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『二百年の子供』

大江健三郎『二百年の子供』に関しての別解です。もうひとつは早稲田文学に)

同時代ゲーム』の末尾で、「無限に近い空間×時間のユニット」を一望する宇宙船を描いた著者が、「私の唯一のファンタジー」とする本作で新たに提示したタイムマシンは、ファンタジーであるがゆえにこそ、小説家の生み出してきた小説群=空間×時間ユニットから浮かび上がるひとつの世界観として、明瞭に姿をあらわしている。
 作家である父の生まれ故郷の四国の森を訪れた三人の子供たちは、土地に伝わる不思議な伝承を通して、一八六四年から二〇六四年までを行き来する一夏の冒険を体験し、それを一冊の本として書くよう父から勧められる。伝承とは、「「童子」といわれる特別な子供がよその世界に行きたくなると、「千年スタジイ」の根元のうろに入って、会いたい人、見たいものをねがいながら眠る。心からねがえば、会いたい人、見たいものの所へ行くことができる」というものだ。
 これをきっかけにして運用されることとなるタイムマシンは、その実現のためにも、子供たちが三人組=複数であること(語りが三人称であること)が重要だっただろう。一度目のタイムスリップの最中の出来事をうまく思い出せない妹や弟と違い、障害を持つ長男の真木は、「実際の生活での出来事と、夢のなかでのことが区別できない」がゆえに妹や弟を、直感的な確信に導く。例えば祖母の描いた伝承の絵の中に、自分の名付けた犬「ベーコン」を見つけてしまう。妹や弟は兄のその言葉を解釈の素材として受け取ることで、自分たちが時間を移動したことを、それぞれの得意な絵や文章で思い出し、真木に自分なりの新たな解釈=言葉を返す。さらには三人に限らず、周囲の人々が語り継ぎ、真実として思い出し続ける土地の歴史との間にも、対話は繰り返される。言葉に対する各々の閾値のずれによって、言葉は新たに書き換えられ続け、歴史はその度に破壊的な拡散に晒される。
 その結果、言葉を通して複数の世界を抱え込むことになった子供たちは、鳥の群れに意識を見出すようにして、「ベーコン」を、そしてまた自らも「童子」として、様々な時空に見出し始めるだろう。「ベーコン」と「童子」(メイスケさん)の輪廻転生はその帰結である。つまり、タイムマシンの成立条件は、心身問題で言うところのクオリアに位置する場所に「童子」を生み出せるかどうかという問題に近づいてくるのだ。周囲から受け取った言葉=「童子」を信じることで、記憶の中の自分から、自分なりの閾値で「童子」というクオリアを抽出し、それが別の宇宙に発見できる「童子」(を創発するパターン)へと錯覚的に重ねられて初めて、過去に自分が別宇宙へ移動したかのように思い出される(というような歴史を持つ宇宙に移動している)。土地の伝承はあくまで「行く」ことに主眼がおかれており、それを次男がタイムマシンと呼んだに過ぎない。タイムマシンが、『同時代ゲーム』で描かれた宇宙船とも重なり始める……
 最も近い同一宇宙は、十の十乗の一一八乗メートルを隔てて存在するという。膨大な距離をジグザグに移動する宇宙船に蓄積していく、単独の宇宙ではありえない計算量=量子コンピュータ。それはあまりに膨大な数の宇宙に宇宙飛行士が立ち向かわなければならないということも意味している。ゆえに三人の「童子」によって思い出され書かれた小説は、無数の生物(人、犬……)の内にある「無限に近い空間×時間のユニット」の、認知限界を超えた交錯を促す培養土でありながら、同時に、多宇宙をひとつの旅路=歴史として再構成し、思い出すことを可能にするための緩衝材としての「新しい言葉」の生成装置の役割をも担うものとなる。そうして初めて、単なる一方的な解釈にも、またカオス的な理解不能にも至らない、物理的な触感を含んだ他者とのやり取りは可能となる。小説を読み書けるということが、小説のすべてが多宇宙内に現実化することを許す、その小説自らによる証明……
「「ベーコン」はさわると柔らかいですか? 夏のようなものです。馬の〈からだ〉と同じです」
 このとき、宇宙船は地球外生命体との交信を強いられているのではないだろうか。「童子」は/歴史は/生命はどこからやって来るのか、その何度繰り返されたか知らぬ旅の始まりとして――〈「新しい人」は「新しい言葉」から作られる。〉

二百年の子供 (中公文庫)

二百年の子供 (中公文庫)