読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2012-12-05

f:id:hiroki_yamamoto:20121205231946j:plain

たとえば「している」と「しているらしい」のちがい。現在と過去。推測は過去なのか?いや、推測は他者を通過し、わたしに帰ってくるという時間のずれをもたらし、情報を遅延させる……仮定はどうか?「もし」と言ったとき、「もし」でない現実もあらわしてしまうが、しかし「もし」しかその文章の瞬間には記述されていないことからくる、時間の多層感……そもそも今が「もし」で語られる世界とずれていることが、時間のずれと同じように働く……もしもあなたと出会ってなかったら……という言葉に続いて語られるのは、今のわたしではない、しかし時と場所さえ変わればわたしであっただろう世界についてであり、そこでのわたしの気持ちや行動も語れてしまう。「あなたと出会っていなかったらわたしは悲しかった」とわたしを記述できてしまうこと。ほとんど反射神経的に推測は起動する。もしも恐竜が絶滅していなかったら、と言うときに恐竜がせっせと歩く。もしくは、もしも今日が別の日くらいいそがしくなかったらそのときのわたしは……事前に得られた情報を用いて現実が次々と生み出される。これは「子どものころの記憶の想起」と違ったりする?じゃあここで「もしもあなたが死ぬかもしれないと思ったら、いてもたってもいられなくて外に出た」わたしの想像はその場で予知とどう違うのか?わたしは何を見たのか?「この料理はおいしそうだ」「この料理を食べたい」「この料理は美味しいと聞いた」「この料理は鮭が入っているからおいしい」「この料理を昔食べたことがあるからおいしい」こう、ここ最近は、昨日書いたメールやツイートが、自分のものとは思えないし、小説ならなおさら思えない、まったくもってあのときはどうかしていた、といつも思っている状態に近い……でも、そうであるからこそ、起きてしまったことはひたすら大きく、写真や言葉で切り取れば安心するくらいにわたしと違う物理的質量をもっている、わたしがわすれても写真があったから思い出した……あった気がする……でも、あのときのことが失われたことも知っていて、もうぼくはあのときにいないしあの人たちもここにいない!肉体として、まだ生きているなら、ひとまず記録の再生装置のように相手を扱えるが、骨になればなぜ扱えない?なんでぼくは死んだ人と同窓会で会わない?骨が同窓会に来ない?写真でない今の骨。骨になったと、大きくなったの違いは生命ならば、なぜ生きてなんかいる?つまりは変化か、しかし変化は失うものの根本原因としてある、失ったものは悲しい、しかしあなたには生きて、つまり次々と失ってほしい。未来が収縮して今になり拡散して過去になる、あらゆるものが失われる瞬間を愛している。そう、近頃はあらゆるものが未来から思い出されるだろうとして今に体験されるんだった……失うことを前提に生きられるならそれを失ったと思う自分をも前提に生きていることであり、それは今を未来によって思い出す、絶えず予知夢を見続ける、その動きが失われないかぎり、いつか死ぬ肉体も死して生きる。生きることは外部のゆらぎを内部のゆらぎと混同することで頑健性を獲得することであるとするならば、骨のきみは土になったきみを想像するぼくを想像できるのか?できないならばきみは同窓会来ても祭壇だ……そのぶんひたすら骨でなかったきみといるぼくを抱えて同窓会に行く……きみはあれを好きだった、こんなときはきみならこう言うだろう、と、きみは収縮を失い横軸に広がり、ひたすら浸透してさまざまに憑依するだろう、だがきみは収縮できないという意味で語れない骨だから、ぼくが肉体を貸し、ぼくが「きみは死んだ、あのころのぼくとは違う」と語るのを今のぼくが聞く。つまり、収縮、それも受け身の収縮が、時間を経過させる。らしい、も、もしも、も、骨に収縮を貸してやることによりはじめてわたしが収縮できるということでもある。収縮できるのは、蓄積としての骨を生み出せる生者、語り手としてのわたしの連続であると……骨は生まれ、神となり、そして迂回の果てに言葉の断片として回帰する、シンゴのように。輪廻転生が物において生じる。

保坂和志山下澄人の対談について。未明の闘争。連載開始時にもうすでに猫2匹は死んでいるのに「今は2匹がいて……」って書いてたのかって、対談を目の前でもう1年前に見ながら連載を読んでたのにあのときは気づけなかったのはダメだなあって。これは語り手と作者の同一視みたいな次元の話ではなくて、過去への没入による現在化についてであり、たとえば過去のなかで過去を思い出して「最近は〜」とか「今日は〜」と書かれてしまっているところがあるが、そのようなことが書くわたしにも生じるそれを反映させることでズレが何層にもなる。そもそもブンもピルルもチャーちゃんも死んだ現在が、ブンとピルルのまだ生きている地点を現在にして小説を書き、そこで舞台となるのはブンもピルルもチャーちゃんもまだ生きている過去=現在だが、チャーちゃんは数年後に死ぬので死ぬときのことを何度も思い出すけどいまチャーちゃんが目の前にいる。つまりそもそもチャーちゃんが生きているときに戻りたいと言ってはじまった小説は過去を思い出しているうちにチャーちゃんがまだ生きているときを現在として書き進めてしまうけれど、チャーちゃんが死んだことも思い出せるからまるでチャーちゃんが死ぬ世界を輪廻しているようにさえなっているが、そもそも小説のはじまったときに生きていたブンとピルルがすでに死んでいるということは、ここでもまた未来を知っている過去としての現在を小説内で体験しようとしていることでもあり、これはすべて死したあとに再び前世の記憶をたよりに予知し続けながら現在を生きようとする人間の話になってくる。とすると、ブンとピルルの死を思い出すことができるかどうかが大きな問題として残っているかもしれないけれど、もしかしたらもうそれは書かれていて、ぼくが見落としてるだけかもしれないから、せっせと読み返してる。この奇妙なねじれは、安部公房の『密会』に漠然と抱いていたものをより大きなものとして受け取るために用いられるかもしれない……明日のことが書かれた新聞……そうか、仮面女の出る見世物についてぼくと副院長が話している場面、「しかし、君はまだノートを書き続けているそうじゃないか。」「しかし、って、どういう意味です。」「にもかかわらず、というくらいの意味じゃないかな。なんなら、中を覗いてみようか。切符の余分があるから、ゆずって上げるよ」ノートは未来を記述する予知としてあり、仮面女についての未来を書くために、副院長が切符をゆずる。つまり切符をゆずるということで、仮面女の見世物を見物するという未来が信じられ、記述される。

