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2012-11-13

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「日常的思考の演算が、主文の主述結合にしか規定されないのは、それ以外の関係節的な部分は、他者から与えられた言葉としての確実性、一挙性としての権利をもたされるからです。言語によって思考する時、真偽判断は主述結合の可・不可という一挙的瞬間性に縮約され限定され、それ以外の述語に関わる関係節的な部分は、全てただの言葉であって、その組成を再度疑うこと、再解凍することは許されません。この部分、つまりニーチェの学説の中身や、サイコロの形状と目の出方の比率との関係は、いわば伝聞された内容、同類からの信号のようなもので、その部分の確かさについては、判断をしないのが人間的思考、というか、動物の行動様式です。この規則は、もともと言語とは、完成された形で他者から到来する、という事情、そしてそれを受容し、あるいはその組成に同化することが、認識と生存の利得にかなっている、という、すでに述べた経済原則によっています。 」

「古典力学的な思考において、客観性や実在性の根拠として当然視される、観測あるいは認識の一挙的瞬間性とは、単に視覚的認知の習慣に由来するものでなく、日常言語の演算規則の効果を、不断に受けていることです。そしてさらにこの根底には、他者との関係が存在します。明証性とは、しばしば視線の全能性と混同されますが、これは言語の演算組成と他者ないし母への依存の効果の下にあり、この全ての要素の絡み合いは、神経症的な幻想において常に完璧に観察されます。ソフォクレスのオイディプス物語を、ぜひ直接読んでください。あるいは普通の人の場合でも、例えば子供時代の記憶に自分の姿が見えるような感じがし、さらにそれを見るもう一人の自分も感じられる、というような二重性の形で、この幻想は容易に体験されます。ここで記憶は、画像情報としては実際はほとんど解体し断片化しており、それを言語的思考の効果のもとで、再度視覚的イマージュへと再組織化する過程で、この二重化が生じます。つまり、言語的記述や判断が、その一挙的な確かさを自己確信する根底には、他者の言語組織への受動的同一化の過程がもともとあるので、思考の効果のもとで視覚的一挙性が再組織化され造形される時、その視覚像の視線の場は、他者の場所を自然に採用することになり、そこで記憶の中にある自分と、それを見る視線とが、事後的に分離されることになるのです。 」

「真理とは差異と現実を単一の項へと圧縮する、快感原則と幻想の作用であり、それゆえ、例えば「人生にはその喜びにつり合うほどの悲しみもある」というような、間違ってはいなくても、何の差異も情報もない記述も、人間的精神には一つの真理として機能します。これは科学でも同様です。例えば惑星軌道が円周だと想定されている時、その想定からはずれる反証材料が観測されても、その差異性、現実を認識に取り入れるには、楕円軌道という新たな体系が必要であり、楕円方程式がもつ円周のそれに匹敵する平明性、つまり快感原則の作動がないならば、反証性は認識に内化されません。認識とは一つの方程式から外れる点を発見することではなく、あくまで二つの方程式を分離することでなければならないのです。」

樫村晴香アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」

http://www.k-hosaka.com/kashimura/ain.html

「この太陽系にとどまらず、銀河系宇宙に見出されるすべての惑星、それになお別の複数の宇宙、そこに見出さるべき無限なほどの数の惑星のうちには、地球と似かよった環境の惑星も、やはり無限なほどの数あるだろう。そこには人類と似かよった生物も、これまた無限なほどの霊が見出されるはずである。そのようなほとんど無限の数の人類、また人類に準ずる者らについて、宇宙船で訪ね歩く。それはそのいちいちの惑星に、それ固有の時があり、つまり空間×時間のユニット群を一望のもとに見わたしうるならば、それを見る眼は、地球の人類史の全域にわたることどもが、いちどきにすべて起こっているのを眺めることにもなるだろう。そうだとすれば、その眼はそれらほとんど無限に近い空間×時間のユニットのなかから、ゲームのように任意の現実を選びとって、人類史をどのようにも組みかえることができよう」大江健三郎同時代ゲーム

書き手を殺した上で世界をみるということは、登場人物と語り手のあいだの憑依関係からはじまり、この世界にいるということ、わたしはあなたではないがわたしはあなたからわたしを得たということ、物理的に生きていること、小説が時間の集積という形でしかあれないことなど、様々な次元の問題となる。

現実に生きているわたしの病理的分裂運動が書き記す小説内の病理的分裂運動により、現実のわたしがさらにわたしと新たな関係を獲得する それは類似性の類似による無限後退というよりは、階層形成によるゆらぎの内包、頑健さの所持につながり、死へと追い込むはずのゆらぎが推進に転化される。

