2012-10-20

カフカのあの内分裂、書き手がその時々の、ひとりひとりに憑依しながら、別の時間に書かれた言葉や、他の人物に対して絶えず驚きを感じながら、つまりすべてが断片でありながら、長編が書かれるあのSFと見紛うまでの異常な生き方……SF小説がなんであんなに書き方として単調なのか、ギミックをひたすら使うなら同じ程度に文章を使えばいいのに、と言うとまるで変なあてつけに聞こえるかもしれないけれど、小説での文章は世界を記述しつつ人物の持つ因果関係も描くという意味で、ひたすらに書き方がSF的であるべきという……SF的と言うとまたぼくの悪い癖、言葉の過度な使用になるかもしれない ただ、ギミックが世界の未来を描こうとしているにもかかわらず、それを書く言葉や因果関係があまりに古臭すぎるのはどうしてなのかという疑問が絶えずある どれだけ技術があっても使う人間の倫理が古ければ意味がないように……たとえば小説を書いていて、自分が書いたひとことに、「そうか世界はこうあったのか!」と思い、それまで書いてきた数万文字がまったく塗り変わってしまうような、そんなあり方を世界や、おおざっぱな言い方をしてしまえば科学に求める。その意味で、未来は時間的なものから離れ、過去にも見出されることになる また同時に、時間軸的な未来は、すべて決まっていること、わかっていることとして、過去的に理解されうるとも言える そして結局は未来を決める基準としての現在としての今のわたしの肉体……未来、を補足すると、火星人を信じた結果書かれた19世紀などの小説は、SF的未来を今も描きつづけていると思うのです。月のあのへこみはクレーターではなく火山であり、キリストの自己犠牲は宇宙人にどう関わってくるかの議論……こんな非現実的な……いや、これは実際に見たのです。と、言えること。そのためならホラーでも童話でもなんでもいいからやっぱりSFって言葉を用いるのは逆に誤解を招くかもしれないけれど、科学のあの具体性、自律駆動、論理性はすごく強い。そしてできれば小説という時間、構造を通すのだから、最初と最後でまったく次元の違う具体性へと……書いてる小説が、いつのまにか多世界解釈とループと宇宙のまざったような世界になってきてしまったのです。

「各個体において、自らの潜在するものと、自らの実現されるものが同時に生起することはなくとも、個体間では起こり得る。或る個体にとっての実現されるものは、別の個体にとっての潜在するものを想起する。こうして多個体システムにあって、時間は同期せず、因果律はいたるところで反転する」郡司

「個体を構成するタンパク質などの物質レベルでは同じ因果律、同じ時間軸であることを認めたとしても、群れの現象として現前する様々な特徴的振る舞いに寄与するのは、個体間の相互作用であり、各個体の意思決定である」郡司

内的ゆらぎをもつために、外的ゆらぎをも群れの形成に利用してしまう相互予期モデルについて「相互予期で形成される群れは、受動的に速度を変えるだけではなく能動的に速度の変化様式を普段に変える。その群れは、レディーメイドの群れではなく、絶えず自らを解体し自ら生成する。つまり通常から修正、補修を繰り返すような集団現象であるから、ゆらぎに対しても頑健である。この群れを計算担体、計算のための記号として用いるなら、記号自体が予め用意されたものではなく、生成=存在を担保した、拡張された計算過程を開設すると期待される」→兵隊ガニを用いたコンピューターへ、つまり蟹コンピューターはチューリングマシンの自然な拡張として要請され、その先にあるのは、人間と機械を判断するチューリングテストの自然な拡張……そう、内的ゆらぎをもった個体が計算記号となって行う計算は、外的ゆらぎを取り込んで高いパフォーマンスを維持し、さらには強化する。単一テーマに圧縮制御された小説は外的ゆらぎによって急激にパフォーマンスを落とす。同様にそうした小説の読み方は単なる一観測しか示さず、物足りなさすぎる……相互予期で形成される群れは定向性が低く、密度が高い。また、過去の履歴を用いて相互予期を実現する。相互予期的群れ=登場人物andその瞬間の書き手 もたらされた頑健な計算機=小説and書き手の総体 つまり個人はカニの群れ スイミーのような細胞・瞬間的(過去/未来)自己によってそのつど論理ゲートを構成し、真理値を弾き出すあつまり また同時に、スイミーは魚であり、スイミーたちのつくるものも魚である。つまりここで言う構成要素としての細胞は人間であり、つくるものもまた人間。計算機=小説が書き手と混同されるのもつまりは人間であるからであり、ここには時間が縮尺を変化させる機能を持つことが示されている。言い換えれば、スイミーたちによってつくられた巨大な魚にとって、スイミーたちは過去や未来の自分であり、次の瞬間には巨大な魚と小さなスイミーが入れ替わる。個々の小さな魚が巨大な魚に圧縮され、また拡散する。そしてそれを見て驚いて逃げたマグロが、事後的に個人としてのスイミーを示す。もっとわかりやすく……たとえば友達と街に遊びに行った時のことをブログに書く。書きながら、なんで友だちはあのとき怒ったのかな、と思う。書きながら友だちに関する今日より昔の記憶を探りつつ、今日の友だちの行動を未来に位置する今の自分が説明し、過去の友だちを理解する。そのなかで、しだいに文章が丁寧語からそうでなくなり、いつのまにか今日街に行ったことではなく、自分の考え方の吐露になっていたりする。ブログの最初の文章と最後の文章では、書いているわたしが違うし、今日街に行ったわたしとも違う。しかしブログの記事の書き手はもちろんわたしに変わりない。憑依によって得られた、時間的・空間的個体同士が、互いに自らを逸脱するような経験=計算を行うことで新たな構造形成に開かれること、つまりそれがエビの出産であり、エビはきっと生きてくれる……