エヴァンゲリヲン新劇場版Q

あれだけ断片性があってもわかっちゃうというか、いやまったくひとつもなにが起きてるのかわかんないんだけれど、それは旧劇とかのようなテーマ性で解決しないレベルに複雑であって、それは抽象でない設定。すべてにおいて唐突であり、夢??ってなるシーンだらけだけれど夢じゃないらしいし、それはもうデイヴィッドリンチかと……あそこまでエンターテイメントかと思わせといて、まさか……すべてのシーンが笑えてくる……蓄積があるからここまで狂えるのか、作る人間も時間をへるから、断片性……ひとつひとつのシーンの描かれる理由はテーマ的に解釈できたり、キャラ的な蓄積から解釈できたりするけれど、それが総体となると……そもそもすべて地図的に描けない、なにがなんなのか、それでも見れてしまう……なんで見れたのか……たぶんこれは物語を描こうとしていない、ワンカットのベストをつくしている総体としてある、しかしこれまでの蓄積により物語として見てしまう、だから情報量が膨大に思えてくる……ぜんぶ狂ってる……でも一番不安なのは理解不能として放り出してしまうひとがいるかもしれないことかもしれないから……

エヴァはすごく勇気をもらったけれど言うとネタバレになるから言わないけれど内容的にくやしかったからくやしい作品に出会えたこともだしエヴァをまたそのように見られてうれしかった。すごく小説的というか、小説の描写に近いものをカットのつなぎ方に思ったし、個々のカットの異常さには目がぐるぐるした 中学生のときに見てもあんまりよくわからなかっただろうけれど、旧劇よりやばさでは上かもしれないと思った。もう旧劇のときのように「母が〜」「他者が〜」とかいうようなテーマ性で理解しようとしてもできない種類の複雑さが断片性のなかから過剰に分泌され、しかしそれは個々のカットは作画やキャラ的記憶やその他から強引に描かれているにもかかわらず総体として物語を仮構してしまう人間の本能によっている。たとえば小説での描写は個々の文章では理解できても、それを図であらわせと言われるとあらわせられないことがいくらでもあるけれど、その種類の自由さに満ちている意味で、旧劇より狂ってる。ぜんぶ夢かというくらいの唐突さと自由さに満ちている。本当に狂った具体性、現実の物理法則・遠近法の通じなくなってしまったカットの連続が、そのシーンの比喩的意味や成立理由は容易にわかるのだけれど、それが物語として回収されようとするから情報量が膨大になる。つまり謎が、テーマ性や抽象的言説から一気に具体性に移行した。誰が見たって、セリフもシーンも比喩的意味は露骨にわかってしまうから、そんなことを考えても満足できなくて、設定レベルに考えようとすると、複雑さに頭が追いつかない。たとえば最近よくある物語構造として、新劇にも想定されていたあの論理は、大抵縦軸に機能していたものが、横軸に機能している。それにしてもやっぱりここまでの自由さが正しく機能するためには、作品的な蓄積の意味でも、作り手側のなかに生まれる断片性の意味でも、長編である必要があるし、それも長い時間をかける必要があるのだと感激した。少なくとも旧劇はまだリリスがいくら大きくなったって、地球の上に立ってるとかそういう物理的、座標軸的な位置関係はまだ理解できていたし、想定もかろうじてできたという意味で、安全圏内だったけれど、本当にこればっかりは……比喩性が意味を持たないくらいに自由に現実が駆動していくことで作り手側の想定外にまで具体性が複雑化し当然その位相の上でも再び比喩性が回帰するが、そこで得られるのは相当に大きなものとしての意味となる。夢であるべきなのに現実になっている恐怖と笑いがある。ひたすら笑いそうだった。ワンシーンも理解できてないこの感覚、なぜこのセリフが書かれたのか本当にあっさりとわかるのにそれでなにも満足できないこの思考の動きを序と破で、まるで棒を何度も曲げてくせをつけてしまうように傾向づけられた……つまり旧劇であそこまで作家性というかテーマ性が背景に色濃くありすぎたせいで、逆にどこかわかりやすさがあったというか、統一した言説、他者が〜母が〜と言っていれば済んだものがなにも済まないように、そこまで行くためにわざわざ再演した。そもそも、あそこまで抽象画のような自由さを現実として描きながら、それを見れてしまうというのに驚くというか、根本的に人間はおかしいと思った。たとえば小説を書くとき、リズムで単語が出てきてしまうことがあって、その瞬間はごく単純な因果によって書かれたわけだけれど、読む側からすればそれは具体レベルで回収せざるをえない。同じようにたぶんかっこいいと思って描いたのだろうシーンが具体的設定に介入してきてしまうという磁場の形成……作り手側のなかに時間が生じることで生まれる断絶、昨日書いたものを昨日書いた瞬間の因果で決して見られない自分を利用しての対話、フィードバック。それができずに大きな物語を作るには、あまりに人間の処理能力は少なすぎる。作品を脳外部計算機として扱う。

駅のホームと車両の間にファイル落として未明の闘争が死んだ。

足先がちぎれ、そこから血がおびただしい量、流れはじめ、血管がどんどんと真っ白になっていくのがわかり、どうにか押さえて止めようとしても止められない、このまますべて流れ出るという夢を見たのを急に思い出した。

ネタバレはつまり強力な予知夢として到来し、体験はもちろん、以後の認知のもととなる記憶すらも、未来地点を書き換える意味で書き換えるが、もちろんどういう体験がベストであるかなんてことは、体験が千差万別なのだから言えるわけがなく、しかし不明な現在に接する体験は無視できないほどに大きい。いつ死ぬか、いつ終わるかわからないなかで聞く話、書かれる小説、生きている人間。死んだ人間が書いたものと生きている人間の書いたものは違うし、書籍になった小説となっていない、断片のままの小説は違う……もう作品として完成しているのだからいくらなにをしようとも書き変わらないにもかかわらず、次のカットで起こることをなにもわたしが知っていないのはなぜか?

