているのを眺めることにもなるだろう。そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかから、ゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう…… いまわしらが生きておる、この今につながってくる歴史も、そういうもののひとつにすぎんか知れんが!

 このような宇宙船は、大江の初期作品から現在に至るまで、おそろしいほど一貫して見られる。


芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

戦場もふくめて世界じゅうで、ああ、なんと多くの人間が死んで行くことだろう。そしてそれよりもなお数多くの人間がそれらを埋める穴を掘るのだ。僕には僕らの一つの墓が
世界じゅうへ無限にひろがりつらなって行くように思われた。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

雪はなおも降りしきっている。この一秒間のすべての雪片のえがく線条が、谷間の空間に雪の降りしきるあいだそのままずっと維持されるのであって、他に雪の動きはありえないという不思議な固定観念が生れる。一秒間の実質が無限にひきのばされる。雪の層に音が吸収されつくしているように、時の方向性もまた降りしきる雪に吸いこまれて失われた。偏在する「時」。素裸で駆けている鷹四は曾祖父の弟であり、僕の弟だ。百年間のすべての瞬間がこの一瞬間にびっしり重なっている。
私は生き直すことができない。しかし/私らは生き直すことができる。


 大江の小説は、次のように大江によって語られるからこそ、思考の問題として読まれるべきなのだ。

今ここにいる生きている僕という人間は作品のかすです。かすだったらば、かすが死んだところで何も痛痒はないという落ち着きが生じつつあります。