ある種の群化に近い?まるで指先の意思を感じること、それも異物としてではなく、わたしの身体でありながら別の個体として尊重すること、自分の指先や足の爪、ふとももの皮膚、眼球、大腸と会話すること、忘れていたコミュニケーションに復帰すること、それによりようやく一歩前に歩行するありかた。

輪廻転生が空間的に存在することにより、まるでバタフライエフェクトのような波動を生むが、しかしすべては因果関係によりつながっているということでもなく、あくまで輪廻転生は別の時間と場所にあらわれることだから、バタフライエフェクトも確率論的な領域で起動する。確率を抱え込むこと。

あくまで決定論的ではなく、すべてが確率として、複数同時に一点に存在していながら、複数であることを意識することで、揺らぎに耐えうる世界観、運命論が発動する。つまり「わたしは死んだことがないから死なない」「わたしはあなたがどうしようもなく好きだ」といった絶対性も見出される。

それは一見して奇妙なプラス思考、楽観主義にうつるかもしれないが、ここには自らの死、他者の死、世界の消失までも事前に書き記された紙の表面で行われる、バグを念入りに除去もしくは予防された、バグすらもゲームとして遊ばれるプログラムが形成されている。

おばあさんが連れて歩いているハーフの男の子と女の子がウルトラマンのうたを歌いながら「ここは迷路みたいだね!」と言い、日の丸を指さして「アメリカの旗!」と言った。

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の急速な古典化。

クロード・シモンは電話の先が会議場のざわめく会話につながってしまうという表現を用いたりするが、それを時間と場所の撹乱の結果としてではなく、逆に時間と場所の混在の方法としてあらしめ、テレビから死者があふれ出るように、読み手の世界を更新し、認識のレベルから許してもらわなければならない。受話器から会議場が導かれるのは聴覚、テレビから死者が出てくるのは視覚に依っていて、そのつなわたりが方程式証明の根拠となり、生存領域を広げる……いや、もちろんそれは単純化したものであり、本当はもっと複雑な、恐怖や呪いや超能力といった概念・感覚・認識方法・歴史の多層・多枝が結実した、つまり蓄積の結果としての物語的現出であることは、間違いなく、それゆえ小説や映画の「長さ」が、さらに言えば時間が必要条件として得られる。

なぜ未来を過去形的に書けないのか?現在形や推測や断定などでしかあらわせられないのは、未来を単一化することしかできない極めて常識的な言語使用の結果ではないか? でもこれを、わずかな言葉数で示そうとしても、未来と認識することを拒まれてしまうから、長々と時間をかけて、長々と書くしかないというのがある……

『わたしは真悟』における段階の重要性。333からとびうつれ、という荒唐無稽な言葉を信じた子どもたちが生み出すシンゴが神として語ることによって、現実は何重もの「信じること」に塗り替えられ、多層化し、世界は斑模様となっても地球であり、そこにおいてシンゴは現実化する。シンゴはしかし単なる機械でもあることを強制させられる。世界は子どもだけでない。宇宙よりも大きな変化として、人は「大人になる」。記憶や力や視点や肉体を失いながら人々を誕生させたり回復させたりするシンゴは、「信じること」を世界に還元しながら、自ら「信じること」として父に言葉を返す。父の語った言葉が、父に帰ってくるのは、そのまま帰ったのではなくマリンやその他たくさんの「信じること」を介して帰ってきたのであり、残る言葉は、「いつかは大人にならなければならない」「いつかは夢から覚めなければならない」という現実的視点に全力で刃向かった結果としての痕跡となる。すべての時間が、アイという一言の、夢から覚めたあとも残る夢としての現出を導く。

『わたしは真悟』の語り手がシンゴであることは本当に大きいというか、大きいように読めてしまう。登場人物と語り手と世界のあり方が……シンゴのように語り手が生まれること……

たま『夢の中の君』を起きてすぐに数十回連続できいていた。

それとつながるようにして、保坂和志「未明の闘争」でぼくは映画を見てもほとんど泣かないから読んで泣くなんてことはありえないけれど泣きそうになっていた。

これを連載でなく一冊の本として読んだ人の中にどんな時間があるのか?もう38回目になるなかで時間がまざり死んだ犬や猫が生きている今が急激にめくるめくのは語り手の一元性を想定することでなんとか処理してしまえていたが、実際に、タイムスリップしたように私が私に会い、生者を弔った。

そう、ある種の想像の地続きによってわたしの見えていないところまで見えてしまうようなあり方がわたしに対して行われているような、すべてのわたしが今ではないのに今になり夢の中で夢が現実化し、死者であるわたしを現在に蘇らせ対面し弔うために世界が語っているような、つまり書き手は世界か……