エヴァ2回目。

かなりはっきり見られた。理解の追いつかないところもそんなになかった。あれを旧劇みたいだと言うのは絶対違う、間違いなく破の延長だと思った。つまりひたすら設定レベルが複雑なのであって、批評的もしくはテーマ的な見方はことごとく封じられているから、すごくいい。内容を知ってから見ると、個々のカットの異常さに気づきづらいかもしれないとも思った。このイメージがおかしいとか、このシーンがおかしいとかいった、夢を見るようなレベルと、そこに同居する因果律を垣間見てしまう自分へのおかしみが、作り手側の感覚で体験されるべきだろうとも思う。それは気づきづらいのであってもちろん気づけないわけじゃないけれど、どうしても絵がそこにある強さは抗いづらいから……純粋にそこにあるものを見ないとひどく淡白なものに受け取りかねないかもしれない。それでそのうえであの時間感覚はやっぱり狂ってると思った。アニメだから、というのもあるかもしれない。あのイメージを平然と受け入れられるのがなんでなのかわからないのは最初見たときと同じ。リンチを強く想起させられるのもまた同じ。ホラー映画に近いものを感じるのはそう思った。

普遍的・状況的記述が、個人を書いた瞬間に具体的事例へと圧縮される動きがあるのはなんでだろう、動物や物じゃその動きが少ないのはなぜだろう、と思ったとき、キャラクターというか登場人物が複数の場所、複数の世界、複数の時間をひとりにまとめてしまう奇妙さとつながる。過去のわたしと今のわたし、書くわたしと書かれるわたしについても。特定の人物が複数の世界で反復していることすらも理解しうるのは……逆にいうなら部分的な無変化にとらわれているのは……

ヱヴァがエヴァになること、その合流あるいは回収は、登場人物が作り手を無視して行ってしまう反復運動、まるで演劇における俳優のように登場人物が複数の場所、複数の時間にそのままの姿で偏在してしまうこととつながる、創作においての、現実からすれば歪きわまりない病に近いと思う。特定の行動や特定の見なり、特定の発話をする人物を繰り返し出してしまったり、共通要素をいくつも点在させてしまったりするのは、人が世界を作る上で仕方が無いのかもしれない。もちろんそれは、背景に単調な意味のパイプをつなぐことになりかねないと同時に、非現実への手段ともなる。つまり、世界はそんなに単純じゃないから万物理論がたとえあったとしても目の前の現象と結びつかないくらいに複雑経路をへて機能するだろうが、それと比べて作者のなかの登場人物に対する記憶やイメージや、もしくは現象なりなんなりはどうしようもなく単純であり、だからこそAでのルールをBに適用させてしまうようなことが可能となり、その異常なルール適用はBの論理でAの排出した要素を見つめてしまう狂いに襲われ、結果として情報量が、日常生活においてあまりに慣れてしまったがために情報量が本来よりも少なくなってしまった通常現象よりも膨大になる。

ドッペルゲンガーに会って「あなたは五日前のわたしですね?」と言われてすごく安心する人

ボタンを押したら座ってる人が死ぬ機械を何度も使ったうえで自分が座ってボタンを押して「ぼくは一度死んだことがあるんですよ」と元気に言いつつ車に轢かれないようにする人といっしょに生活している死んだことがあるかもしれない人

非現実というよりかは現実がそうなる、という意味でカフカにおいて人が虫になったりするというのがあるとして、それはつまり「そこにきてようやく階層の一段階目ができた」。メタも多視点並存も、複数世界の同居、相互影響のなかで見るべきであり、そのとき「わたしが見ている幽霊をあなたは……」。磯崎憲一郎におけるあの神的な一声は、現実世界の複数化の延長におけるメタ性をおびる。わたしは今ここにいるが、別のわたしやあなたも今ここにいるし、または別の時間別の場所にもいる、それらの間に触媒として世界があることをまた示し、そこではメタ性は世界認知の濃淡として絶えず上下関係を揺らす。さまざまなものに憑依していったとき、不意にその憑依の回路が逆流し、過去と未来の前後関係が反転してしまうことがあるのではないか、それこそデジャヴのように。夢のなかで「ここに来たことがある」と感じるのは、ほとんど憑依が逆転している。まるで無人称に思えるくらいの総体が、突然降ってくる。視覚的唐突さとは、あの磯崎憲一郎の唐突さはまったく異質にある。昨日の日記に絶えず追い立てられているような、自分の口が脳を作っている動きが一線をこえているような。そういうメタ性を、自分だけでない複数人、複数次元で行うと……

降下する空がマンションの七階より上を真空にして、建物の中心に向かい柱も外壁もぎゅっと絞られ、窓枠のなかでガラスがゴムのように弾力のあるへこみ方をし、テレビ台に置いてある観葉植物が隣にあった瓶のなかの信号機のフィギュアと速度をあわせつつカタカタと部屋の真ん中の方に引きずられながら茶色く乾いた押し花になり、触れれば焦げた防腐剤よりも脆く砕けて床のフローリングの板と板の隙間をなぞりました。

太陽は雲に隠れていたのかここにはなかった。

テーマ性が具体に回収される動きは、実際に回収するというより、その動作の傾向を、ゴム製の棒に「くせ」をつけるようなやり方で生み出していくようなものに近いかもしれない。同じ言葉や要素関係でも読み取りコードがまったく変質してしまうように……つまり極めて文体的な……ある種の露骨さが反転する場を生み出すことができるかどうかというのもある。

安藤礼二「『水死』論」。

「「自分のまとめてきたものを解体し、総合する」。一体何に向けて? 作者が自身の生涯をかけて追求してきた主題とまで述べる、「父の死」の謎に向けてである。「父の死」の情景は、作者にとって相反する二つの時間を分離し、また一つにつなげる特権的な場として捉え直されていった。相反する二つの時間、森のなかで永遠に循環する時間と歴史のなかで直線的に進行する時間の交点に現れ出てくる場所である。作者はその時間と空間が交わる場所を「懐かしい年と名付けた。…その「年」に向けて懐かしさのなかを遡行していきながら、その「年」を破壊し尽くさなければならないのだ。」

