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発見について

小説において、重要なのは、「魂の発見」というか、魂を発見しないではいられない人間の能力の方じゃないか。


対談「「聴き手」と「語り手」との共犯関係」いとうせいこう+渡部直己

すばる 2014年 06月号 [雑誌]

すばる 2014年 06月号 [雑誌]


渡部 あなたはしかし、奥泉光さんとの「文芸漫談」でもしばしば、「ので問題」にとらわれるゆえに書けないとおっしゃってきた。「落ちたので、コップが割れた」という、原因と結果の因果関係を提示することが、やるせないのだと。

佐々木敦「新しい小説のために 第五回「小説」の上演(中)」

群像 2014年 06月号 [雑誌]

群像 2014年 06月号 [雑誌]

観客としては、誰が「誰」として語っているのか、などといった「語りの主体」の問題よりも、「誰」のことが語られているのか、「何」が語られているのか、そして何よりもまず「誰か」が「何か」を語っている、という事実の方が、はるかに重要なのである。
存在していない者に同一化することは出来ない。可能なのは、ほんとうは居るわけではない誰かを、その都度、なんらかの方途によって存在する/させることだけである。そして「存在する/させる」とは、虚構の人物が「存在」する「物語」を語る行為と、結局同じことではないのか。


大江健三郎教育基本法憲法の「文体」――さきの講演の補註として」
文学のテクストのみならず、あらゆるテクストに「文体」というものがあります。そしてそれは、当のテクストを書いている人が、どういう時に、どういう気持ちで、どういう読み手に向けて書いているか、を示します。そしてその上で、書かれている内容よりももっとはっきりと、どういう人間が書いているか、を表現してしまうものなんです。
この認知言語学的文体観。……

神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)

神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)


クザーヌス『神を観ることについて』(岩波文庫、八巻和彦訳)
第二章がおもしろい。短いのでぜんぶ引用できてしまう。

「次に留意すべきことは、眼差しは縮限の多様性のゆえに、視力ある者たちにおいて多様に存在するのであるということである。なぜなら、われわれの眼差しは感官および魂の受動から成立しているのだからである。したがって或る人が、或る時には愛を込めて喜びつつ見るが、後には悲しみと怒りをもって見ることもあり、初めは子どものように、後には大人のように見ることもあり、さらには真剣に老人のように見る、ということもあるのである。ところが、いかなる縮限からも引き上げられている〔絶対的な〕眼差しは、同時に一度に全体的な眼差しの様式と個々の眼差しの様式とを包含している。それはいわば、あらゆる眼差しの最も十全な尺度であり、最も真なる原像なのである。すなわち、絶対的な眼差しがなければ縮限的な眼差しも存在しえないのである。絶対的な眼差しは、自らのうちにあらゆる眼差しの様式を包含しているのであるが、それも個々の眼差しの様式が全体的な眼差しの様式であるような仕方で包含しているのである。〔しかもそれ自体は〕いかなる多様性からもあくまでも引き上げられたままで〔絶対的で〕ある。つまり、この絶対的な眼差しには、縮限的な眼差しのあらゆる様式が非縮限的に存在しているのである。つまり、〔眼差しの〕あらゆる縮限が、絶対的な眼差しにおいて存在するのである。なぜならば、絶対的な眼差しは諸々の縮限の縮限であるのだからである。それは縮限されえない縮限だからである。したがって、〔眼差しの〕最も単純な縮限が絶対的な眼差しと合致しているのである。しかし、そもそも縮限というものがなければ、いかなるものも縮限されることはない。かくして絶対的な眼差しがあらゆる眼差しのなかに存在することになる。なぜなら、それ〔絶対的な眼差し〕によってこそ、あらゆる縮限的な眼差しが存在するのであり、それなしにはそれらは全く存在しえないからである。」(強調引用者)

「諸々の縮限の縮限」という表現に関して、訳注には以下のようにある。

「クザーヌスの論述に頻出する「諸々の……の……」とする表現は、神のことを意味する伝統的な表現である「諸々の形相の形相(forma formarum)」という表現と概念に基づいて、クザーヌスが発展させたものと考えられる。このような表現をもって、神があらゆることの根源としてそれらに関わっていながら、しかも、それらを超越していることを、クザーヌスは言い表そうと努めているのである。(…)神による被造物の「包含と展開」の思想が、この表現の根底に働いている。」

「諸々の縮限の縮限」という言葉の、歪みに、視覚や聴覚や触覚とつながらずにはいられない身体-環境間関係があらわれてしまっているかもしれないこと自体が、「可笑しい」。