「Puffer Train」を書いていたころに書いたものです
 
 言葉はそれを発する人間の認知構造を通過して排出されるが、ならば小説における視点は、語り手の統一性という、有機物的な安心のための時間の流れを、書くという動作の段階からして裁断し続ける。量子力学における多宇宙論や時間の粒子性をあげるまでもなく、人はカント的な超越論的統覚の維持を持ち続けて世界と接していることはなく、神は複数であり、世界は閉鎖され、徹底して無機物を押し付ける。つまりは目の前のコップは、普遍概念、タイプとしてのコップではなく、端的にそこにあるコップである。だが、補足すべきは、コップがそこにある現在から、因果律によって系列的に拡散する過去と未来の時間が仮構され続けることであり、極めて常識的に、わたしはコップをコップと認識するために必要な自らのメモリー、神経細胞、眼球、そして母親の口を摂取したことにより植え付けられた人類史的な遠近法を所持しており、それらは今この瞬間のスナップショットから、複数の宇宙の瞬間につながる。さながらタイムマシン、または量子力学コンピュータのように、複数の時間と知能を用いて現在を計算する。
 つまり無機物の連鎖は停止している限りであらゆるところを侵食し、人間を無機物に、DNAを無機物に、街を無機物に変えていくが、しかし無機物としての人間が自らを別個体に投射して自らを、現実には決してあり得ないだろう理解という段階に持ち込むとき、その運動は有機物である。コップはコップと見なされつつも普遍に介入する、すなわちトークン的なコップがタイプ的なコップ性を揺るがしつつ、目の前の個物的コップもまたコップ性に侵されることで、コップは語られる。言葉は無機物と有機物の生焼けの渦としてそのつど発せられ、視点の発生と同時に前後へとつながっていく。ある小説の語り手が平凡な一人称で書かれたとしても、そこには時間によって断絶された複数のわたしが一文ごとに生起し、世界を放出し、それを書く側も読む側も、なかば錯覚にひたりつつ、わたしの統一を夢見る。そして実際に為される。安全な三人称は、その意味で、同様に安全な一人称と同等である。もはや人称とは、無機物同士の関係性による情報の配置、物理学者の宇宙探索にかかっている。
 では、ここで「書く」ということに関しての最大の制限、つまりは「書くわたしの知らぬことは書けない」という恐ろしさ、別の有機物への可能性が開けないことの苦痛、世界が物自体へのいたらなさに覆い尽くされるか、もしくは「わたし」という超越論的統覚の複数個体における単一反復、終わりなき循環に閉じ込められる虚しさへの風穴が開きうるのではないか。すなわち物理学者の参照する物理法則が変わり続けることにより、わたしでありながらわたしでない存在への断絶を持つこと。さらにそのなかでも、認知不可能なレベルまで追い込まれた複数性、過剰な動き、カオスに陥ることを避けた上での断絶。モンタージュの限界。かろうじて無関係にはならない螺旋の円の動きを見つめること。そこには、わたしが崩壊し、無機物に近づきつつも、なんとか有機物の輪郭を保って発展する個体の現出がある。
 わたしがわたしでない視点になろうとも、わたし性は引き継がれるがゆえにわたしは揺るぎない。だが、認知構造が一文ごとに刻まれるということ、つまり脳神経が言葉と回線でつながれているということを、逆流への一歩として用いるべきである。具体的に一例をあげるならば、名詞として顕著に見られることだろう。くじらという単語を発したとき、もちろん各々の視野にとっては多少のずれがあるにしろ、無機物から訪れる、保証された公約数としての図鑑の一項目「くじら」が、絶えず更新されつつも自らを存在せしめている。小説においてもまた同じく、くじらと書きつけた瞬間、そこに図鑑的な、タイプ的なくじらが印字されるだろう。小説のその一文の前後に左右されるとはいえ、人が読み取れるレベルでのくじらが安全に設定され、指示される。
