2012-07-13

主語のない描写によって描写が行われた後、語り手であるはずのわたしがそこにいないことがわかれば、わたしは曖昧に一元化されたわたしではなく、具体的に内部分裂したわたしに変化する。それは「わたしは」という主語によって書かれた文章のもつ因果律を語り手のわたしが客観的に想像する行為になる。語られているわたしが客観的に見られる、つまり、わたしが思っていることをわたしが驚きつつも見つめるのが認知としてあらわれ、それはいつも人々が日常として、書かれていない主語、場合によっては書かれている主語すらも想像して読み受け取っている平穏な状態を再考させる。「~なのに」「~だから」というような、文章の持つ構造を、はたして誰が所持しているのか?曖昧に揺さぶられたわたしではなく、具体的分裂(再考)を強制された認知が、「私は急に怖くなった。」という単純な文章への、読み手の急接近を産む。いつのまにか、急接近をしないと文章が読めなくなる。わたしが存在していないはずの場所をわたしが描写する表現方法は、主語の失われた文章による、具体的な揺さぶりが段階として重要な気がする。そうやって行われた結果、もはやしっかりと主語の書かれた文章でされ、念入りに所持者を確認しなければならない。それはわたしが生きていることを自覚させる。わたしの確立から、外部憑依、内的分離、わたしの再確立を経ての語り手の筆記が、文章を読み手の中に、単なる文章表現を超えた事物指示となってあらわす。「あれはワンワンよ」「あれはワンワンじゃなくてブーブーよ」そうしてわたしは犬を見、車を見、わたしが生き……わたしの運命は、現在のわたしを通っているからこそわたしの運命だが、過去の、つまり語られうるわたしと、現在の、つまり語っているわたしは、「いなかったかもしれないわたし」や「いるかもしれないわたし」によって、「ここにいるわたし」として信じられ、わたしは奇妙な断定を帯びた文章を書く。過去の要素の中にさらなる複数の要素を見る、つまり過去の要素を集合と見てしまうことが現在を生成し、未来を多重化した瞬間、要素は無限に拡張されることによって、わたしは曖昧な(曖昧であることが約束された)わたしではなく、はっきりとここにいる、絶対に生きている!死んでいない!わたしがいる。わたしがいること。わたしがいたこと。わたしがいなかったこと。あなたがいること。世界があること。それらを信じられる人が、端的におもしろいっていう、ただそれだけしかないです。

「死んだら、あれ、来たの?って言われる、車が普通に走ってる、道路を歩いたら車に轢かれそうになって「おい死ぬぞバカ!」って怒られるのだったら、うれしいかもしれない」

目がよくなってきた。

「足をつかずに、公園の中心で体を崩して倒れるのはちょっと……」「なんで? 鳩なのに?」

語り手のわたしが過去のわたしを語ってしまう恐ろしさや悲しさを通して、断定を自覚した現在のわたしに回帰し、それがわたしでない他者にまで起こることはつまり、わたしはわたしの生まれていなかった過去の歴史まで描きうるということでもあり、それならば描かなければ現在のわたしがない。「AだからB」という構文の「だから」の部分に、それを説明する「だから」がT字型に接続し、さらにそれを説明する「だから」が接続し、というのを繰り返していって一般的認知や歴史的蓄積に接続されたとき、できあがった経路を急速度でめぐって元の文章にもどるその速度が感情として伝わる。一秒という時間は変わらず、距離だけが変わる計測器。もちろんその速度が速過ぎれば情報過多で拒絶されるだろうし、遅過ぎればわざわざ発言する必要性が見られない。どの速度になるかは、わたしの眼球や唇、耳、脳が判断する。つまりそれらは、逆にいえば、この速度によってその存在をわたしやあなたに表示する。いわば、わたしが語るために歴史がわたしという現象を語る状況。そのように肉体そのものがあらわされ、成長し、闊歩するような人間が生成されれば、もはやそれは極めて具体性を持った、つまり曖昧な比喩性でかろうじて立脚する巨人ではなく、矢が当たれば血を流すし、誰かから生まれたし、世界とともに死に絶えるし、子孫も残す具体的巨人として、言語すらも超え、他人種、他国で肉眼確認されるようになるだろう。そうしてはじめて、ある種の宗教的媒体は機能するようになる。実際に死者が生き返るところを見なければ、彼が神の子どもであると誰も信じられない。

すごい、目って急によくなるんだ!って思ってる。

もしもきみが死んだら、呪い殺すから、死なないでね。