座談会を 公開、しました

いぬのせなか座 の3人で、収録し、ここしばらくみんなでせっせと取り組んでいた座談を、公開しました。
ここしばらく考えていたこととかをかなり言えたと、ぼくは思っています
たとえば、大江健三郎のこととか。手前における進化とか。新たな距離とか。ここ何年かでできてきた小説観や、言語芸術へのあり方とかについて、詩の読解を通してあらわしたりとか、しています
かなり、いい尽くそうとしたところが、ある

長いけれど、よかったら読んでね
ぼくは最初からかなしいことを長々と話していてあれだけどね

いぬのせなか座

あたらしく集まりを立ちあげます。

くわしくはaboutをごらんください。

「いぬのせなか座」は3つのテーマを重ねながらものを考える場を用意します。
最初の3ヶ月は、余白 ねこ 呪い
あらゆる書き直しを基本にします。
またのちのち、立ち上げのことやテーマのことなどについて話した座談をアップします。

これまで、ひとりで、もしくはいく人かのよいひとたちとで、小説を基軸にして、いろいろ考えてきました。そのうちに、ぼく(たち)の考えている「小説」は、それについての単語を書き並べただけでも、かなりへんてこになってきました。話す速度も、ゆがみも、びゅんびゅんです。
これを、うちうちに閉じ込めず、小説という範囲にも閉じ込めず、さまざまに開き重ねていこうという気持ちで、ひとまず場を作りました。
今後、ゆっくりとですが、みんなでかしこくなれるようなかたちで、やっていこうと思います。なにとぞよろしく

「宇宙を練習したい」

すこしむかしの新聞紙に書いたやつ


 子どもたちは、たくさんのとんぼが入った虫かごを片手に、図鑑をめくっている。節のついた細長い胴体が、少しずつ膨らみ、すばやく動く六本の手足と、石油でできたような羽、とても重たそうな目をふたつもつけている。「地球上で最初のとんぼは、二億五〇〇〇万年前の化石として知られています。」
 二億五〇〇〇万年前! そんなあふれんばかりの時間を、たった十数年しか生きていないぼくらが、目の前でかけ飛びまわる虫たちの姿から感じとるための手段。それは、図鑑をめくること……そして、進化について学ぶこと。❶『進化とは何か ドーキンス博士の特別講義』は、世界的に有名な生物学者が行った、子どもたちのためのクリスマス・レクチャーをまとめた本。映像や模型、楽しい実験をふんだんに盛りこみながら、ゲームでよく見るような、強さばかりを追い求める進化とはちがう、宇宙で生きるための試行錯誤としての進化を教えてくれる。ぼくらはドーキンスさんのもとで、ひとりの科学者になる。
 でも、科学者ってなんだろう。世の中を便利にしていく人たちのこと? いやいや、もっとすごいんだって知らせてくれるのが❷『ドミトリーともきんす』。「科学を勉強する学生さん大歓迎」という看板の掲げられた、ちょっと変わった学生寮で暮らしているのは、若き日の偉大な科学者たち。寮母のともこさんのおかげでぼくらに身近になった彼らは、降ってくる雪を手紙として読み、窓から差し込む雨上がりの日差しに感激する。「ともきんす」の寮生のひとりである湯川秀樹さんは言う。「詩と科学遠いようで近い。(…)どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。」
 なるほど、科学をする人たちは、小難しい理論や正解よりも、公園や山にいる一匹一匹の生きものたちや、植物、地面や空との接し方こそを、知っている。すると、詩で科学をしてしまう人たちだっているはずだ。そのひとりが、宮沢賢治さん。❸『宮沢賢治詩集』。思えば「銀河鉄道の夜」だって、理科の授業の場面からはじまっていた。鉱物や幾何学、地層や太陽系にまで親しむ言葉たちを読むと、ぼくらだって、冬空の下で草むらに頭をつっこみながら詩を作ろう、宇宙のなかでどんどん練習してみよう、そんな気持ちになる。
 そういえば、湯川さんはこうも言っていた。「詩と科学とは同じ場所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。」進化するぼくらはいったいどこに行くんだろう。


進化とは何か:ドーキンス博士の特別講義

進化とは何か:ドーキンス博士の特別講義

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす

宮沢賢治詩集 (岩波文庫)

宮沢賢治詩集 (岩波文庫)


『コルバトントリ、』という演劇を見た日

<SNAC パフォーマンス・シリーズ 2015 vol.1>2015年4月4日(土)~4月12日(日)飴屋法水『コルバトントリ、』

 