 このくじらは、最初はいまだタイプ性を維持しているが、一定の時間、一定の情報の付与によって普遍から個体へと凝縮する。普遍的な、すべてのくじら、図鑑の絵としての消しゴム大のくじらが海をいつまでも泳ぎ続けることはできない。たとえ種としてのくじらを記述していたとしても、くじらは横に大きく広がりつつ、個として文章の視点にとらわれる。くじらが複数を獲得するのは、読み手との癒着を果たしたそのときであり、それは個が個としての肉体を失うときではなく、逆に強い個性、これはこれであると示されたそのときにくじらは個として普遍に介入をはじめ、普遍は単一ではなく複数であることをはじめるのである。そのためにも、時間の経過が傍に付き添わなければならない。時間の経過、つまりはくじら内部に見え隠れする無機物の羅列から有機物としての因果律が表出し、世界を過去と未来に拡散する、あの生命的な動きである。
 さらにそこには、どちらが祖と言えない、時間とくじらの相互運動がある。くじらという個体が群れとなって、内部に揺らぎを持ちつつ外部の揺らぎを獲得し、発展していくことで、安易にカオスへと崩壊しない個体の頑健性が生み出され、それとともに時間が浮き上がり、世界の変化を記述すること。普遍でも個でもない、複数を獲得する過程を経ることによって群れ化した名詞としてのくじらが文章と文章の断絶の狭間に、無機物的な死への恐怖を抑えた移動としてくじらが認知されることで、はじめて、外的なゆらぎ、つまりは環境との摩擦の蓄積が、時間の発生を根拠づけ、同時に時間の発生が外的ゆらぎの蓄積を保証する、その極めて生命的な相互発展がくじらにもたらされる。
 そして進化が駆動する。書き手と読み手のなかの名詞における要素集合が変化し、とどまることを知らない反復によるずれがあふれる。くじらに足が生えることも、海で暮らし始めることも許される。個で生じたずれは普遍に回収され、普遍に生じたずれは個体においてあらわれる。わたしにとってのくじらが変わった。ならばわたしはここで断絶を体現している。それも、形質の変化するほどの断絶と断絶のあいだをつなぐ意識をもってして。子ども、14歳、IPS細胞、メタモルフォーゼ。言葉は神話的複数性を獲得しなければならない。量子力学におけるシュレーディンガーの猫は、死と生への観測を境にした分岐などではなく、二つの世界の重なりあいであると考えなければならないように、言葉も線状のあり方をやめ、非線状であらねばならないだろう。すなわち、くじらは海に住み、陸地に住む。足はなく、足は四本あるものとして。
 それは言語が口から視覚に及ぶプロセスでもある。くじらと書いて、陸地に住む四本足の存在を想起させるには――そう、思い出させるには――資格情報が言葉を整流し定義する、つまり適度な、常識的な科学と同様に個人の因果律を整える方向性ではなく、量子力学が人々に強いる世界の偶然化、多宇宙化のように、言葉が意味を一度失って視覚に突き刺さり、その熱量によって目から耳へと言葉が迂回して、再び必然性、意味を獲得するような流れ。そのとき、わたしは群れとなる。多宇宙論を受け入れる。わたしはこの単独ではなく、複数の時間、複数の場に一貫してあらわれる、割合としての存在であるとする。十パーセントのわたしはこのバスに乗って事故にあい、死ぬかもしれないが、九十パーセントのわたしが生きているならば生きられる。別の時間と場につながることができる。そうした可能性の総体。外部の摂取。地層とのセックス。子どもが親を忘れ、自らに、意味の失われた「親からの名」を名付けるように。
 そうした、物的というよりも関係として世界を複数化する、つまり物自体ではなく、すべてが関係であること。その点においてわたしはわたしを乗り越え、わたしを連鎖させていくだろう。それこそが真なる他者との交流であり、記述ではないか? 視覚情報が有利に持つ輪廻転生的現実を、言葉によって果たし、さらにその先を進むことが可能だろう。くじらが現実にあり得ない物理法則を体現するのも、それが比喩ではなく具体的事例として体感されるのも、その延長線上にあるのか……?