「…「懐かしい年」を、反復されるたびに新たな差異を生み出す循環する時間を、生と死を一つにつなぐ永劫回帰する時空を、幻視する。」「円環と直線、つまり二つの時間が接触する「特異点」として存在する「懐かしい年」。…歴史がはじまり、歴史が終わる場所。」

「「懐かしい年」は「事実」のみから構成されているわけではないのだ。作者の想像力と現実の歴史が衝突し、両者が交錯する地点から生み落とされた表現のリアルなのである。そこではじめて想像力には歴史が歴史には想像力が補填される。想像力は歴史の背景となり、歴史は想像力の背景となる。」

「「懐かしい年」を複数であり一つでもある場所、また複数であり一つでもある「私」に解体していかなければならない。さらにそれを分散しつつ活発につながり合う細部を、拡散しつつ収縮する一つのプロセスとして存在する作品に総合していかなければならないのだ。」

「「懐かしい年」は複数の声に担われることによってはじめて変容し、真の再生を遂げる。単線的な物語は、反復のたびごとに複雑に分岐してゆく複線的で重層的な物語となる。」

以上すべて、小説における反復とずらし、一般的説明記述と具体的個体記述の交互運動における拡散と収縮、フィクションとメタ的現実の階層化と混在の殴打、そこより徐々に見出される巨大な物語について言える。エヴァQにしても。二次創作と一次創作の関係にしても。

小説を書くことにおける視点・拘束・情報読取解読コードと、自分の記憶、目の前の現象、さらには書きつけられる単語の持つ情報の持つ質量的拘束をそれぞれ結節点として混在させ、相互回路を形成すること、そのなかでもできれば科学的情報と小説的認知を独立させながら点在させることが……深読みをさせるだけでしかない、というのは圧倒的な賛辞だろうという感覚があり続ける それは単なるランダム配列しかできない、もしくは統一要約された配列しかできない認知主体には決して至れない断片性にとらわれ、つまりは狂う必要がある領域として、他者さらには自分すらも身体感覚を歪ませられる。ひとつの統一体であることを偽るのはそもそも人間の認知の前提本能としてあり、この機能をいかに作品において否定しつつ同時に起動させるか?Aという単語または概念内に存在する複数の要素をB内の要素と部分的に混同させることでAとBが連ねられるが、そこでA内の非B要素がAに波動する。つまりBをAと見間違えるような。または特定文章内のAと一般的Aのそれぞれの内包要素のずれ。要素の共鳴は物理学にせよ経験にせよ無数の回路による。AとBの関係を反復することは、別の概念の記述時の混入を目論むものでもあり、また認知主体者自身にとってのAB内要素の変化と過去のAB要素、さらにはフィクション内環境におけるAB要素とのそれぞれの回路の再結合・複雑化・要素再供給を生じさせ、そこからそもそもCやDへの派生もあらわれる。その抽象・具体の反復運動こそが世界を現実から非現実へと認知レベルで移行する手段としてあらわれる。これはあくまで傾向としての動作でしかないはずなのだが、しかし「世界は量子論的複数同居性などではない統一した遠近法としてあらねばならない」というバイアスによって動作が静止に錯覚される。一方の暗号ルールにより「こんにちは」という単語が変換され100桁の数列になったとして、これを別の暗号ルールで解読すると膨大な文字量があらわれ、さらにその支離滅裂な文字配列を別の暗号ルールで解読すると広辞苑一冊分の情報があらわれてしまった、そんな異常さ。その歪なエンコード・デコードの繰り返しがなぜ起こるのかといえば、人は一瞬で小説を書けないという根本的な理由がそもそもあるのは当然のことながら、文章所持者はたったひとりではあれないくらい、時間は進み、他者に憑依し、世界と合致してしまうからというのもある。視点は情報の圧縮点としてある。宇宙やDNAや性差、文字、コンピューター、量子コンピューターなどが情報単位として巨大な結節点となるように、人物というのは恐ろしい吸引力を持ってしまう。生物でも犬などなら起こりやすい。やりようによっては物でも場所でも生じる。ぎゅっと集まった一点は特撮の模型のように情報密度が自走する。絶えずネットワークのノードを仮構しつつ回路を充填することに勤しみ、また平面をいくつも重ねることで地層的に地図を広げていくこと、それらの地層のひとつがまた情報収束点としての物理的質量を持った視点所持者であり続けること、そこから作品内の現在的時間と作品外の系列的時間を摩擦させること。

書き言葉はもちろんしゃべり言葉もおかしいんだなって周りの人に言われて気づく。単語の並べ方だけは正しかったりするから意味は伝わるけれどおかしかった。昨日は「傘は降ってる?」と平然と言ってた。受け身も能動も接続詞もなにもかもぐしゃぐしゃしてる。「線路が脱線した」「蜂蜜がしまわれた」。

DNA塩基配列の中に封入された構造遺伝子と制御領域が、無数のネットワークを形成する。複数並置された制御領域は、ひとつひとつが論理演算のパーツとなり、階層的な制御回路として機能しはじめる。回路を構成する遺伝子の種類によることなく、なにがなにを促進もしくは抑制するかという関係と、どれだけの強度とリズムで影響を及ぼしあうかという関係に基づいて、オンとオフの判断を斑模様に出力し、それによってひとつひとつの構造遺伝子の働きがあらわれるかどうかが左右され、結果として単独の遺伝子ではあり得なかったような多様な変移が見出される。遺伝子を単体保持するのではなく、制御回路を含めたネットワーク構造として保持することにより、一度失った形態すらも数千年後の末裔が効率よく再獲得できたり、または制御回路を流用することでまったく別の形態を創出できたりする。

外的要因だけでなく内的要因、それも先祖から受け継いできた遺伝子の回路の流用や、発生メカニズムが持つモジュール性による進化バイアスといったものが、生物の形態発展に複雑に影響しているというのは、なんではやく知らなかったのかと思えるくらいおもしろい。

