2012-07-25

一時間に一回の巨大な頭痛は、残りの59分59秒を怯えさせる。

細胞のひとつひとつが別れるその境界に言葉が入り込んでくる。それによってぼくは複数になるけれどぼくは拍手もしないし声も出さない。ただジャムのにおいがするって言うだけで、ぼくは場の運動としてのぼくと同期しながら過去を掬うぼくとして、全体を内包する。ぼくが複数でありながらひとつの巨人。

ぼくはぼくの安心できる人が近くにいたから拍手も発声も警官への従属もなかったのがあまりに大きい。ぼくはそれでも一人だったら拍手していただろうと考える。ぼくはぼくとしてありながらぼくでない運動に身を任せるぼくも感じ、それは巨大な場を描写するぼくとして巨大化する。枠組みとして、身体。

どれだけの複数の直線を抱えられるかが価値基準として機能する。他者の発言や運動に過度に影響を受けながら個体としての生存を保つ摩擦を抑え込める体力。さまざまな細かな聴力、視力があることをひしひしと外部を通過した認知によって知ることが、絶壁に張り巡らされた脳に至る回路となる。

こうやって言葉によって感覚を沈めてる。そうやって吐かれた言葉を読んだ論理的な現実のぼくがビジョンを求めて頭を抱えるのを笑う。

「地下鉄でずっと」とまで言って「生きるのはいいよね」と言おうとしたけれどダメだと思ったから、「歩くのはいいよね」と言った。ぼくはその言葉は絶対に正しいと思ったし今でもそう思うけれど、すぐには自分の言ってる画像が思い浮かばなくて戸惑った。そういう感覚として小説を書いてた。

となりにまったくぼくでない人がいて、ぼくはその人の染み込んだ存在であるという意味で、ぼくであるしかないのを俯瞰的なぼくが見ている、そのすべてがぼくの子どものころから携えた肉体によって維持されている恐ろしさを、皮膚や頭蓋や肺呼吸に、具体的運動として読み取れる機会はほとんどない。

なぜAという言葉が発せられたのか?なぜBという現象が生じたのか?という疑問の答えを設定的に用意するのが単純に過ぎるというのは確かだろうけれど、それはその時点で終わるからで、オブジェクトとしての囲い込みとそことの回路(摩擦係数)の強化と維持が行われるのなら一旦の設定化も発展になる。

設定に落とし込める弱点は、複雑な回線をあたかも一本化し理解したかのように思わせてしまう、つまり怠惰にしてしまうことにつきるけれど、それはなかば仕方がない本能でもあり、たとえばどれだけ必死に複雑さを維持しようとも、なにかしらの傾向が見え隠れする。感覚的反復がさいたるもの。

設定に落とし込めながらさらにそれとの摩擦を設定化していくその循環が、夢からさめながら夢であることを発見し、ということはつまり夢は夢でなかったことをも発見するような「すべてが現実である(すべてが設定である)」状態を呼び込み、読み手は知らず知らずのうちに過度な運動を強いられる。

いま7月15日現在にいるぼくが11月17日にエヴァを見に行くことを想像する。映画の帰り道に電話がかかってきて、7月15日に約束していた友だちと食事をする。明日は7月16日であり、しかし11月17日の映画を見に行ったこともまた事実である。そうやって今のぼくが子どものころのぼくを思う。

夢でない現実を描くために夢を通過させることが必要となるように、設定や物語が物理的外部としてぼくの外にありながら、ぼくはそれらの分離を収めているのがぼくの肉体としてあらわれる、という意味で体が健康でないといけない気がする。

物質的な階層からのリンクによって抽象的領域につながることが全体量の輪郭を真に不定とし、さらにそのリンクが細く可変的なワイヤーであることによりリンク先の抽象性が内部に複数を複数のまま蓄えこんだ存在となる。物質的階層は地図として視界におさまる対象となるが、そこに描かれた配置の間にリンク先の抽象性の中の個々のパーツが注射針的に挿入され、地図は止むことのない肥大化をしていく。つまりリンク先にある抽象性とは具体的個物の複雑極まりない連なりが認知限界によって抽象性に転化したものであり、その具体的個物の連なりを導く最も手頃で高性能な計算機が、地図上の人間だ。そしてここで生まれる運動こそが、地図上とリンク先の相互介入、どちらが先とも言えない痛覚、その一体としての具体的現実となる。複雑は認知されない限り単調と変わらず、そこから脱するには相手の視界への身体的侵入が必要であり、そのためにも相手の口内へ直接地図を押し込まなければならない。いったんそのような地図が描けたのなら、次は地図に拘束されない、しかし地図上に表記され続ける個人を確保しなければならない。つまり自由にやってもらわなければならない。最大限の認知機械としての役割をはたしてもらわなければこちらには損しか残らない。地図の居住費を支払ってもらう。だが個人に「地図上で自由に動け」と言っても理解してもらえないし、そのようなリンクの貼り方は個人の機能不全をもたらすのは容易に予想できるため、やるべきは地図のデザインの圧倒的強度を獲得することである。広大さと視認性。そして頑丈な地図になるべく可変的で壊れないワイヤーをつなげる。地図の視認性とはもちろん受け手側の認知を促すものではあるものの、それ以上にリンク先の抽象性としての個々人に対する視認性である。個々人が自分の周囲十数メートルは風景が見えていなければ、具体的パーツが手に入らない。その意味で階層はここでもまた入れ子構造的に歪曲される。あまりに激し過ぎる階層の互いの挿入と排出が、地図の書き手の視神経すら疲弊させ、眼球を爆破し、わたしには十数個の眼がある……