コルバトントリ

コルバトントリ

 

 

山下澄人さんの小説を初めて読んだのは、北海道に旅行をしていた19歳と20歳の境目の春だった。ぼくはまだそのころhさんと会ってすらいないし、まだ自分が生きものが好きだったってことをうまく思い出せていないころだった。北海道の、釧路とか塘路町とか知床とかを、ひとりで歩いている時に、保坂和志さんの『カフカ式練習帳』と山下澄人さんの『緑のさる』を持ち歩いていて、いろんなところで少しずつ読んでいたらぼろぼろになった。

ぼくは知床に一度は行ってみたいって中学生の時に社会科の教科書を見て思って、高校の修学旅行で北海道のまんなかのほうに行ったけれどそのときは本当にびっくりした。みんな昨日の夜にトランプをして遊びすぎてぐーすか眠ってた、ぼくだけが起きてて窓の外の地平の勾配と、線路を見ていた。それからずっと今でもいつでも北海道に行きたい行きたいとばかり言ってる。夜の音とか、においとか、視界とか、ぜんぶ、まるでそこにずっといるみたいに好きみたい。

それで、山下さんの小説をほとんどぜんぶ読んできて、とても最近のいくつかはばたばたしていたからまだ読めていないのだけれど、手持ちにはある。前にも書いたかもしれないこととして、小説は考えることなんだってことをとても丁寧に示してくれた人だと思う。ぼくはここしばらく4年くらい考えてたことをひとまずかたちにするっていう仕事に数月くらい前からかかりっきりで、それがようやくおわって、批評みたいな小説と、長い小説の書き直しのものになんとかなった(それと別に、むかしの小説を、お願いされたのをいいことに、書きなおした)。ぼくがいまみたいな考え方と書き方と身のこなしをするようになったきっかけが、あのときの北海道で見たもの過ごしたもの読んだものと、それを抱えてすごした数年間だったと思う。あれがなかったらぜんぜん今なんてなかった。あの流れ星だらけの山の眺めもおかしな見間違いも感激の線路もなかった。そう思うと、世界はどうしようもないなと思う。今生きてるからいい、ってことなんてない。ぜんぜん、ぜんぶかなしいと思う。

ぼくが19歳になったころに知りあって、それからずっと、読むことに関しても身の振るまいに関しても尊敬していて、たくさん酔っ払いながら話したり小説について楽しく必死にいっしょに考えられてたと思う、本当にすばらしい人が、とつぜん死んじゃって、それのあんまりにのぞみのない事務手つづきに追い詰められながら、みんなで本だらけの家に集まって、朝、ベランダさえもない窓の外の道路をちらちら見ながら、なにかをみんなで待った、それから学校のキャンパスをぶらぶら歩いたあの日で、ぼくの人生はひとつ終わったと思う。これからは、ぼくが死んだあとの人のことを考えられるように、小説や公園や生きものや宇宙について、考えていかなくちゃいけないと思う。ひとりで考えるなんてばかだから、みんなでみんなを考えてほしいと思う。書くこと読むことがひとりなことだなんて、誰も一度も思ったことがない。

 

ホームセンターにいるぼくは、床に落ちたキャラメルの塊を踏んだらしくて、足のうらにキャラメルが付いている。あたりを見まわすと、ぼくと同じようにキャラメルを踏んでしまった人がいたらしく、床には、大きな塊とは別に、点々と、小さなキャラメルの塊が落ちている。
辿っていくと、ホームセンターのフロアの角の壁にある洗面所の隣で、男の子がキャラメルの箱をもって立っている。ぼくは洗面所で足を洗って、後ろを振り向いた。商品のベッドの向こう側に女の人がいて、こちら側の男の子に、キャラメルの箱について怒っている。「お兄ちゃんのそばにいなさい!」ベッドの脇に男の人が立っている。ベッドの右半分にベビーカーが乗っていて、そこには赤ちゃんが乗っている。
しばらくして、女の人がバビーカーを覗き込み、赤ちゃんに向かっていう。「ひろき、かわいそうだけれどごめんね」
そして三人ともが店を出て行く。店の外では屋台で金魚が売られている。ぼくは今さっきまで目の前にいた、ぼくの現実とは別のありえた両親と、ぼくが死んだから妹の代わりに生まれたらしい弟の姿を思いだしながら、目の前に捨てられたままの自分の生まれ変わりを見つめていた。