「親から子へと引き継がれるのは遺伝子である。…しかし、引き継がれるのは個々の遺伝子“だけ”か、ということについては疑問をさしはさむ余地がありそうである。…遺伝子は単独ではなく、遺伝子と遺伝子の相互作用関係が遺伝子制御回路として引き継がれている。このようにネットワーク構造として進化的に保存されているのは、遺伝子制御回路が純化内的選択にさらされているからだ…純化内的選択にさらされているということは、変異はランダムに生じるが、遺伝子制御回路のはたらきを大きく損なうような変移が生じた個体は、集団から淘汰されてしまう。このために、遺伝子制御回路は、シス調節領域に変異が生じるものの、その働きが損なわれない程度の変異をもった個体しか生存できないようになり、結果として回路を構成するネットワーク構造そのものが遺伝することが可能になっていると考えられる。この結果、発生メカニズムに関与する遺伝子制御回路がもつ階層的な構造が、あたかも“パッケージ化”されて淘汰から守られているような進化が可能になっていると考えられる。」鈴木誉保

Qのあの街の全景、宙に浮かぶ地球のような球体がうつるカットをいまだに消化しきれない。無数の多世界の圧縮のつらさを感じる。

書けば書くほどに、登場人物に無限に(繰り返す人生のなかで必ずその瞬間が訪れるように)殺され続けるようにさえ感じることをいまさらながら思い至っていた。時間が一本の線で進んでくれない、物語が一本に統一してくれない、世界がひとつであってくれないことの恐怖は計り知れないと思った。

でもたえずQに対してだけはぼくがエヴァにあれだけ思い入れが強くて二次創作もひたすら読んでそこから創作をはじめたし思考一般もはじめたことを考えると客観でないかもしれない……と揺らいでばかりいる。ただ、作品外ネットワーク的なレベルでの動きを作品内に無理やり押し込めたことで歪な時間感覚や因果律を持ち込んだという意味でまったく他作品の次元とは違うんじゃないかという感覚はあり続けてる。ワンカットごとの異常さ、などというレベルは安易にすぎる、それこそこのカットを描いた人が世界に対して何を考えていたか?と思ってつらくなる。地球は眺めたり描いたりするのに適していない、負荷が大きすぎる……冒頭の宇宙考証がそれなりの根拠に基づいて描かれているのはエンドロールのクレジットを見ていればわかることだけれど、いっそう細かく説明されると読んで理解しているわけでもないのに「すごい!正しい!」と言ってしまえるのはSF一般に通じる異常さのあらわれだとも言えてとてもいい。

トウジの名前が出てくることの露骨さと、それがもたらす異常さというか夢性。綾波の部屋に表札がおかれていることの背景にある認識回路。綾波がアパートに住んでいたことの記憶がシンジを通して現実に現れ出てしまったかのような。それは9号機がシンジの前に現れるところでも感じる。夢かと思った。そもそもピアノがあることがおかしい。もちろんカヲルだからそこにあるという理由はわかるが物語として理解できないが、理解しようとしてしまう認知傾向が序と破の露骨さで身につけられてしまっていた。ネルフが地下にあることを知っているから見れていたのに街より上にあるということに因果が狂った。ぼくは下にいるのにカヲルの言葉が蝶番となって移動→俯瞰の枠組みがあらわされたのかと思ったけれど、それにしては視点がどこにあるのか理解できない。そもそも物理的にネルフが街より上にあるという世界が狂っている。しかしなぜか見れてしまう。シンジの気が狂ったとは視聴者は思えないのはなぜか。エヴァの呪縛と言って14年間を無成長のままいられてしまう人物がいるのはどう考えても現実から逸脱した論理に従っているが、一方で「かつてのエヴァから何年も経ったりした」という外部論理もまた露骨にわかってしまう。しかしそこで世界を理解したことにはならず、歪すぎる時間認知は消えない。ぼくがかろうじて期待したことに、ループの横軸への適用があったが、それを当然のように果たしてくれていたのがよかった。よくあるループはあまりに線的すぎる、時間を遡れば元に戻ってしまえる。同じ時間を何度も繰り返す。そうではなく、質量的に反復すること、世界が進みながら反復すること。街にエヴァの死骸のようなものがいくつもあったり、時間が過ぎ去っていながら幾人かは止まっていたり、まったく別の世界のはずの旧劇のリリスがそこにあってしまっていたりするかのような時間のあり方は、無限回帰の横軸と、歴史的時間の縦軸が、二次創作等といった作者外を含みつつ展開する様を見せる。そもそも第三新東京市が地図的位置に記せないような場所になってしまったのは大きい。ネルフはあの亡霊のようなゲンドウ冬月しかいないようなのにエヴァを作る。儀式のために降下する運動は24話から導き出されるがあの上にはなにが13号機たちを支えているのか。冬月との将棋の場面の回想の具体化。あの時間感覚には妙に世界を客観的に見るよう強制されてしまうような感覚がある。旧劇ではまだ地理的な位置関係は理解できたが、Qでは徹底して不可解に作られている。このある種の離陸はもっと、現実世界とフィクションの関係において考えられるべきだと思う。シンジたちが人間でないことも含めて。シンジの苦痛が他者へのものや父親へのものというようなレベルでなくなっているのは、かつてのような人間的関係性において生じる諸々という種類ではなく、かなり世界内的すぎる、それこそ具体的すぎるものであるというのは大きい気がする。比喩的に理解することが難しい。こういう時間感覚は現にない。世界がいくつも分裂し、相互運動をはたしながら、歴史的時間は進み、さまざまなものは取り返しがつかなくなっていく、そんな苦痛。これはなにかを作ることにおいて顕著に立ち現れるものであるようにも思うがそれだけにとどまらないだろうとも思う。

どれだけ長くて情報量の多い一文であってもひとまず主語と述語の距離が離れていない、短い間隔で(曲の歌詞が聞き取れるように)意味が了解され続ける文章構造ならば、なぜか読めてしまうというか、そもそも文章の持っている具体レベルの強度が違うということをいつのまにか思うようになっていた。最初からそれを意識すると情報量の削減(書く前から持っていた語句展開にとどめてしまうことによる、最も効率のいい文章構造へのいたらなさ)が生じてしまうだろうけれども。書きつけることによる身体的語句配置探求をとり逃してしまえば、最善にならないという意味で、重大な欠損となる。最善に語句が並ばないというか、そもそも情報が出てこなくなってしまう……Aという単語にBという単語がつらなりうるのはなにかしらの信頼がそこにあるからであって、文章の全体構造がそこに単語を配置するわけではない。かといって単語が文章構造全体と無縁であるわけがないのも確かで、その単語が持つ回路・質量をどれだけ十全に高められるかが左右される気がする。

