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2012-06-16

明示された語り手と、具体性を持った記述、それこそ句読点に正しく区切られた文章が、階層を作るということは上への階段もまた作る。そこを登るかどうかは書き手の肉体的な認知のレベルに依存するものの、小説が最も媒体として得意とするのはその上昇にあるのが確かだとは思う。それゆえ前段階の重要。視覚ほどの具体性を持たない言語のみの小説であろうとすることは、視覚の持つ露骨な遠近法の教育能力を欠いているのに自覚しつつ、利点としての遠近法の拡張やずらしを強化しなければならない。多くの小説は現実を一次とした遠近法に依って書かれるが、一次を小説内で構築するのはその小説を多層化する。平易な言語使用や、描写の存在価値は、視覚情報と近いものとしてあるが、もちろんそれだけなら挿絵をつけたり、なんらかの映像作品の二次創作であったりすればよく、見るべきは「言語による視覚情報の提供には、幼児への母親の教育に等しい、遠近法の贈与があり、それはむしろ植え付けに近い」。アニメにおけるSFは、例えばエヴァをフィクションとして成立させるには、エヴァの画像を提示すればよく、もしもこれが小説だったならどれだけの論理展開なり描写が必要だったか?SF小説的な段階の踏み方は、あらゆる小説にも空間の設計として適用されうるだろうし、それは語り手にもまた言える。結局は書き手がどのような認知方法で世界にいるかが大きいという当然に帰着する、カフカが比喩でない具体としての一次世界を構築しえたのはカフカの認知が狂った状態のままカフカ本人によって確信されていた。自らの確信する因果律を相手に植えつけることができるかどうかが前提としてある。

イヤホンをつけた瞬間、横断歩道で立っていた隣の女の人が「うるさい、うるさい!」とぼくに叫ぶけれど何を言ってるのか聞こえない、殴りかかられたから電話番号を渡す、そういう夢の始まり方だったと思い出した。

机の中に赤いビニール袋が入っていて触ると布の手触りだったからタオルならモラッチャオウカナ、ジョウダンダケレドと思い中を覗くとクリームの挟まったサンドイッチだった。ブルーベリーが入っているのではなくて表面にあるのは黴だと気づくのは今日だったけれど、なんであんなにバラバラに生えるのか

「視覚失認の人々は、操作している対象は知覚できないが、他者の行為を知覚することができる。友人の顔は認識できなくとも、その歩き方から友人を同定する。物体、顔、きめ、色が知覚できないが、運動知覚はあり、投げられたボールはキャッチできる」

わぁー動物園