樋口さんがこのまえ言ってた「テルマエロマエの阿部寛がイタリア人に見えるのは極めて特撮的です、そのように特撮はあります」が本当に大きいと思う。着ぐるみを着たおじさんがミニチュアの街に立ってることを「怪獣と戦っています」って言ってしまい、了解させてしまうことがフィクションで、この不可思議な断定を作り手が確信をもって行うために、特撮の技法や監督の直感的センスが求められる。つまり監督の身体は視聴者の身体と接続する回路。本当に脈略のない「あ、この言葉なら伝わる」っていう直感というか気持ちは、身勝手な妄想とはまったく違う圧倒的な他者性を帯びてると思うし、それくらいの価値あるものだからこそ、そこに至る労力を惜しんじゃダメだと思う。

地図とその上をうごめく抽象性って考え方は、それぞれの階層が色付きガラスのようにあり、上のガラスは下のガラスの模様を動かす動力となり、無限に階層が積み上がっていくのを上から見つめるその超圧縮された平面の色の蠢きとして考えるうえで、すごくぼくの中で重要なものだと思う。ハードウェアとソフトウェアが、相互に与える負荷というか熱というか、それらと、色素の提供を他の総体から移植されるネットワークとか、そういう話でもあって、また、階層一つ一つは時系列になっていて、過去から今から未来から、縦に連なっているのを上から平面的に見るのです。死んだ人の色素がガラスに付着したままであるから、ガラスの総体としては、死んでも生き返ると同時に、死んでない人の身体にも可能的な死が注入される。その意味でみんな死んでるしみんな生きてるゾンビ。ここで、一枚一枚としての「書くわたし」と、地図上のリンクとしての、つまり周囲数メートルしか見渡せない「書かれるわたし」と、さらにその上に全体を圧縮平面として見ている「生きているわたし(の身体)」があって、このガラスの地図の構造体のあり方が回路として外部のガラスの構造体とつながる。地図上にも主観と他者がいて、地図を書く主観と地図のベースになる他者がいて、地図上のリンクの持つ色素を外から受け取っていて、すべてを圧縮して見る身体を他者というか親に産んでもらうしこの肉体の遺伝子設計図はさらに大きな(どこかにあるだろう)ガラスの構造体から受け取っている。

「桃もらったのいいでしょースイカぐらい食べたら?」って言われた次の日にマンゴーを唐突にもらうような人生を送っているのです。

「手の運動を含む文(鍵を回した、など)を聞くと、運動野の手の領域が賦活、脚の運動を含む文(草の上に足を踏み出した、など)を聞くと、脚の領域が賦活する」「「金槌」という名詞を読むか聞くかしたとき、「打つ」という動詞を思い浮かべる」

人工物であったはずの巨神兵が、人を作り出した発端としての、つまり起源としての神になり、裁定者として死んでいくその因果関係の逆転と生死の混在運動によって、描かれる以前まで描かれた存在が介入するそれこそが巨神兵としての全7巻となる。すべてがプロローグだとさえ言える。巨神兵を生成するための思考の過程、蓄積が過度な密度によって行われる具体的現象の圧縮羅列を書くこと、そして読むことを可能にし、その情報量が因果関係の逆転や生命の生成をもたらす。長編でなければならない。12年間?描き続けなければできなかった。オームや現在の人間たちが人工物でしかなく、最終的には死ぬしかないからこそ、繰り返し死に続けつつ生き続けるというその運動=生命が、漫画としての全体とさらにイコールを結ぶ。構造が最初にあるのではなく、ひとつひとつが積み上げられていった末端地点に回路が収束していくように見える。そうとしか書けないと思うし、そうとしか生きられないと思う。人工物がその運動によって創造者を超えて生命的であること、しかし創造者も人工物も生物に変わりないということが大きかった。