「こんなにすごい複雑で大きな物語をどうやったら考えられるんだろう?」と不思議に思っていたけれど、いま旧劇とかを見返してみると、いかに全体でなくその瞬間ごとのベストをつくして、かつ登場人物の使用を必死に考えて、ワンカットごと作っていたかがよくわかる。最後の方とか、登場人物というより、自分の感覚が人物を利用して発露する流れに進んで巻き込まれていくことでカットを作っているというか、それまでの蓄積をひたすら限界まで酷使しなければいけなくなっているかとか、そもそももう物語がなんなのかわかっていないような感じとか……つくりとして、どう考えても「このシーンが来たら、じゃあ次はこうなるよな……」みたいな瞬発力に満ち満ちててとてもいい。もちろんそのとき、瞬発力の中にそれまでの蓄積が陥入してきてるのだけれど、Qはまた陥入の度合いが違う。省みる反復が異常な回数行われることによる論理の逸脱がある気がする。ロボットアニメからはじまって旧劇のリリスに至ってしまったのを見返した上で、それを前提に物語を作るとき、やっぱり一層の歪さが設定として要請されるようになるだろうし、そのときに再び生じる物語外論理や、カットごとの断片性が、また次の段階で物語設定に組み込まれようとする。というようにしたとき、たとえばQにおける「ビジュアルのかっこよさを目的としたカット」と「これまでの蓄積を物語設定に落とし込めようとしたカット」が、それぞれ同様の圧力をもってエヴァ第一話のカットに影響を与えてしまう。その奇妙な統一性が自ずと得られてしまうというのが、創作における重心どれだけ好きにやってもどうせ統一性がえられてしまうのだから、最大限自由さによる飛躍を行使する、というのは最もだけれど、しかし一方で、書くためには要素や経験が必要であり、そのためにそれまで自分の作った世界から受けるフィードバックが極めて重要になってくる。

「じゃあクジラは、サメたちをころしたわけじゃないんだね。ただ、ひらべったくしただけなんだね」「あんまりひらべったくされたもので、二ひきとも、死んじまったのさ」「するとパパ、二ひきは、目がさめてみたら、死んでたってわけ?」「そういうことになるな」

児童書、童話、絵本、こういうのを子どものころにたくさん読めるのだから、そりゃあ大人になったときに目の前にさしだされる大方の小説が退屈に感じられることでしょうね!

子どもが大人になるにつれて、たくさんの情報回路を知るようになるけれど、そもそも根本の処理能力が育たず変わっていないから、選択肢を減らし、限られた場所に論理式を落ち着かせてしまうっていう、ただそれだけのことのようにさえ思う。十のちからしか持っていなくて、それを集中させるか拡散させるしかなくて、その意味で子どもに成長できていないような……十を百にし、複数の論理を同時に信じてしまえるような状態にならないと、まだ子どもの方が自由だ!なんていう、妙な話に帰結してしまう。局地的な論理構築の強さと、それを断片のひとつにしかしないような即物的あり方、そしてそんな矛盾した人間を一個体としてあらしめるための「作品」「身体」という統一体。外部論理を適用してしまう「思い込み」と、しかしそれすらもここに応じて改変してしまえる「ゆらぎへの適応力」の、混在。

未明の闘争10回目の文章が読めてしまうことがなにかしらの希望となる。初めて読んだときはなにがどうなっているのか運動神経の発達を兼ねた読書だったからおそろしく時間がかかったけれど。もうこの時点で未来を予知するような書き方をしているが、まだ創造よりかは破壊の印象が強い。

未明の闘争11回目でアキちゃんから提示される問題はかなり世界に食い込んでいるのではないか?アキちゃんは私が書いた文章を読んでドストエフスキーの『分身』を読んだというが、私はその文章を書いた覚えはないし、『分身』も読んだことがない。アキちゃんから聞いたという建前で内容が語られる。過去の私が知らない内容をさらに過去の私が書き、アキちゃんの言葉となり、少しあとの私がそれを聞き、今の私が思い出して描いている。アキちゃんは前世の話などを展開するが、ほとんどこれは過去の私と現在の私、書く私と書かれる私のねじれが世界に本当に現れてしまっている感覚がある。「書いてねえよ」という私に対して、じゃあお前が書かないならどうやって俺が読むんだよ、と言い、「前世でこのあと読むのか」と言ってしまうアキちゃんが、読み手自体をメタ構造化し、結果として世界に前世が、メタという回路を流用した輪郭をもって立ち現れる。伝聞により他者が語り手となること、わたしの知らない場所まで書くこと、時間が飛躍しねじれること、それらすべてが一点へ……

ユリイカ西川アサキテキスト

「全く違う二つのことが、「中の人」っていう言葉だけで繋がっていて、「現実」に見えるイメージはその覆いっていうか」「群れをくるむ巨大ロボット」

自身への愛着は、時間を蓄積して行く中で奇妙な中枢が生み出されて行くその一点でしかないため、死んだあとには自身へのリンクの削減により自身への愛着は失われる。宗教は自分ではなく他者を考えよと言う。自身へのリンクを膨大な量に腑分けすることで死への恐怖を抑止する。と?