絶対的に過去であることは、今すでに死んでいるはずの、死ぬことがわかっている猫や犬といっしょにいることでわかるのに、それが「小説を書く=思い出す=存在させる」という行為によって現在となり、さらにはそのなかで「思い出す」ことによりいつまでもあなたを生かそうとする、つまりあなたは死んだ。

今が仮想になる。

「この曲が『ストーミー・マンデイ』だとしたらソフトというか明るいというか、リラックスしているというか、音が空間を漂う」

「この部屋を米軍の輸送用ヘリコプターから高性能の双眼鏡で覗いたら、抜け殻のスーツだと思われるだろうか。真っ昼間ホテル十二階の一室のベッドにスーツが人の形に投げ出してあるそのスーツはまるで人間みたいに茫然としている。輸送用ヘリはいつになく低くベイブリッジの真上を飛んでいる。夏のあいだだけ夜ポチは玄関の三和土で寝ると真ん丸くなって眠った。」

「いまはまだ赤のあの横断歩道まで早口で五回唱えきるまでに辿り着き、それまでに信号が青に変わってその青のあいだに渡りきれれば私はその小さな成功の分だけヒサの気持ちが私に戻ってくる。」

FENでかかっていた音楽が針飛びを起こして同じフレーズを何度も繰り返して時間が前に進まない。時間は前に進まないのに自分の考えはちゃんと前に進んでる。いや、そう思ってるだけか? と進まない時間の中で考えは進む。いや、これもそう思ってるだけか?」

「これがオールマンだとしたら、高校三年の一学期の期末試験の日に廊下で速水がいきなり「オールマンがいいんだよ!」と言ってきたあのうれしそうな顔を思い出した。そのときの自分の顔とそのあとの速水の顔は何も憶えていない。私はとうとうここで聴くまでオールマンを聴かなかった。」

「私は後ろに誰か立ってると感じて思わず天井近くを振り返った。」

ぼくは保坂和志は未明の闘争を書き続けることで一線を越えるんじゃないかと、それがいつか来るんじゃないかと、つまり壊れる瞬間が訪れることを期待して一年前に連載の十何回目かを読んでいたけれど、それが本当に来てしまい、未明の闘争自体が終わりそうな雰囲気に包まれているが(以下次号)だ。いや、まだ残っている、わたしでないあなたが別の誰かに強く自分を見出しているさまに戸惑っているわたしが、時間の超越と想定ー断定の回路を担保する「わたし性」だけでなく、あなたをも回路として用いることが、残された使命としてきっとあるから、まだ終わらないだろうし、終わらせて欲しくない。この時間性の揺らぎは、揺らぎというより憑依というか、すべて個物として現出させる磁場の生成が絶えず拡張されることにより生じる空間性に近く、その意味で他の様々な小説とは位相が異なる。連載の最初のころのあの極端な実験性というか、自分に対して揺さぶりをかけ続ける書き方が、内部にゆらぎを生じさせ、外部のゆらぎをも内部に取り込み、つまり世界とわたしが反転してつながるようになってしまった極地に至っているけれど、そこからもまだ存在する他者を……

未明の闘争の第一回から読み返すと、あれだけ歪に感じられていて読むのがおそろしく大変だった文章がすらすらと読めるし、38回目の文章がすべて一回目の文章を塗り替えてしまっているようにさえ思い、すでに相当に揺さぶられる。そもそも三年前、というのは連載開始であって本来書きはじめたのは五年や六年も前のことらしいが、このとき書いている「今」はすでに相当に過去だ。語り手が語られるわたしのことを書くときに「今は猫が二十歳だったり病気だったりするからこんなことできない」と言うが、じゃあ38回目の語り手は?すなわち今の憑依が、書く時間のなかですでに生じているからこそ、その回路を用いてさらに過去まで憑依できるということもある。小説を書くことは時間の経過を内包する運動であり、また読み手にとってもそれは同じ……

「私はあのときに戻ることができるなら戻りたいとずっと思ってきた。あのときの自分を見に行くだけでもいい。私は海岸の途中で私がジョンを連れて歩いてくるのを待つのだ。翌年の高校三年の夏にジョンは五歳でしんでしまう。私はもし自分を見に行くことができたら、時間旅行の禁を破って、来年死んでしまうことを高二の自分に告げてしまうかもしれない。高二の私は耳を傾けるだろうか。」

