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あのようなものにせっせとかかわっていないで、おやつをもらいました。⑴

 目の前を走るザトウクジラが、立派な四本足でタクシーを二台踏み潰していく。男の子の乗る赤いきらきらした自転車は、蛇行するかばの格好に仮装した二トントラックが弾き飛ばし、男の子に直撃された信号機は、乾いた肋骨を両手でゆっくりと体重をかけつつ折るような、とてもやさしい音を立てながら雑居ビルのなかの歯医者の看板に倒れこむ。
 ――いいなあ、と女の人の声がする。どうしてあんなふうに元気よくいられるんだろう? 一角獣のおどりを踊る夢遊病の女の子が、ミニチュアの戦車を踏みかけつつ横断歩道を渡っていた。街は夏のあいだもカフカのように冷たいままの鉱物に満ちあふれ、そのどれひとつとして同じもののない内向きな光の反射に眩みながら、それでもアスファルトをよく見て歩いていけなければ、必死に働いて買った丸くてつやつやした革靴はすぐに傷だらけになってしまう。生まれて初めて三万五千円もする靴を選んだのは、自分が一生履いたままで生きていかせるためでもあるのだから。
 あの女の子がわたしだったらよかったのに。渋谷から半蔵門線に乗り、九段下で東西線に乗り換えて先生のマンションの近くの駅に降りたのは、ちょうど午後六時を過ぎたころになっていた。けれど、今思い出してみれば、わたしは冬なのに日のまだ暮れかけていない半透明の夕方へ、地下鉄の駅の階段を登り出たはずだった。
 駅のすぐ近くにあるスーパーで、頼まれたものをメールで確認しながら、醤油味のからあげのパックと、ハーゲンダッツのアイス、それから賞味期限切れのさつま揚げを買った。水玉模様の合羽を着た女の子が、野菜の値札をひとつずつ指差しながら、気に入らないものがあれば数字を並べ替え、すべてが終わるとスキップした。店内にはクリスマスが近づき、大きな声で歌う女の人の英語のリズムが一日中聞こえていた。
 スーパーを出ると、今度こそ陽は暮れ切っていて、小さなお寺の入り口に、何十匹も道に向かって並べられている招き猫の顔が平たく潰れて見えた。子どもたちのいなくなった公園を斜めに突っ切り、すでにシャッターの降ろされた消防署と、ここ二年ほどはずっと休業中のままになっている古いクリーニング店の横を通り過ぎながら、わたしは今日が満月じゃないことに気がついてうれしくなった。オリオン座ならひとつくらいは見つけられる。
 小さな居酒屋の前には、人だかりができていた。囁くようではあるものの、ざわついた、耳障りな声で互いに話しつつ、後ろの人が前に行き、前の人が後ろに行くように入れ替わり立ち替わり、店の中をみんなで物色していた。お客さんがなにかトラブルでも起こしたのかもしれない。人だかりの中からひとり、あまりに痩せすぎた男の人がふらふらとした足取りではぐれ出てきて、両腕を軽く上げ、小刻みに揺らした姿勢のままわたしの隣を歩きはじめた。
 あまりに細すぎるその男の人に、ぶつかられないよう気をつけながら、早歩きで歩いていた。男の人はそうとう酔っているのか、足が全身を支えることのできないほどに不安定になっていて、膝は軽く曲がったまま、五メートルほどの幅の道路の左右を何度も往復していた。
 わたしは前だけを見ようとした。なるべく速く歩いて先生のマンションにたどり着こうとした。けれど、なにかの予感がしたのか、ちらっとだけ右を向いた。道端に立つ妊娠した女の人が、雑居ビルの扉のガラス越しに、ひらひらと手を振っていた。ガラスの奥には細く急な階段があり、そこを薄い紺色のジーパンを履いた女の人が登っていた。冷えたボンドのような蛍光灯の光に照らされた下半身は、一度も振り返ることのないまま、ゆっくりと、腰、太もも、足先の順に姿が見えなくなっていき、いつのまにか妊娠した女の人は消え、階段の右手前、扉の向こう側の小さな空間に、長い髪の女子高生がいた。顔もはっきり見えた。目があった。
 そのとき、わたしはようやく先生のマンションにたどり着いていた。ほとんど小走りになりながら、駐輪場を兼ねた細いエントランス通路に入り、そのままオートロック式の扉を開こうとした。痩せすぎの男の人もついてきた。集合ポストを見た瞬間、わたしはなぜかチラシでも郵便物でも届いていないか確認しなくちゃいけないような気がした。先生の部屋の番号のついたポストの鍵を何度も回してみるけれどうまく開けられず、隣を見ると、痩せすぎの男の人もポストを開こうとしている肩越しに、夜の道路からさっきの女子高生が近づいてきて、痩せすぎの男の人の背中に張りつき、――なんでこんなに近いの、と囁くと、男の人は腰を蝶番に体を背中側へまっぷたつに折り曲げて、口から大量のミナミヌマエビを吐き出したまま停止した。