永野護の歴史に出て来る人々は死んですらいない。生まれていないからだ。だがロボットは、生まれるために彼らの歴史を求めた。」

「インフレしていく設定が、ある意味「空間になってしまった時間」っていうのかな、FSSの終わった歴史」に対応するなら、生きている時間、現在進行形の方は、デザインというか、まあメカやら美形やらが活躍する時間なわけだけど、二つは何か関係あるのかな?」

円周率なら数字の並びを計算方法として圧縮できる。しかし圧縮できない数字は、読み上げるしかない。「我々は皆でただ一つの数を読んでいるのかもと飛躍した。終わった歴史を延々と語り続ける永野護みたいな。我々が読み上げる数字は、我々とは似ていないが、それこそ我々の本質なのかも。」

花と虫の関係におけるデザイン。初音ミクのネギが彼女自身の欲求により持たされること。未来から訪れる審問者。神の持つ応答と奇跡の二側面がロボットに与えられる。多重人格の反転としての輪廻転生。複数人が同じことを考える断片性。

横軸のループとはつまりいくつもの中心軸が回路のように接続してしまっているものかもしれない。ループというならばそこには中枢が存在する。肉体にしろ自我にしろ視点にしろ。全体を取りまとめる、親しみのこもったデザイン。それが複数存在してしまうと、ループが横軸に機能しているように見える。

登場人物がまるで演劇の俳優のように反復し、現在時を維持し続ける、ある種の縦軸ループを形成するのは、それらひとつひとつがノードとして機能する場の総体自体が中枢として錯覚されてくるから?ここで注意すべきは、登場人物の反復や現在時の維持は、横軸ではなく縦軸のループとしてあらわれるということ……横軸とは、つまり過去のゴーストが現在と等価値に並存してしまうこと、マリオカートにおけるタイムアップ……それも、集団内相互作用の結果生じる最速タイムも同時に横を走る……登場人物A,B,Cがそれぞれ結節点となって場を動き、それらの中にも全体図(A,B,C)が封入されている。そしてそれらが輪廻転生のように無数の時間に同じ「精神」をもって存在するのが、質量的(横軸)ループ、同じ「肉体」をもって多重人格的に存在するのが時間的(縦軸)ループを形成する。ここでの肉体は別に実際の身体と直結するわけでもないし、精神もまたしかりだからあれだけれど、生命は創発的現象の最重要点であること、つまりトークンとタイプの関係におけるタイプ性の極地にあるということは、大いに関係するようにも思う。

時間がすごく停止していながら日付も感覚もいちはやく過ぎて、昨日でさえもがおそろしく懐かしくなる。

やっぱりいま書いてるこの小説で人が殺せるしこれまでの人生のすべてを費やせているしとりあえず他にありえないようなレベルの世界を描けていると自負できると思うけれど、まだ20年しか生きていないなら電池を早々と使い切ってしまうように死にそうでこわい、たとえでなく本当にこわい。

*すごく遠くの星に生きる、体も記憶も別の人が、ぼくとその場の触感の網の目のたわませ方が同じになってしまった瞬間、その人はぼくだし、ぼくは現在において輪廻転生をし、横軸のループはぼくを複数の体に同時にあらしめ、複数の中心点をともないながら、縦軸の歴史的時間は進みはじめる。あるときに生まれて84歳まで生きて死んだ女の子と、四十年前に電車事故で死んだ男の子が、宇宙のある場所ではいっしょに暮らしていることだって、彼らが互いを見つめ、互いを見間違えつつ信じるようにありさえすれば、彼らはいっしょにいられるし、いっしょにいない星の自分たちとも並存できる。10年前の、まだ小さかった体に入っているぼくと、いまのぼくが、同じようにぼくであると言えてしまうのは、ぼくがまるで転生したようであり、しかし魂はひとつのものとして維持される。つまり、複数の体に一つの人間があれる横軸のループがいくつもの中心点を世界にあらしめることで、世界は年を取る。そういう小説を書きはじめて1年が経つけれど、ここにきてようやく最初のほうに書いた文章がなんだったのか、この世界がなんだったのか、わずかにわかりはじめている気がするし、世界の中の人たちがきちんとぼくでない存在になった気もする。漫画やアニメにおけるキャラクターデザインのようなものを、小説はその抽象性の性質から、即座に持つことはできないから、描く世界が非現実であればあるほど、最初は登場人物が駒のようにならざるをえないけれど、だんだんと体験の蓄積により、その人の感覚が形になってきて、生き物として立ち上がる。時間を経過させることや、最初は生きていた人物を死なせてしまうこと、人物に歳をとらせることなどは、現実の情報や論理をつよく打ち出せば打ち出すほどに自然かつ楽に行うことができるけれど、現実から大きく逸脱した世界へと、徐々に蓄積をたくわえつつ進んでいくことが持つ意義は、大きいと思う。それが、いくら断片性を持ち過ぎてよくわからないものでも「謎解き」を誘発してしまう磁場の形成ともつながる。小説は「美しい顔」と言ってしまえばそれで伝わる一方で、風景の描写の時は読み手のなかの情報を利用していかなければ機能しない。木の描写は木のイメージをある程度持っているから動きうる。だからこそ、最初で大きく現実から離れた世界を説明したり、もしくは現実の因果律にそった世界を提示したりして話を進める。そこから外れすぎると世界としてではなく表現技法として、つまり二次的なものとしてみなされてしまうおそれがある。抽象性が具体にまで発展しないから……そこでしかし、現実から徐々にずれていくこと、少しずつ認知・因果律をずらしていくことができれば、覚めても続く夢のように、世界の謎を作品内の謎と合致させ、つまり作品内空間が現実でありながら物理法則に従わないような、抽象性の読み手内での具体展開の最大利用が可能となる。そこにおいて、なんでそうなっているかはわかるからそこに現実として存在し起こっていることは理解できるけれど、その因果律は現実と大きく外れているからこわい、というような、『リング』のテレビから出てくる貞子のようなことになったりする。それは作品内にとどまらず、現実にも溢れはじめる。と、そこまでいってはじめて、よくある時間感覚のように、縦軸に進む歴史的時間と、作品内に顕著な現在停止、横軸の永劫回帰的時間感覚が同時に一つの世界に封入され、互いに影響を与えながら、現実でも非現実でもない体験を表し続けるようになると思う。そこまでいかないと意味がないとすら思う。84歳で死ぬ女の子と、40年前に電車事故で死んだ男の子が、それぞれの中心軸を持ちながら円を描いていて、その円の軌道が一瞬、不意に一点で重なってしまっただけのことだけれど、すごくそれが世界の発生と消滅のように大きなこととして、しかしやはり単なる偶然の産物として、彼らに降りかかること。