「私はあのときに戻ったら、もうすぐチャーちゃんが白血病になることなんか全然知らないふりをして、ブンとチャーちゃんのプロレスごっこを笑って見ているんじゃないか。あれを笑って見ていた自分、チャーちゃんが死ぬなんて考えもしなかった自分、この世界に死があることなんか本気にしていなかった自分、毎朝とてもすがすがしい気分で目覚めていた自分、私はそういう自分がかつて確かにいたのだった。」

この両立……

そして38回目。

「もしもう一度ジョンと会ったら私はジョンを抱きしめて思いっきり頬ずりしたい。「ねえ、キミ、ちょっとその犬触らせてくれないか?」「あ、はい、どうぞ。」私はたぶんずいぶん間抜けな感じで突っ立っていたと思う。」

この時制と推測はなんなのか。

「私は砂に膝をついてジョンの首に手を回して長い顔に頬ずりした。何年ぶりだろう。俺が犬だったら、「ああ、間違いない。これがジョンの匂いだ。」と思って、この匂いを嗅ぐんだろうなあ。それを今ここで思ったということはこれをジョンの匂いだと感じたからなのかもしれない。」

今・これとはなんなのか。

これを連載中に読めてよかったのは強くあるかもしれない、一冊に完結したものを読むのとは緊張感がぜんぜん違う……

偶然そうだったからよかったけれどもしそうでなかったら、という想定は、できたとしても、たとえばぼくの生まれたのが1年遅かったらあなたと知り合いませんでした……というのは、死を逆転させようとするくらい、空振りになってしまう。でもその頑健さは、書き換えられるHDDのようにあるから……今こうなったという形での今は、揺るがしがたいくらいに事実として存在するけれど、その外観でなく内側が塗り替えられ続けるのはある。それは矛盾なく生じる。未来を知りながら未来を知らないで生きる、未来を作りながら生きるというのはあり得る。ひたすら輪廻転生、それも前世がどうとかそんなことまったく考えたこともないのにぼくはひたすら輪廻転生、反復、繰り返し許す基調音とともに書いている……反復を呪い続けるために反復を書いていたのが、反復であらせるために反復することになる……

『その日のまえに』を見終わったけれど、始まって140分ずっと絶えることなく泣いてた。未明の闘争で泣きそうになったのもそういうことか……という感覚が強いけれどぼくがなにを言ってもあんまり意味がない気もするから……

未明の闘争2回目。死んだ篠島が歩いていた夢を見たときには猫三匹は生きていた。まだ逸脱する情報がきちんともどってくる。これが現在を仮構する。

小説における現在は、収束する点として想像されるため、たとえ過去であっても現在は仮構されるが、逆にいえばいくら現在形で書こうとも収束がなければ現在が生まれず、現在というよりかは無時間に平面化する。それは書き手にも無意識に生じうる。つまり子どものころのことを書いていると、覚えていなかったはずのことまで描写しているうちに、「今」や「これ」と書いてしまうことがある。それは時間の錯綜などではなく、ごく自然な時間認知としてある。小説は過去を偽造しそこに憑依して現在化する。過去を思い出す力を登場人物に与え、さらにそこから過去を作らせる運動を持つために、現在と過去をやたらに錯綜させない。思い出す、という機能を十全に用いる。もちろんそのなかで、過去がつながった、という意識を強くもったまま、過去の人が現在に歩いてしまうことは、極致として、よい。では語られる情報とはなにか?情報が収束する地点としての時間と、情報そのものが帯びる時間がある。それは語り手によってもたらされるとも言えるし、また逆に語り手を規定するとも言える。あらゆる断定は、他者への信頼という狂気のもとで駆動し、その信頼とは登場人物同士にも生じる。ここでもまた! 普遍的な状況情報の語られる文章が、人物や事件を主とした個物に収束するとき、語り手は個物によって憑依されたとも言えてしまう。その意味で語り手は作品内にも現出し、信頼は多層となる。このとき、夢における「体験していないはずの過去を思い出す」ことにもつながるし、語り手が知り得ないことを思い出すのにもつながる。当然、わたしにとって過去のわたしもまた現在のわたしを語りうるという意味でもある。特定の個人やケースを語ることが普遍につながってしまうのは、ある種の能動受動の往来、その可能性が根本原因にある。内部のゆらぎと外部のゆらぎの混同。群れのなかのわたし……過去のことを語るなかで提示される現在から見た情報は、時間が現在になったのではなく、現在が過去によって思い出されることにより現在が視認する。幽霊は肉体を持たなければ涙を流せない。

午前1時40分コンビニの前でうずくまっているかと思ったらコンビニに入ってきてスープと発泡酒を買ってコンビニの前でスープを食べている女のひと。