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栄養学の測定

19歳のときに書いたものです。

 

 人は雑食と言われる。もちろん必要な栄養やその量は様々な客観的理由から定められてはいるものの、それを完全になぞらえる生活を送っている者はおらず、なぞらえようとする者さえ少ない。身体に害を与えるであろう多さの栄養を摂取していても、または摂取していなくても人は明確な死に陥るわけではなく、病は積み重なる無数の原因によって初めて訪れる。栄養は複数の方法でしか得られない。たんぱく質をなにから摂取するか、食物繊維をなにから摂取するかは個人の自由だとされる。たしかに過去の一時と比べればわたしたちは自由だ。コンビニに行くだけで相応の支払いを済ましさえすればわたしたちはパンでも米でもアルコールでも購入し食すことができる。だが完全な自由が与えられたと喜ぶのはあまりに状況を許し過ぎているだろう。わたしたちはあらゆる拘束を残している。

 たとえば幼児は自らの選択で食事をすることはできない。主に母親の与えるものを受け入れる。幼児期ならそれは母乳を与える正しい育成として認められるだろうが、母親の強制は幼児期を過ぎても終わらない。そしてそれは子どもにとって大きな運命の方向付となっていく。単純なところで言えば、親の食文化はかなりの割合で子どもへと受け継がれてしまう。肥満の親を持つ子どもは肥満である傾向が強いと言われる。肉をひたすら毛嫌いする家庭では肉を当たり前のように食す子ども時代を送った大人は育たない。日本的な食文化をふいにフランスの子どもがフランス的な食文化の親を持ちながら獲得するなどということは、自らがひたすら積極的に日本へ慣れ親しむ以外にほとんどありえない。それはまさしくひとつの歴史の伝達が、その歴史以後に生まれた世代へとなかば強制的に受け継がれていく過程のあらわれである。親が人肉を当たり前のように食べる親であれば、子どもは人肉を当たり前のように食べることを基底として食を積み上げる他ない。だれが拒絶し抹消できるだろう?

 親や学校給食など、子どもを取り巻く環境が子どもに与える食の拘束はひたすら大きいままだ。わたしたちは自らの身体を構成する栄養を歴史によってなかば強制されているとも言える。摂食障害を患う人々の、子どものころ過ごした家庭の多くでは母親が父親やその他を抑え、最も強い権力を持つという。それは母親を大他者とした子どもの食を通じての反抗であり、母親の希望通りの自分になりたいと思えない自分に対する罰であり、母親から産まれて来なかった自分への欲求である。

 また宙吊りの状態とも言えるのかもしれない。動物と人間の境界における宙吊り。母親によって書きこまれた規範をわたしたちが逸脱する食は、一種の動物的様相を呈する。つまり正しい人間としてのあり方を自ら妨げようとする行為のように思える。人は母親の反復や否定を通じて、母親の先行選択基準を受け取り、それを元にして言葉の分節を行っていく。その点で猿とは違う。猿は物と言葉を直接結びつけざるをえないが、人は外部の選択基準に従って言葉を母親へと結びつける。そのため、人は因果律をまったく現実にはっきりと横たわっているかのように感じてしまう。だが、そんな確証などどこにもなく、因果律は本来それぞれの身の内から染み出す。その混同は自律性の高まり、神に対し人間の主体性が主張され、自己所有の課題を命じられた西欧近代的な人間の時代に多く統合失調症のあらわれる傾向が高まったことに似ている。それまで他律志向の強く、神にすべてを委ねていたわたしたちは、因果律が大きなひとつであったとはいえ、外部の因果律が自分とは別に存在することが当たり前だったが、しかしそれは崩れ、自分の内部の因果律が外部と強制的に同期され、結果として「自分が他者のまなざしに囚われているかのように思える」統合失調症があらわれる時代となっていく。それは他者の選択基準にエラーを起こしてしまう可能性の露呈である。統合失調症は自己の因果律を外部に適用するようになって初めて生じるのであり、そこにおいて摩擦は明らかとなる。

 そして現代、父性の衰退や他律性文化の発展により統合失調症の病勢は弱まりつつあるという。それはひとつの中心を持たず、複数の中心を持つようになったある意味で幸福な状態への発展なのかもしれない。だが平穏無事なものでもないだろう。自らの因果律を自覚すること、容認されること、それはある種の動物化に近い。猿のように目の前の現象へポジティブに原因を投げかける様子。ジェンダーの選択やiPS細胞の受け入れなどにもつながっていくこの問題は、ひどく辛いものでもまたある。男として産まれ、男として生きること。女として産まれ、女として生きること。男と女から子どもは産まれなければならないこと。卵子は人にならねばならないこと。そこからの逃走。与えられる「人間」という基準、「人間」にあるべき食の基準を曖昧にしなければならなくなることの苦痛は恐ろしいものだ。それは幼児期に母から与えられた人間を否定することにもつながる。カニバリズムには自己へと陥入した母親を噛み砕く感覚が伴ってくる。口のなかで、すり潰される肉が母親であると同時に自分である摩擦を全身に感じる。はたして自分は今なにを口にしているのか? なにが身体に取り込まれ、栄養として皮膚や内臓を形作っていくのか?