ああそうか、単なる偶然でしかないのか、でもすごく重たいものでもあるのか、なんでどちらか一方であれないんだろう、というつらさばかりがつのることだった……

『プール』も違う場所に同じひとがいたし『マザーウォーター』も全員死んで生きてるみたいですごくよかった。

新聞一枚ごとの隙間に火をつける。

鉱物について調べることが遺伝子や宇宙や生命概念について考えるのと同じくらい楽しくなるというか、ぜんぶに楽しさが見つけられるたびに、選んだのが小説でよかった!と思う。

浮遊する砂漠に囲われた街が、光源から一億キロメートル離れた光のまたたきに照らされ、人間の視覚では捉えられずともカエルの視覚には一日おきに捉えられる流れ星ような光の粒として、スクリーンに痕跡を残した。色彩は、ほぐれた光のパターンにより白だけでない青や赤や黒の環に分かれて映り、境目はあまりに個々の光の粒が小さすぎて空間として記されず、しかしカエルの脳裏には錯覚した電子情報として色彩の谷間が見えた。その点滅する落ち窪んだ街の谷間の底にそれぞれ、石英や黄鉄鉱、硫黄や藍銅鉱や蛍石といったきれいな鉱物が、柔らかいものも硬いものも、丸いものも尖っているものも、すべてが街の散り散りになった線路の上や、根元から折れた街路樹の植え込みや、遊具の半分解体されたまま放置されている砂山だらけの公園や、海岸付近の工事現場や、違法駐車のバイクとバイクの間や、そういったあらゆる場所にくまなく置かれているのだった。

中略

どれかひとつの、またはいくらかの数の街の風景を選ぶことはなく、ただ総体として街にはあらゆる鉱物が並べられ、撮りきられることのない量の航空写真を、ヘリコプターの腹部に搭載された広角レンズの奥のメモリに与え続けた。レンズを通り、画像データとして処理される街の光沢は、街に置かれた鉱物がすべて同じ種類の鉱物であったとしても、鉱物の表面の滑らかさによっていくらでも街の航空写真の美しさを増やした。

以下略

相対的に主観の位置する宇宙では接触できず、しかし量子への干渉として間接的に観測される多宇宙内の平行宇宙が、量子に干渉することの前提として、近い宇宙であることと、観測する量子以外の環境は同一であることなどがあげられるのは、質量的ループ・同時的輪廻転生・回想における自己同一性を導く。平行宇宙や量子論的多重性は決して分岐や可能性のあり方ではなく、それそのものとして実際に存在し、しかしこの宇宙の複数の粒子には影響を与えず、それそのものの粒子のみに影響を与え、動きや状態を、単独宇宙ではありえなかったようなものに変える、つまりは平行宇宙は星空のように質量的に存在する。書きつける論理と読み取る論理が相互的に情報を創り上げ続けることを、その創発現象に焦点をあわせて見つめることが、もちろん膨大な量の情報を受け入れなくては認知できないだろうが、それそのものとして生きることであり、量子論的多重性についても、そのものとして見つめた方が世界を理解しやすい。つまり、量子論的実験により導き出された、あまりに些細で、しかしあまりに歪な世界観は、世界を複雑にするのではなく、世界をひとつの説明、質量、物質に絡め取っていく認知方法として、むしろ単一性を帯びていく。一=多。横軸的にわたしの影を平行宇宙に見るならば、おのずと縦軸のわたしも見られる。

でもなんでこの世界はこんなに仕組まれたようなできごとを偶然と言って目の前に差し出してくるんだろう。

創発現象の際たるものとしての生命が、単なる光の粒子の帯びる量子論的ゆらぎと同等の情報処理しか行わないと、誰が信じるだろう?

楳図かずお「人間が成長してもっと大きくなるためには、「14歳」という子供の世界をうんと拡大して進化することで人間の未来をつかむしかないだろう」「「子供」の対応能力の幅を取り入れながら知性として先にもっと進む」

感覚が視覚における現実原則を崩壊させることで、言葉のもつ単線的思考と認知の関係すらも一度断ち切り、言葉が口ではなく耳から入ってくるようになることで、現実原則は言葉によって再び開始され、しかしそれは徹底した能動性の欠如として錯覚されることで、世界には歪な変身があふれる。樫村晴香の指摘する小説の欠点としての、また同時に漫画の優位点としての、メタモルフォーゼ=輪廻転生=死との和解。楳図かずおは、単線的でない、神話的な非線状でありながら、受動的メタモルフォーゼを貫き、死を恐れ、輪廻転生を拒絶する。その奇妙な中間点(創発的上位)はいったいなんなのか?能動的輪廻転生ではない形で神話的非線状を見つめること、つまりわたしがわたしでありながら別種のわたしでもあるが、このわたしから遠く離れたわたしを観測不能と見なせるかどうか、いやもっとプラスに、わたしのまわりの平行宇宙を愛し続けられるか?つまりはここでも外的ゆらぎと内的ゆらぎの混同による頑健性と発展性が志向されるという点で、やっぱり郡司ペギオ幸夫の蟹コンピュータの論文のすさまじさがちらつく。

映画『プール』のなかに出てきた猫を見たとき、猫が食べ物を食べようと口を開き、首を伸ばし、横顔がぬめりとともに動いて食べ物をくわえ、何度かの口の動きを経て飲み込む様が、まったく異物で、その瞬間、これまでぼくは生きた猫を見たことがなかったと思った。

小説におけるメタモルフォーゼがデザインではなく概念に寄りすぎていることの重み。

朝日新聞の松本零士さんのQに対するコメント「私も宇宙空間を一生懸命描いてきたが、この作品はまた違った空間が作られている。新しいタイプの表現方法や動き、デザインだ」「艦船のデザインも流体力学的に良くできている。曲線のつながりや動き方をうまく描くのは好きじゃないとできないものだ」「色彩感覚も良く、速く動くのにキャラクターの識別がしやすい」

視覚の持つデザインの力をどのように小説に取り込み、加速させるかをひたすら考えている感覚が近頃はある むしろ、デザインを軽視した見方が一般に広まりすぎている感さえある 物語とデザインが、肉体と精神のように、相互作用でつながっていること 綾波の目の色が物語外から要請されたこと。綾波の目の色がいつのまにか物語内に取り込まれ消化されるような時間のあり方 死してから運命と意思を授けられる肉体 様々な記憶と想起機関に切り刻まれながらも見失われない運動としての頑丈かつ発展性のある生命