 肉を食すときに起こる戸惑いは肉の持つ心に由来する。それは身体ではない。わたしと共に承認を繰り返すことでそれぞれを心だと命じあう、実際にはどこまでも閉鎖された存在だ。それゆえ口のなかの肉は物自体をも超えうる。そこには世界を知覚する実体、ライプニッツでいうモナドが挿入されている。「モナドロジー」の世界観において、世界に満ち満ちた個々のモナドは互いに通信できない。だが神の予定調和で世界は秩序を保つ。なぜ断絶した個々の集まりである世界が予定調和によって秩序を保つのか? そこには共可能性という概念が存在する。閉鎖されたモナドはそれぞれ手探りで歩き回り、他者とぶつかりあった瞬間、ひとつの常識を見る。矛盾した世界観は同居できないことを知ってしまう。そうやってゆっくりと見出される空間こそが身体であり、現実だ。心は否定を持って外部と接する。否定は無限の他者を産む。「そうではない」と言われたとき、相手が間違っているのかそれとも相手が自分を上まわる正しさの世界観を持っているのか、判別できない。本当はただの一面的な否定であったとしてもそれを信用したそのとき、わたしは相手に心を見てしまう。つまり物でなくなる。ただ黙々と慣習に従って肉を食うそれではなにも感じない。だが一度、あるかどうかもわからない心を見てしまったとき、わたしはその心の持つ世界を受け取る。肉は物でなくなり他者の弾力を得る。自分でない世界の縮図の圧縮された肉片を噛み締めながら、わたしは自分の指先も、頬も尻も、脳でさえも肉片に違いないことを知る。わたしであったはずの身体がわたしを離れ、わたしに世界を気づかせる。いつもの動作で生じる指令の、まったく逆方向の気づきがある。なぜわたしはこの身体をわたしと認識していたのか、名乗っていたのか。疑問をいくら投げかけようとも崩れないわたしの身体がわたしを覆う。

 蜜蜂は産まれたときの遺伝子ではなく、その後摂取した栄養が遺伝子を組み替え女王蜂となる。しかし、だからといって完全な後天性ではなく、「摂取した栄養が遺伝子を組み換え女王蜂となる」システムをあらかじめ組み込まれてしまっていることにかわりはない。それが現実だ。「わたしは肉を食べます」「わたしは男として産まれました」「わたしはひとつの身体にあります」「わたしはひとつの主体です」それらすべてが解釈を越えた現実として迫ってくる。逃れようのないように思えてしまう。だが、わたしたちは完全な意思伝達のできない存在だったはずだ。わたしは自分の背中を自分で見られないにも関わらずわたしには背中があると信じて疑わない確信はなんなのか? それは他者への無垢な信頼に支えられて存在する。矛盾のないようきれいに補正された道のりだ。そこを歩くのが辛いなら、たとえば現実を支える常識よりも先にわたしが存在すると考えてみる。つまり現実を単なる常識や共有ルールでしかないと考えてみる。突拍子もないことではないだろう。身体とは互いを観測するなかで産まれる一種の共有可能な空間だった。わたしはわたしの身体を本当に理解していないにも関わらず他者はわたしの理解を完全だとみなし、そこに「あなたの身体」と名付けてしまう。つまりわたしの身体には他者の視線が織り込まれてある。そのつらなりによって現実は構成されていく。肉を食べるとはつまりそういった経緯で作られた他者の身体を取り込むことであり、解釈のやり取りによって毒のように蓄積または伝播されていく歴史に飼育された家畜に過ぎなくなってしまった個の不幸にしめつけられる行為だ。つまり、わたしたちは個別でありながら、すでに世界の一部をなしてしまっているのである。

 家畜化された人間からの逸脱を望むとして、わたしはいったいどこへ向かって行けばいいのだろう。あらゆる方向へ進んだとしても間違いなくその先では自らの肉体を構成する栄養の摂取が必要となってくるように思えてしまう。その栄養はわたしではなく、あなたでもない、不明な誰かとしてそこにあり、わたしをじっと見つめている。「いらない!」と拒絶した瞬間あらゆる方向から「気狂い」の烙印を押される。ひたすら続いていく逃亡がある。そのなかで絶えず揺らぎながらも、しかし、今この瞬間のひとつの直線を引かねばならない苦痛がどこまでも不足なわたしを追いかけていく。呼びかける声は発せられた先で返ってくるものでなければ聞き取れない。街並みに反射して歪んだ叫び声が鼓膜を震わす。複数の個人にあわせて中心のない現実が見ることを望んで聞く。

「わたしは人間として産まれてしまった!」